第9話 兄の噂
「ねえねえ、福島先輩がお兄さんになったってほんとー!?」
「へっ?」
水筒からスポーツドリンクを飲もうとしていた時、不意に話しかけられた。いつも通り部活に来て、ノックを受け終わって休憩していた頃。いつの間にか、私の周りには部員の輪が出来ていた。
「福島先輩……って」
「もー、とぼけないでよ! 福島陽翔先輩がお兄さんになったんでしょ!」
「ああ……」
そういえば、はるくんの旧姓は「福島」だったっけ。いつの間に知られたんだろう。女子の噂話は早く回るというけど、こんなに早いのは想定外だ。
「別に、あんなのお兄ちゃんじゃない。お父さんが再婚したから一緒に住んでるだけ」
「えーっ、ひどー!」
「そうだよ、福島先輩と兄妹なんてすごいのに!」
みんなは何やら羨ましがっている様子だった。その理由は私だって十分に理解している。
お父さんが再婚する前から、はるくんの存在自体は認知していた。一学年上の先輩で、サッカー部きってのエースストライカー。背が高いうえに凛々しい顔立ち。周りの子たちがよく噂しているのを耳にしていたのだ。
正直に言えば、私だって気にならないわけじゃなかった。有名人だったし、学校内で見かけたらチラリと顔を覗くこともないわけではなかった。だけど……義理の兄妹になる、というのは話が別だ。
私にとって一番の存在。それは紛れもなく――お兄ちゃんだ。よく一緒に遊んでくれて、常に私のことを気にかけてくれた。仕事で忙しいお父さんに代わって、私の相手をしてくれていたのだ。
だけど、お兄ちゃんはお母さんに連れられて出て行ってしまった。その後、未だに会えずにいる。今頃どうしているか、なんてことすら分からない。
私も年を経るごとに成長して、子どもの頃の記憶を忘れつつある。かつてはっきり覚えていたはずのお兄ちゃんのことも、少しずつおぼろげになってきた。……お兄ちゃんのことを忘れてしまうのが、私はとても怖い。
はるくんはとても良い人だと思う。まだ会って二日目だけど、なんとか私に関わろうとしてくれているのがよく分かる。もしかしたらお父さんたちに何か言われているのかもしれないけど、それでも嬉しいものは嬉しい。
だけど、良い人だからこそ――お兄ちゃんとは認めたくない。あんなに良い人のことを兄だと認めてしまえば、本当のお兄ちゃんの記憶が上書きされてしまうかもしれない。私はただ、そのことがひたすら怖かった。
いつかはるくんには愛想を尽かされるかもしれない。それでも、私はあの人のことを兄として認めるわけにはいかない。かけがえのない、お兄ちゃんという存在。それを失ってしまうのは、自分自身を失うのと同義な気がするのだ。
「……ねえー、奏ったら聞いてる?」
「えっ?」
「一緒に住んでるんでしょ? 先輩と何かあったりしなかったの?」
「別に、そんなのないよ」
「えー、本当?」
「……今朝、一緒にキャッチボールした」
「「ええー!!」」
驚く部員たち。だけど私は気にせず、再びグラウンドの方に足を向け、左手にグローブをはめた。
はるくん、か。こんな形でなく、もっと違う形で出会えていれば。どうして義理の兄妹なんかになってしまったのだろう。もっとも、向こうが私のことをどう思っているかなんて分かりはしないけど。
ごめんね、はるくん。お兄ちゃんとして認めてもらう、なんて言ってくれたのに。だけどね、私にとって「お兄ちゃん」は一人だけなんだ。
大きく息を吸ってから、私は守備位置に向かって駆け出したのだった。




