690.安全意識は大事だねって話だったのに、感知を拒むのは違うじゃん
illモンスター“盲虎”という物語は、安全マニュアルに刻み込まれた流血である。
とあるガス燃料は色も無く、味も臭いも持たないものだった。
人を不快にさせないという意味では良いのかもしれないが、それが可燃物であれば話が変わってくる。
それがガス管から漏れ、建物のフロア全体に溜まってしまった事例では、学校一つが丸々消失するほどの甚大な爆発事故へと発展している。
それが起こる以前、生徒が体調不良を訴える事例も多発していたが、誰もガスを吸い込んだせいだとは思わなかった。
吸った本人、人体でさえ、気付いていないのだ。
生理的嫌悪を催す臭いがガス燃料に意図的に付加されたのは、数百人の未成年が派手に吹き飛んだ反省からである。
“盲虎”とは、「そこに確かにあるのに見ることが出来ない危険」への恐れ。
見つけられなかったリスクが牙を剥いた時の驚愕。
人間の身体は危険察知センサーとして優秀である。
けれど決して、完璧ではない。
彼らの主観は飽くまで能力で見れる範囲内のこと。
直感が安全と言っていても、何の動物的な勘が働かなくとも、大惨事クラスの危険がすぐ近くに待っていることだって、時にはあり得ることなのだ。
怪談の中で、霊感を持たない人間が、不用意に祟りの中心に留まってしまうように、
人はふと、死地のど真ん中で呑気している自分を見つける時がある。
そして大抵、気付いた時はもうどうしようもない状態か、事が起こった後。
自らの見ている世界が絶対ではないなんて、痛みによって覚えられたら上等な方。
最悪の場合、未来の誰かに学ばせる教訓として、痛みすら感じられない過去となるだけ。
“盲虎”は思い出させ続ける。
最も危険な状態とは、自分が今危険の中に居ると分かっていないこと。
そしてそれは、人間の常態でもあるのだと。
そいつの魔力、魔法は、元から不可視なわけではない。
色も臭いも持っている。
ただ、可変式である。
戦っている相手や周囲の環境によって、ディーパーが感知する気配、つまり魔力の色すら変わる能力。
そういうものが、稀に存在する。
代表的なものは、ロベ・プルミエルに発現した“単一にして不可分”。
それは周囲の「戦士」の力を完全にコピーする。
使い手は同じであるのに、時と場合で全く異なる魔力を見せるのだ。
“盲虎”の場合、微に入り細を穿って、緻密に “化ける”。
その色で背景を描き、匂いも完全に模倣する。
触れられそうになっても、相手の動きで起こった気流に擬態し、避けていく。
そこに在るのに、無いフリをする。
そしてそれは、単なる魔法能力ではない。
そいつの物語が強いるルール。
ローカルだ。
「魔力が……!」
解呪を試みた詠訵のリボン、その先端が溶け散じていく。
「末端から、見えなく……感じられなくなってる……!」
見えないもの、触れないものは、コントロールできない。
自分からの働きかけでどのように反応したのか、或いはしていないのか、それすら分からないからだ。
「私の魔力じゃなくなっていきます……!相手の魔力に触れたとしても、これじゃあ気付くことが出来ません……!」
「こっちも同じだ……!」
ニークトの眷属である狼達が、鎧から生まれてすぐ融解された。
「インチキチビの魔力とは違う!色を付けられない…!」
そのダンジョンから生み出された魔力に、別の性質を持つ魔力が触れると、「見えなくなる」。
1ヶ月ほど前にルカイオスの情報網に引っ掛かった、新型illのローカル。
「最悪は無味無臭」。
気付けないこと、恐怖すらできないことこそが、真の絶望!
「また来ます!」
「分かっている!」
砂の柱が頭上を通過!
青白くなるまで熱された火球が投下される!
C型が盾となり、F型が運ぶM型を守っている!
味方が炎に強いのを良い事に、向こうからは好きなように撃ちまくれる!
火はそれだけではない!
カーテンのように地を這い進む延焼も来た!
上下から挟む形となったそれらが、“盲虎”の魔力に触れれば、互いの効果で高め合った破滅的連鎖爆発がスタートする!
