第十三話
綺麗に片づけられている勉強机にオレンジ色の街灯が窓の向こうから差し込んでいた。
車が表の道を走ると木々がかさかさと音を立てる。
小さなアパートの一室で暁は一人黄色いバケツと向かい合っていた。それは魔女と出会った日に魔女が暁にもらってほしいといった金魚達が入っていた。
赤くてひょろひょろとした小さな金魚が水の中を泳ぐ。
暁はリュカから受け取った金魚の餌をげた箱の奥に隠していた。
その餌をとりに行こうと立ち上がった時、カンカンカンと外から誰かが階段を上がってくる音がして、暁は急いで机と押入れの狭い隙間に器用にバケツを押し込み、ゴミ箱で隠した。
水がぴちゃんと弾んでたたみにしみていく。
「ただいま。」疲れの残る低い声が響いた。
暁は返事をするのも忘れ、零れた水をふくための何かを探す。
「暁はもう寝たのか・・・。」
さっきよりもずっとひどく疲れた声とともにため息が零れる。
床に荷物がたくさん置かれ、とん、とん、とゆっくり暁の部屋に向かって足音が近づいてくる。
暁は慌てて返事をしようと口を開いたが、タイミング良く、電話のベルがうるさく音を立ててその足音を止まらせた。
足音は電話のある玄関入ってすぐの小さな居間に消えた。
「はい、神田ですが。」
父の少しばかり高い音が小さく聞こえ、暁はほっと息をつき、音をたてないようにタオル置き場へ向かう。
「なんだ、お前か。」
またあの低い声に戻り、暁はぴたりと足をとめた。
居間の電気がつけられ、廊下に薄暗い光が漏れる。
苛立ちさえ交じる父の声で、電話の向こうにいるのが半年以上前に出て行ったきり一度も戻ってこない母であると分かった。
「暁ならもう寝た。・・・今更、何の用だ。」
小学一年生の子供をおいて家を出て行った母親の噂はすぐに広まり、誰かが暁に聞こえる声で言った。
“子供が気味悪くなって逃げたんだろう。”と。
暁はよくテレビをつけっぱなしにし、父に怒られ、窓を開けっぱなしにして、また父に叱られていた。
テレビをつけていても、窓を開けていても、消えない静けさに暁は一人でいる時泣きそうになった。
それは、秋を迎えた世界とよく似ていて、それまではうるさいとさえ思っていた蝉がいなくなると、いくら鈴虫がないていても、ぽっかりとあくあの寂しさを埋めることはできないのと同じようだった。
「何様のつもりだ。暁を押しつけて出て行ったのはお前だろう。」
父が怒鳴った。暁はじっと立ちつくす。
暁の前で大きな声を出さない父の本当の姿がそこにあるような気がした。
「今更・・・。どうせその男だって、暁のことを気味悪がるだろう。」
苛立つ父の声から離れたいのに、離れられなかった。
「口で言うのは簡単なんだ。実際に昼も夜も一緒に生活して、わけがわからないことを言われて、それでもその男は、お前と俺の間にできた子供を愛せるっていうのか。」
何もかもが壊れていく音を、暁は今まで何度も聞いてきた。
言葉を口にできるようになってから、家の中を包む空気ががらりと変わった。
“あれ誰?”と指をさしてたずねると、二人は互いに眼を合わせて眉をひそめながら暁を見た。
幼いながらにもわかる、暁のことを怯えるような二人の眼。
夜中に響く大声、父のため息、母の泣き声。
「普通じゃないあいつを、どうやって普通に育てるって言うんだよ。」
ばんっ、と壁が叩かれた。
暁の頬を涙が音もなくつたっていく。
重い足を無理やり動かし駆けだすと、体は急に軽くなり、暁は一気に玄関までたどり着いた。
母が出て行ったのと同じ暗い玄関の扉をあけて外に飛び出そうと靴をはく。
なかなか入らない靴に足を強く押し込んで、すがるように握っていた冷たいノブを回した。
「暁・・・?」
驚きと困惑のまざる父の声が閉まりかける扉の間から洩れた気がしたが、カンカンカンと暗闇の中階段を駆け降りる暁の足は止まらず、闇の中を走っていく。
走って走って見慣れたとおりを抜け、涙をぬぐい走れるだけ走るとそこは、子供の消えた大人しい公園の入り口だった。
暁は滑り台にそっと近づいて空を見上げた。
真っ白な月が黒の中をぴちゃっと金魚のように跳ねた。
「暁。」
そこは現実と夢が混ざり合う世界への入り口で、暁は手に感じる温かさと、魔女の優しい声に、しっかりと開いていたはずの瞼をゆっくりと開いた。
「暁。」
そこはもう公園ではなく、月の光が照らす広い和室だった。
暁は目を何度もまたたき、辺りを見回す。
小さなテレビと古びたたんす、それから隅のほうに本棚があるだけのすっきりとした部屋で、暁は自分の右手を握る魔女の存在に気付き全てを思い出した。
「今のが、暁が泣いていた理由?」
うたはまだ泣いている暁の頭をなでて尋ねる。「見てごめん。」と謝る魔女に暁はそっと抱きついた。
ふかふかの柔らかな布団がその間で山になる。
一番愛している人に、一番愛してほしい人に、その存在を拒否される痛みをこんなに小さな体いっぱいに受けて生きる暁を、うたはそっと抱きしめ返した。
悲しくて、情けなくて、申し訳なくて、うたは人を愚かだと思った。
それでも何も恨まない綺麗な暁も、その人間だと思うと、愛さずにはいられなかった。
「人って、人間って、弱い生き物なんだよ。」
暁は自分の頭をなでる優しい手に、そっと目を閉じ、魔女の言葉に耳を傾ける。
「自分の周りにあるものだけでくらべるから、普通だとか変だとか、意味のわからない尺度を作る。」
「しゃくどをつくる・・?」
暁の赤くはれた眼がうたを見上げた。
人はこんなにも綺麗な暁の姿を見ることができなくて、平気で傷つけてしまう。
なんて悲しい生き物だろうと、うたは暁の瞳の奥を覗いた。
「金魚から見たら人間なんて皆変、ってこと。」
窓からふっ、と風がふいて暁の涙をぬぐった。
「懸命に生きる者の中に、同じも違うもない。それが人間でも、金魚でもね。」
月の白い光が魔女をそっと照らしている。
魔女はすごい。暁はこくんとうなずいて目を閉じる。
変だ、気持ち悪い、化け物。そんな忘れたくても忘れられない言葉たちが、何の意味も持たない音の塊に変わり、すっと全て消えていく。
「今日は泊るでしょう?おうちに電話しておくから、電話番号教えてね。」
暁は小さくうなずいて、「あ」と何かを思い出し、慌ててうたを見上げる。
「金魚に餌あげるの忘れちゃった。」