第7話 兄妹のキャッチボール
受け取ったグローブを左手にはめて、奏と距離を開ける。キャッチボールなんていつぶりだろう。小学生の頃はよく同級生とやっていたけど。
「いくよー!」
「おう!」
奏は右手を挙げて合図すると、そのままテイクバックをとってボールを投げてきた。球は綺麗な直線軌道を描き、しっかりと胸元に飛んでくる。俺はグローブでバシンと受け止め、すぐに投げ返した。
「ナイスボール!」
「ありがと!」
球筋を褒めると、奏は嬉しそうにボールをキャッチしていた。昨日と打って変わって上機嫌だな。一緒に体を動かせる仲間がいることが嬉しいのだろう。奏の笑顔はまるで無邪気な子どものようで、こちらまで和やかな気持ちになる。
「このグローブ、古いけど誰のなのー?」
「お父さんのだよー! 前はキャッチボール付き合ってくれたからー!」
ボールを互いに投げながら、会話を交わす。てっきり父親とはかなり仲が悪いのかと思っていたが、普通の親子のような交流もあったようだな。俺と同じで、やはり「兄」についての話になると険悪になるのかもしれない。
それにしても、良い球を投げるなあ。バッティングと同じで、素人の俺でも分かるくらいに理想的なフォームだ。相当な運動神経をしているのだろう。
「部活ではどこを守ってるんだー?」
「センターだよー! レギュラーだからー!」
「そりゃすごいなー!」
一年生でもう定位置を掴み取っているとは、やはり実力者みたいだな。ソフトボール部にはあまり知り合いはいないが、ひょっとして奏はすごい奴なのかもしれない。今度後輩の誰かに聞いてみるかな。
「奏さん、今日は部活なのー?」
「ちょっと待って!」
「えっ?」
俺が投げ返そうとした瞬間、奏が右手を掲げて制止してきた。それに従って動きを止めると、奏はむーっと不満そうに頬を膨らませていた。
「その奏『さん』ってのやめてよ! なんか気持ち悪いから!」
「そっ、そうかー?」
「呼び捨てでいいよー! そっちが年上なんだからー!」
「分かったー! 奏、いくぞー!」
俺は再び腕を振り、奏に向かってボールを放り投げた。昨日はどうなることかと思ったが、まさかこんな形で奏との距離が縮まるとはな。なかなかいい兆しかもしれない。
俺たちはひたすらキャッチボールを続けた。ふと、思ったことがある。もし父親が前妻と離婚していなければ、こうして奏と球を投げ合うのは俺ではなく実兄の役目だったのだろう。
こうして少しずつ親しくなっていけば、いつの日か奏は実兄のことを忘れられるのかもしれない。父親の言う「悪い記憶」とやらも消えて無くなるのかもしれない。だがそれでいいのか? 俺はただ、実兄の立場を乗っ取ることにならないのか?
「……ねえ、聞いてるー?」
「えっ、なに?」
「私! アンタのことをなんて呼べばいいのー?」
「そうだなあ……」
考え事をしていたら、いつの間にか奏に話しかけられていたらしい。たしかに、奏は俺のことをどう呼べばいいのだろう。俺は呼び捨てでも構わないが、向こうは遠慮するかもしれないしな。
「なんでもいいぞー! 好きに呼んでくれー!」
「それじゃ困るのー! なんか言ってよー!」
「えー……?」
困ったなあ。なにかいいあだ名でも……と思ったけど、自分で考えるのって恥ずかしいよな。何か、何かいいアイデアがないかな。俺は奏に向かって球を放りながら、心の声を漏らした。
「『お兄ちゃん』はまだ早いよなー?」
「!」
「あっ」
つい言った直後、しまったと口を塞いだが時すでに遅し。奏は驚いて目を見開き、一瞬だけ体の動きを止める。そのせいで反応が遅れたのか、奏のおでこのあたりにボールが当たってしまった。
「いたっ!」
「だ、大丈夫か!?」
奏が頭のあたりを押さえてしゃがみこむのを見て、慌てて駆け寄る。そこまで速い球じゃなかったが、それでも結構痛いようだ。俺は奏の髪をかき分け、傷が出来てないか確かめた。
「ちょっ、勝手に……!」
「いいからじっとしてろ!」
女子の髪をやすやすと触るのは失礼だと承知しているが、それでも心配が勝ってしまった。最初は抵抗する素振りを見せた奏だったが、すぐに大人しくなった。
「うーん、ちょっとたんこぶになってるけど……大丈夫そうだな」
「あっそ。……ねえ、もういいでしょ?」
「ん? ちょっと待て」
違和感に気づき、俺の側から離れようとした奏のことを引き止める。たんこぶの近く、おでこのあたりに……縫ったような痕がある。なんだこれ?
「なあ、ここの傷はなんだ?」
「ああ、それ? ……小さいころに怪我したらしいんだけど、よく知らない」
「そうか」
奏はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。用もなくべたべたするのもおかしいので、俺はそっと距離を置く。
「ごめんな、急に変なこと言って」
「別に大した怪我じゃないし。……だけど、『お兄ちゃん』なんて絶対に呼ばないから」
「……そうか」
「ゆうべだって勝手なこと言ってたけどさ。私、アンタをお兄ちゃんだなんてこれっぽっちも思ってないから」
すっと立ち上がり、俺を置いて縁側の方に歩き出す奏。やはり「兄」の話は禁句か。しかしいずれはお兄ちゃんと呼んでもらわなければならないんだ。……理由は分からないが、それが奏を「守る」ことに繋がるらしいからな。
「……ねえ」
「ん?」
奏はこちらを振り向かないまま、静かに話しかけてきた。何を言うのかと思えば、奏は少し照れ臭そうに――こんな言葉を残した。
「アンタのこと、これからは『はるくん』って呼ぶから。……よろしく」