「クソッ!矢弾も残り少ないぞ!」
弓型魔具で火球を撃ち落とすニークト!
「先端が急に溶けるからっ、やりにくいっ!」
リボンで蛇火を叩き鎮める詠訵!
だがニークトの魔具の調子がおかしい。
急に「単なる強い弓」程度にまで性能が落ちた!
「まさか……!」
スロットを開いて確認!
カートリッジが、コア由来部分を完全に消失させている!
使い切った?にしては早過ぎる!
「触れていたのか、さっきまで……!」
“盲虎”の魔力が、こっそりと魔具の内部に侵入!
カートリッジから生産される魔力を制御不能にし続け、消耗を加速させていた!
「ヨミチィッ!」
「“九狐旧亙倶苦窮涸”!!」
咄嗟に掌印を結んでの瞬間的完全詠唱!
ほぼ同時に彼らを胴上げするような爆勃!
更に上からも踏み潰すような爆撃!
リボン4本が消失!
詠訵はすぐに簡易詠唱に切り替え、再度魔力を溜め始める!
「例の能力で、こいつらの位置を特定できないか…!?」
「青と黒のリボンは、ススム君と私との間の邪魔者を感知します……!『感知』です……!」
「リボンが観測出来ない以上、無意味と見るべきか……!」
とは言え、リボンから出る斥力が増える為、防御を硬くすることは出来る。
治癒能力による即応が出来なくなるが、そのリスクを取るべきか。
「!近いぞ!」
「なにっ?」
と、その危険地帯に敢えて踏み込んでくる影!
砂のフードとマントで身を守る、前傾二足の融合骨格が2体!
「W型!?」
「どうやらそうらしい!」
立ち居振舞いからそれを感じ取った二人へ、2体ともが向かっていく!
「そっちから入ってくるとは、何を考えて——」
シミターを構えたニークトの前で、そいつらの腕が展開する。
二又となった先端の内側は光沢が出るほど磨かれており、合わせ鏡と化していた。
上腕あたりのアンテナのようなものから取り込んだ光が、そこから薄く狭く放たれる!
太陽光線攻撃!
通常の地球上で受けるより遥かに強い日光を、更に凝集照射!
ニークトの毛皮が発火して一部が溶ける!
そして潜伏していたカメレオン魔力に引火!
爆発!
リボンの防御が間に合う前に、ニークトの体表近くで炸裂!
両足が地を離れ、腕が千切れる!
更に“盲虎”の魔力は、ニークトの狼鎧の頭部、牙が並ぶ顎の中にまで達していた。
爆熱で鼻腔が焼け、眼球を含めた顔中に骨が刺さっている!
肩から生やした狼で飛んで行きそうだった部位をキャッチ!
なんとかリボンで接合できる損傷に収めるも、敵は治療を許してはくれない!
照射を継続して詠訵の魔力を削りながら、断続的に引火爆破!
ニークトは鎧から別の狼の頭を生やし、それに情報収集器官の代わりをさせる!
「顔の傷は後で良い!腕だけでもくっつけろ!」
火球や蛇火が空や砂漠を赤く染め上げる!
詠訵の魔力がジリ貧になっていく!
詠訵やニークトが放った遠隔攻撃がW型のマントで弾かれる!
攻撃力がもっと必要だ!
だと言うのにそのリボンの端が徐々に消えていっている!
“盲虎”が彼ら二人を締め殺しに掛かっているのだ!
魔力が接しているのだから、それが爆発した時のダメージも大きい。
詠訵の貯蓄は、温存どころか大赤字。
簡易詠唱すら危うい状態にまで追い込まれた。
「先輩、左腕の調子、どうですか?」
その状況で彼女は、テスト勉強の進捗を聞くように、平板な声でぽつりと訊ねた。
「悪くない」
パンッ、
ニークトもまた、喫した紅茶の味を評する調子で答え、角度をつけてその両掌を合わせる。
「ちゃんと動く。つまり、オレサマの一部として使い物になる」
肩口からは未だにドロリと赤黒い絵の具が垂れて、ベタ塗りの床絵を描いていたが、
自分の意思で動かせる、それで彼には充分だった。




