688.不満足な人間であれ
ガネッシュ・チャールハート・レディセンが生まれたシンド共和国では、社会に身分制度が色濃く残っていた。
西洋の貴族のように、外から見た時に分かりやすいものではない。
表向きは世界最大規模の人口を持つ民主主義国家だ。
だがその内部では明らかに、生まれながらの上下関係が意識に根付き、支配している。
階級で固定化された構造と、今風で流動的な仕組み、その二つが矛盾を孕みながら同居し、相争っている。
彼らの思考様式は、全員に等しい人権がある国、という形には最適化されていない。
まあ、どこの国もそんなものと言えばそれまでなのだが、そういった態度が許される空気が、中でも色濃い場所なのは間違いなかった。
古きと新しきが侵害し合う、矛盾と建前の国。
ガネッシュの血筋は最下層のそれであり、地域で最も見下されるグループの一員であった。
ただ偶然そこに生まれたというだけで冷遇される、そんな理不尽に耐えかねて彼は国を捨てた
というわけでは、必ずしもなかった。
いや、一部それが含まれているとも言えなくもないが、それが主要因ではなかった。
彼には学問が、知的好奇心があった。
潜行者の才もそれなりにあった。
理不尽な境遇を覆せるくらいの資本は、生まれた時から持っていた。
単に生来のハンデと言うなら、ギフトと合わせてプラスマイナスゼロくらい。なんならプラスが超過しているくらいだと、ガネッシュ本人がそう思っている。
社会制度への不満や憎しみというものにも、心当たりはあまりなかった。
階級社会や独裁国家といった、世間的にはマイナスとして語られるシステム。
彼はそれらを、必ずしも悪いものとは思っていなかった。
集団とは約束や合意によって成り立っている。
それがそういう形をしていると言うのなら、そこには何か理由があるのだ。
社会の仕組みとは合意の集積であり、人の意思を完全に離れるものではない。
構成員が望んだことで生まれたものだから、格差や差別にも一定の理や効能があるのだろう。
どちらかと言えば被差別者側だった彼は、けれどそれを受け入れ、それから「どうしてそうなったのか」を考え始めた。
その社会構造が求められた理由を学び、それに合意するか、修正を求めるか。まずは調べて、知ることから始めるべきだ。そう思った。
彼は訪ねて回った。
様々な文献を読み漁った。
なんの為に?
知りたかったから、以上の理由はない。
どっちつかずの綱渡りをするシンドの体制や、非合理で非効率的な方法で社会の変革を訴える者達の動機等、彼の目からは不思議なことが沢山あった。
好奇心によって、社会というものを掘り返した。
そして彼は知った。
民衆というものは多くの場合、同意したつもりなく同意をしてしまうのだと。
どういう意味か?
「ああ、こいつら、別にそんなに考えてない」、である。
不公平に怒る者がいる。
不幸を呪う者がいる。
不満を叫ぶ者がいる。
けれど、彼らは知ろうとしていない。
例えば、現代シンドは超学歴社会である。
まず、生まれで全てが決まる身分制からの脱却という、耳当たりの良いお題目によって、努力主義が台頭した。
ではどうやって努力を量る?
実力や結果によって。
努力主義が、実力主義、成果主義へと変わった。
実力があるかどうか、どうやって知ればいい?
「私達が定量的に計測します」、高等教育機関が名乗りを上げた。
どれだけ凄い学校を卒業したか。
そのパラメーターが「実力」を表すようになった。
大学名が重視される社会が完成した。
貧しさや地理的理由から、大学に手が届かない者は?
量れない場合、数値上は「ゼロ」として記録される。
裕福でなくても卒業できる仕組みがある?
親が金を持っている人間ほどの楽さで、そうでない人間が挑めるものなのか?
