第5話 兄、宣言する
「……えっ?」
父親の言葉を耳にして、思考が止まったような気がした。実の兄を――忘れさせる、だと? なぜそんなことをする必要がある? 良い思い出は良い思い出のままで残しておけばいいだろうに。
「ど、どういうことですか?」
「奏は兄を今でも追い続けている。だが今のあの子にとって、兄とは陽翔くんのことだ」
「回答になってないです! なんで奏さんからお兄さんの記憶を奪うんですか!」
「……奏にとって、その記憶というのが悪いものだからだ」
グラスを持ち上げ、父親はちびりとビールを口にした。奏は実の兄に固執し、義理の兄となった俺のことを拒んでいる。しかし父親は、俺にその実兄の代わりになれと言っているのだ。
いろいろと思うことはある。……一番気になることは、その兄という人物の現況だ。父親の前妻のもとで暮らしているのか――それとも。
「あの、お兄さんは……今どうしているんですか?」
「……」
父親は答えない。俺たち三人の間に沈黙が横たわる。母さんは何か事情を知っているのか、神妙な面持ちでじっと正面を見ていた。その視線に耐えかねたのか、父親がゆっくりと口を開く。
「あの子は前の妻が連れて行った。私の関知するところではないよ」
「……そうですか」
分からない。いったいどうすればいい? 俺のことを拒絶する奏に対し、兄のように振舞わなければならない。新しい家族と一緒に暮らすというのはこんなに難儀なことだったのか――
「ねえ、陽翔」
その時、ずっと黙っていた母さんが俺の方を向いた。なにやらいつになく真剣な表情で、諭すように話し続ける。
「奏さんは陽翔のことをお兄ちゃんとは認めてくれないかもしれない。……だけど、きっと陽翔のことは嫌いじゃないと思うの」
「そうかな……」
言われてみれば、たしかに俺自身のことが嫌いということを明言しているわけではない。あくまで兄としての俺の存在を拒んでいるだけ。
「いつかきっと奏さんが陽翔を必要になる日が来るわ。だから……その時は、どうか手を差し伸べてあげて」
「本当に?」
奏が俺のことを必要になる? なぜ? あんな態度なのに? 発言の意図が分からないでいると――母さんは優しく微笑んだ。
「昔あなたがしてもらったように、陽翔も奏さんのことを守ってあげなさい」
***
夕食を終えた俺は、一人で離れの方に向かって歩いていた。さっきの母さんの言葉を反芻しながら、悶々と考え続ける。守る? 俺が奏のことを?
たしかに俺は兄になった。だがそれは形式的な話で、妹である奏からそう認められたわけじゃない。今のままじゃ、ただ隣の部屋に住んでいる一個上の男子高校生だ。
「ん」
離れに着こうかというとき、奥の方の扉から長い髪を濡らしたパジャマ姿の奏が出てきた。どうやら先に風呂に入っていたらしい。奏もこちらに気がついたようで、そっぽを向いてしまった。
「よ、よう」
「……」
軽く挨拶してみたが、奏は何も言わない。しかしすれ違おうとした間際、急に俺の方に振り返った。
「ねえ、アンタ」
「ん?」
「うちのお風呂、熱いから。気をつけて」
「そっか、ありがとな」
「別に、初めてだから分かんないでしょ……」
奏は自分の髪を指でくるくるといじっていた。湯上りの姿を見られても特に何も言わないあたり、そこまで警戒はされていないらしい。やっぱり「兄」の話をしなければ普通なんだな。
「俺が隣に住んでて、嫌じゃないか?」
「別に良くはないけど。仕方ないじゃん、親が再婚したんだから」
「そっか」
「でも変なことしたら許さないからね! お風呂とか覗かないでよ?」
「覗かねえよ。俺、人と風呂入るの嫌いだから」
「なにそれ」
昼は結構俺と住むのを嫌がってたけど、もう諦めがついたのだろう。実際、奏に嫌と言われれば俺の住むところがなくなってしまうわけだしな。
幸いにして、隣の部屋に住むお許しは得たわけだが。……兄と認めてもらったわけではないだろう。ここから先、奏との関係をどうやって築いていくべきなのか。
「私は部屋に戻るから。おやすみ」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ」
「……何?」
反射的に引き留めてしまった。しかし話す内容など何も考えていない。何を言えば。気を利かせた台詞など思いつかない。これから先、俺たちは兄妹としてずっとずっと歩んでいかなければならない。お互いを好む好まないにかかわらず、だ。……だったら、余計な言葉などいらない!
「奏さん!!」
「……はっ?」
唐突に名前を呼ばれたせいか、困惑した表情を見せる奏。俺はそのすぐ近くに歩み寄り、はっきりと口に出した。
「俺、いつか奏さんの『お兄ちゃん』になるよ! どんなに時間がかかっても、絶対に認めてもらうから!」
「……はあっ!?」
「これからよろしく、奏さん!」
そうして、俺は深々と頭を下げた。まだ実質的に俺たちは赤の他人。だったら最初はこの距離感でいい。少しずつ、少しずつ近づいていけばそれでいいんだ。
「……やだ」
「えっ?」
「絶対にやだ! アンタなんか絶対に認めない! 私のお兄ちゃんはお兄ちゃんだけだから!」
「いいよ、上等だ! こっちこそ絶対に認めてもらうからな!」
「知らない! おやすみ!」
奏はバンと大きな音を立てて部屋に入っていった。これでいい。明日から――俺は「お兄ちゃん」となるべく、頑張っていけばいいのだから。それが俺の務めなんだろう、母さん?
こうして、奏の兄として努力する日々が幕を開けたのだった。




