第三話
「・・・暁ちゃん、小林さんを知ってるの?」
結衣の言葉に暁は口を閉じたままじっと見つめる。
毎日会っていた彼女を、暁は知っているのではないかと結衣はその目を見つめ返す。
最近はただ待っているだけの毎日を過ごしていた結衣のもとに、暁は現れ手を引いた。
「・・・小林さんと最近・・、会ってなくて。どこかで見かけた・・・?」
結衣の声は震えていた。その言葉に結衣の腕は解放された。
「ついてきて。」
暁はまたそういって歩き始める。
結衣にはその言葉だけで十分だった。
何かを押し殺すようにつぶやかれたその暁の声に、ぼんやりとすべてを理解する。
息がつまり、座り込んでしまいそうな足をゆっくり踏み出し彼の後を歩く。
呼吸することだけに集中していた。
二人の足音は旧校舎をぬけ、自転車置き場をこえて、後者裏につくと止まった。
「ここだよ。」
暁の声に結衣は顔を上げ、その先にある園芸部がきれいにしている裏庭を見つめた。
梅雨に入るこの時期にしては色とりどりの花が咲く花壇の奥に、緑の草をつけただけの山茶花があった。
結衣は暁の指差すそこへ近づきすとんとかがんだ。
かがんだ結衣よりも一回り小さい山茶花の木の根元をそっと見つめて暁は言った。
「白と茶色のぶち猫だよね。」
暁の静かな声に結衣は顔を上げ涙を浮かべて暁を見あげた。こくんと頷いたと同時、大粒のそれは耐え切れずに零れ落ちる。
「誰かが見つけて埋めてくれたんだと思う。」
「・・・小林さ・・・ん。」
結衣は小さくその名前を呼ぶが、返事はなく、山茶花の木だけが風に揺れて音を立てた。
暁の目にはその根元に白と茶色のぶち猫を映していた。
きょとん、と結衣を見上げているつぶらな瞳は優しかった。
全てを見通し、全てを受け入れ、全てを愛している。そんな目をする猫に暁は悲しみを感じた。
「君がここを通って毎日あの場所に行くのを見ながら泣いていたから・・・・・・・・、ごめん。」
暁の言葉に結衣は座り込んだまま、細い腕を空気中にそっと伸ばした。
「会いたい・・なぁ・・・・。」
何にも触れていない手を見つめて結衣はそうこぼす。
ふわり、と風が通っていった。
今この瞬間が彼女に見えていたらいいのに。暁はその光景をそう思いながら目に焼き付けた。
何も見えていない少女の手に、小さな頭をすり寄せる猫は目を細め幸せそうに首を傾ける。
何も見えていない、何も聞こえていない結衣を見つめて彼女はニャァと高く短い鳴き声を響かせた。
あまりにも穏やかなその光景に暁の目から涙が零れ落ちる。
ひゅぅ、と風が舞い上がる。
猫はその風にそっと青い空を見上げて溶けるように消えていった。
結衣のためになるだろうか、と決断した彼は涙を流す。
救われたのは自分かもしれないとそれを拭って、手を伸ばし続ける少女を見つめた。
丸い背中が弱弱しく揺れ、首をもたげている。
何度も同じような背中を見てきた彼は、心の中にいつもとは違う暖かさを抱えていた。
イツカとは今日だろうか。
マッテイルヒトとは彼女だろうか。
何度も諦め、何度も期待し、何度も裏切られてきた。
それでも。
その日暁の目には少女の優しい背中が揺れていた。