いいや、そうはなっていない。
つまりは周囲の環境や境遇によって、アクセスの難易度や可否に差が生まれるものが、人の価値を左右するようになっている。
ガネッシュが驚いたのは、現代社会を平等なものだと本気で思っている人間の多さだ。
身分制度であり権威主義は、今も生きている。
だがちょっと看板を変えただけで、彼らは「脱却」を済ませてしまった。
方便でなく、心の底から思っているのだ。
上がってこれないのは実力が無いから。
評価されないのは100%自己責任、と。
それではと批判する方へ目を向ければ、今度は別のズレがある。
彼らは「悪」を探している。
完璧を阻む何かがあって、それさえ無ければ「理想」が可能なのだと、信じ切っている。
「出来ないのはやらないからだ」、彼らが嫌った論理を、相手にそのまま返しているのだ。それも、そんなつもりなど一切無く、自分達だけが正しいという顔で。
そして弱者である筈の彼らは、自分達を守る巨大なもの、社会というものそのものを不要と、時には邪魔とすら言い始める。
強いられた困難から逃げる為、より深刻な困難に身投げする。当人たちは「解放される」つもり満々で、そういう暴挙に出る。制度の中にある優しさを、覚悟も無いのに捨ててしまって、切り離された後を考えていない。
上だろうが下だろうが、支配する者も挑む者も、見当違いな話をしていた。
ある者は「身分制度は絶対悪」だと言い、またある者は「これは平等で正当な制度だ」と言う。
話が噛み合っていない。
何度も言うが、身分制度があること自体は、問題視していない。
それが“選別”であることを、意識せずにやれてしまう。
その成立に自分の行動や、誰かが自分を守ろうとしてくれる意思も一役買っているのに、簡単に邪悪だと言えてしまう。
それぞれの無神経さこそが、彼を戦慄させた。
以上が一例だが、似たようなことは世に溢れている。
社会の創造者であり当事者である人間達の中で、自分達が今何を作っているのか、どんな恩恵や損害を受けているのか、それを正確に説明できるものが誰もいない。
一方で、「私はそれを説明できる」と、その気になっている者であれば、そこら中で見つけられる。
決めつけと雰囲気だけで現実を理解する。
目隠しをして歩いているのに、目蓋の裏に夢想を描いて、それを本物だと信じて直進。
問題にすべきは、彼らはどうして間違えるのか、ではない。
どうして間違えていないと思っているのか、である。
理由は単純で、「疑う」ことを放棄しているからだ。
違和感に気付き、疑い、考える。
その習性は人類を繁栄させた、最も偉大な武器である。
よりにもよって最も人間らしい行為を、人は簡単に捨ててしまう。
面倒だから。
楽をしたいから。
必要ないと思い込んでいるから。
恐ろしい。
ガネッシュは恐怖した。
彼もまた人間であったからだ。
知的好奇心こそが自らの武器、彼はそう自負していた。
だがその長所は、今こうしている間にも、喪われているのではないか?
彼は「何故」を考える。
それを求めている時こそ、充実した時間。
だが本当に、「何故」を問えているのか?
成長し、より多く、広くを知るにつれて、「そういうものだからな」と、そう切り捨ててはいないだろうか?
彼はいつの間にか、自分の中に幾つもの「当たり前」を作ってはいないだろうか?
正誤や善悪を、固定化してはいないだろうか?
好奇心!
彼の生の軸!
彼の心臓を動かしているもの!
それが尽きるということは、死ぬということである。
彼は肉体よりも速く、死へと向かっているのではないか?
その究極とは、リビング・デッドだ。
自分は生きた人間だという顔で、屍の体を引き摺り歩く。
彼に見える人間は、そんな相手ばかりだった。
いつしか彼も、そうなるのだ。
もしかしたら、もうなっているのだ。
生物が最も恐れるのは、矢張り死ぬことだ。
そして人は時に、生死より恥や尊厳について考える生き物。
ガネッシュが直面した危機は、その両方だ。
人間としての死であり、尊厳の終わり。
理性と本能が、どちらも大いに忌み嫌う末期。
彼は何より安心を、満足を恐れた。
分からないこと、それが至高だ。
分かり切ったこと、それはダメだ。
分かり切れることなどないのに、分かり切った気になってしまっている。
自分が安心しているのならば、それは疑う感性の衰退。
安住を恐れ、国を捨てた。
自我の膠着を恐れ、「レディセン」という階級姓を捨てた。
安全地帯を恐れ、危険からの逃避を捨てた。
安定が、落ち着く事が、固定化されることが、恐ろしい。
安心は良くない。何も感じなくなる。
疑えなくなる。醜く死んでしまう。
より不安定な領域へ。
もっと恐ろしい、疑問が湧き出る、当たり前の無い禁断の場所へ。
驚きと負荷に満ちて、答えを決める時に生じる間違えた場合への不安が最大化され、常識も正気も「勝手なマイルール」という小物に変わり、それが常に続く地へ。
死を恐れるからこそ、彼は死の恐怖を感じていたかった。
生きたかったから死へと突き進み、死にたくないから怖い物に手を伸ばす。
“全人未到”、皮肉な名である。
そう呼ばれた本人こそが、世界で最も「全知」の感覚を忌避している。
人間が世界を知れるわけがない。
完璧に理解できるわけがない。
それでも知りたい。
知る事を諦めない。
何故なら彼にとって、「疑う」ことこそが目的だから。
不安と恐れが彼を人間にする。
これまで積み上げた物の否定、無限の可能性を持った未知。
それらが彼を生かすのだ。
あらゆる定義も定理も、自分の1秒先の生死も、疑い続けていたい。好奇心を殺してはならない。
“不可踏域”の中枢への電撃的カチコミ作戦。
その危険極まるミッションに、彼が参加していることは、ある種の必然であると言えた。
戦闘能力はチャンピオン最弱、にも拘らず世界4位に認定されるほど、その貢献を評価され、その生き様を危険視される。
人は彼を死にたがりと言う。
彼は同じ感想を、多くの人間に抱いている。
「どうして自分の正義を疑わず、平気で過ごしていられるのだろう」、
「死ぬのが怖くないのだろうか?」、と。




