第11話 広い部屋
当初は困惑していた奏だったが、安藤さんの提案以外に解決策も見つからず、結局諦めてしまった。会ってまだ二日目の人間とずっと一緒に過ごす。……というのは俺だって気が休まらないが、明日までだしな。
「開けていいかー?」
「……いいわよ」
向こうから了承を取り付けると、俺は襖をゆっくりと開けた。それと同時に、湿気を含んだむわっとした空気が俺の身体を包み込む。こんな気温で過ごすのも酷な話だし、仕方ないか。
さて、奏の部屋はというと――意外にもシンプルだった。俺の部屋と同じ文机に、洋服を収納しているであろうタンス。はっきり違う点といえば冷蔵庫があることくらいだろうか。
「エアコン、『強風』にしておいたから。もうちょっと待ってて」
「ごめん、私が明日まで我慢すれば良かったのに」
「いいっていいって、熱中症になっても困るだろ」
奏は申し訳なさそうな表情を浮かべていた。さて、互いの部屋が丸見えになったわけだが、だからと言って何があるわけでもない。眠気が覚めたところだし、せっかくだから読書でもしようかな。
俺は座椅子にもたれかかり、机に置きっぱなしにしてあった文庫本を手に取った。ぱらぱらとページをめくって、前回までに読み終わったところを探す。お、ここだ。
「……」
ただひたすら、文章を目で追い続ける。読書の習慣がついたのはいつからだろうか。小学生の頃はゲームに熱中したりもしたが、誰もいない家で孤独に遊び続けることに虚しさを覚え、いつしかゲーム機に手を伸ばすことはなくなってしまった。
本はいい。本の世界に入り込めば、自分が一人ではなくなったかのような感覚になる。もちろんそんなの幻想に過ぎず、実際に登場人物たちが眼前に現れるわけではない。それでも、ふとした瞬間に感じる悲しみを紛らわすにはうってつけだった。
「……これ、よかったら」
「ん?」
トンと音が鳴る。いつの間にか、麦茶の入ったコップが机の隅に置かれていた。横にいたのは、コップをもう一つ持った奏。俺のために飲み物を用意してくれたらしい。
「いいのか?」
「別にいいわよ、麦茶くらい。私のせいだから」
「奏のせいで壊れたわけじゃないだろ? 気にしなくていいのに」
「……分かってるけど」
奏はそっぽを向いて、自分の部屋の文机のところへと戻っていった。どうやら俺が読書している間に勉強していたらしい。夏休みの宿題は高校生の悩みの種だもんな、計画的に進めているのだろう。
「……」
「……」
再び沈黙が始まる。俺がぺらりとページをめくる音、奏がノートにペンを走らせる音、そして二部屋分の冷房を任されたエアコンの唸る音。いろいろな音が混じりあっていたが、不思議と良い気分だった。
しばらく何も考えずに本を読み進めていると、次第にペンの音がまばらになってきたことに気がついた。ちらりと奏の様子を窺ってみたが、思うように問題を解き進められない様子。……どうしたものかな。
勉強は苦手じゃないが、出しゃばって「教えようか」などと兄貴面をしようものならまた何か言われるかもしれない。それに、人に教えてもらうことばかりが勉強じゃない。自分の頭で徹底的に考えるのも大切なことだろう。
どうにも奏に対する接し方が定まらないな。兄として認めてもらわなければならない、ということは分かっている。だけど迂闊に接近しては向こうから拒絶されてしまうのだ。
「ん」
その時、向こうの部屋にいる奏がこちらをちらりと見た。気のせいかと思い、また本に視線を落としたのだが、再びこちらに視線が向けられる。……気のせいではなかったらしい。
「奏、どうかした?」
「あっ、その……」
奏はなんとも気まずそうな表情でおどおどとしていた。しかしどうしようもなくなったようで、恥ずかしそうに口を開く。
「しゅ、宿題で分からないところがあって……」
その言葉を聞いて、少し嬉しく感じる自分がいた。自分のことを頼ってくれるのだ、と安心したのだ。「兄」かどうかはともかく、少なくとも「年上の人」という認識はされているらしい。だけど奏本人は困っているのだからな、あんまりニヤニヤするわけにもいかない。
「教えてあげようか?」
「う、うん。お願い」
その言葉を聞き、俺は座布団を持って奏の部屋に足を踏み入れた。勉強を教える、なんてまさに兄妹らしいことと言えるだろう。認めてもらうためにも、しっかり教えないとな――




