第12話 無自覚
私が助けを乞うと、はるくんは嫌な顔ひとつせずにこちらの部屋へと歩き出した。どうしてここまでしてくれるんだろう。この人にとっても、私はまだ会って二日目の他人のはずなのに。
「隣、いい?」
「う、うん」
はるくんは私の左側に座布団を敷いて、その上に座った。肩と肩が軽くぶつかり合い、しっかりとした男らしい体格に思わずどきりとしてしまう。
「あっ、ごめん」
「大丈夫……」
全然大丈夫ではない。今朝の私がたんこぶを作った時もそうだったけど、はるくんは人との距離感が近い。さっきの部活で皆んながはるくんのことを褒めていたから、余計に意識してしまう。
部活というフレーズで思い出したけど、汗をかいたのにまだシャワーを浴びていなかった。……匂わないよね、私? 思わずはるくんと距離をとってしまう。
「?」
「き、気にしないで」
「そうか。それより、どこが分からないんだ?」
「えっと……」
私は問題集を開き、二次関数の難しい問題を指さしたのだった。
***
「頂点の座標がこう表せるから、これを文字で置いてさ……」
「なるほど……」
あれだけ頭を悩ませても分からなかった問題を、はるくんはあっさり理解してしまった。数学の先生よりもよっぽど分かりやすい解説に舌を巻いてしまう。この人に出来ないことってあるのかな。
「まあこんな感じかな。こんなもんでいい?」
「うん、よく分かった。ありがと」
「じゃ、また何かあったら言ってね」
解説を終えると、はるくんはあっさり立ち上がった。座布団を持ちあげ、そのまま自分の部屋へと戻っていく。……思わず「待って」と言ってしまいそうになった自分に驚いた。
「……」
遠目にはるくんの様子を窺うと、またさっきのように文庫本を読んでいた。やっぱり「お兄ちゃん」として見なければ素敵な人だと思う。これから毎日こんな人と過ごすなんて、罰が当たってしまいそうなくらいだ。
これから、私ははるくんとどうやって接していけばいいのだろう。これだけ「お兄ちゃん」になろうと頑張ってくれているのに、私はそれをずっと拒み続けなければいけないのだ。……もちろん、我儘であることは重々承知している。
もしかして、これはお父さんからのメッセージなのかもしれない。もうお兄ちゃんのことは忘れて、新たにはるくんを兄として認めなさいと言っているのかもしれない。だけど私にそれは出来ないのだ。
「……あれ」
よく目を凝らすと、いつの間にかはるくんが舟を漕いでいた。文庫本を開いたまま、うつらうつらと体を揺らしている。朝からいろいろと運動していたし、疲れてるんだろうな。
音を立てないように立ち上がり、そっとはるくんの部屋に入った。……思ったより何もない部屋だ。サッカー用品や勉強道具など、必要最低限のものしか置いていない。私と違って、遊びなんか我慢しているのかな。
私は近くに置いてあった薄い毛布を手に取り、はるくんの背中にかけてあげた。いくら夏だからって、こんなエアコンの効いた部屋じゃ風邪をひくもんね。
「奏ぇ……」
その時、はるくんがむにゃむにゃと寝言を呟いていることに気が付いた。私の名を呼んでいて、なんだか照れくさ――
「お兄ちゃんだぞぉ……」
……本当に、この人は私の「兄」になろうとしているんだな。爽やかな寝顔をそっと覗きこみ、複雑な気持ちになる。もしなるなら、兄妹じゃなくて――恋人の方がよかったな、なんて。
無自覚なはるくんを心の中で呪いながら、自分の部屋に戻っていった。




