2061/8/31 09:00~2061/8/31 10:00
「よう、どうしたよ。最年少チャンピオンさんよ」
用途不明の薄暗い部屋。
壁も床も、他の場所とは似ても似つかないほど、のっぺりと冷たい無表情。
ここに案内した使用人が、「喫煙所はあるか?」という彼の質問に、渋味の塊を噛んでしまったような顔を作っていたことからして、煙草も彼らも歓迎されていないこと、その二つが纏めて放り込まれた、この部屋がろくでもないこと、その両方が察せられる。
厄介払い用の部屋。
少なくとも、厭なヤツらを収容しておくのに、抵抗が薄い場所。
じゃあそれがどういう空間なのかと問われると、考察の材料が足りず、「知るか」としか答えようがない。
物置と言うには、スカスカだ。
隅には業務用らしきカメラが置かれているが、何を撮影するというのだろうか。
そしてどうやら、この「臭い物箱」に追い遣られたのは、彼が最初ではなかったらしい。
通気性が悪そうな室内には、既に白い煙が満ちており、その出所は先客の指の間だった。
どこぞの部屋から引っ張ってきた椅子の肘掛けに腰を乗せ、客人用らしき灰皿に葉巻を押し付け、新たに安い銘柄を取り出した彼女は、
「テメーにもまだ、有害な息を吐く気概が、残ってたとはなー」
入ってきた彼にまず嫌味を投げた。
「すっかり丸くなっちまったもんだから、ンな度胸はタマと一緒に無くしちまったかって、てっきりそー思ってたぜ?俺は」
「別に丸くなってねえよ。それとも頭丸めれば性格も丸まるって理屈か?見る目が表面的過ぎて、テメエの商談が心配になるな。その分だと、これまで三桁億円くらい騙されてんだろ」
「はっ、行動まで観察した上で言ってやってんだよこちとら。テメーは最近、ガキの相手が楽しそーじゃねーか。保父でもやってんのかって思ったぜ?
いーのかよ、そんなのがヤニ吸っててよ?知ってるか?吸ってからしばらくは、目に見えねー副流煙を吐く状態になっから、他人の健康のメーワクになる、らしーぜ?世話係がガキの肺を汚すのはマジーだろ」
「誰が世話役だよ誰が。だいたいヤニの話はテメエにだけは言われたかねえな。煙草で煙草の味変やってるヤツにだけはよ」
二人はまた、毎日顔を合わせる腐れ縁のようなテンションで、悪態を吐きあっていた。
それは或いは、話しやすい空気を作る為の、電波チューニング作業に近いのかもしれない。
「………テメエ、さっきのは」
幾つかのラリーの後、少しの区切れで段落が変わった時点を見計らい、彼は彼女に懸念をぶつけた。
「さっきのは、なんだ」
「なんだってのはなんだよ」
「何を腑抜けてやがるんだって、わざわざ言ってやらねえと分からねえか?」
彼女の指先から、灰がポトリと皿に落とされる。
「俺が、なんだって?」
「抜けてやがっただろ。気だとか間だとか、あれやこれやが」
「魔力切れの話してんのか?」
確かに彼女の貯蔵魔力量は、人並み外れた、人を外れた規模になるのだが——
「おいコラ、こっちは一晩中駆けずり回ってたんだぜ?ディーパー相手に、だ。労われるどころか、『もっと働け、出来るだろ』、なんて言われる筋合いはねーぜ?ブラック企業経営者志望か?」
彼女が戦っていた時間の長さ。
肉体と精神に掛かる疲労の蓄積。
それらを考慮すれば、あそこで限界に至るのも、自然なことのように思える。
「違えよ。途中から来た俺が、テメエの魔力量なんて正確に推算できるわけねえだろ」
「じゃーなにが言ーてーんだよ」
「テメエ、投げ遣りになってただろ」
もう一服吸おうとして、手元の煙草が燃え尽きていると気付く。
「なんだ、そりゃ……」
「テメエなら、自分の魔力が切れるってタイミングで、事前に警告できただろうが。そうじゃなくとも、一度通した魔法を、特殊な攻撃を喰らったわけでもねえのに、半端に解除することなんて、やるような性格してなかっただろ」
魔力切れを起こした時、彼女は「ついうっかり飛ばし過ぎた」、という態度だった。
後の事を考えず、魔力使用量の調整を怠り、気付いた時には想像以上に使い過ぎていた、そういう様子を見せていた。
「何か、当たり散らかすみたいな、魔力の使い方してたんじゃねえか?」
自棄になってなどいないと、本当に断言できるのだろうか?
「今だってそうだ。時間がありゃあ手数を増やしまくって、ついでに盤外にハミ出しちまうでお馴染みのテメエが、さっきからずっと、この部屋で油売ってやがる」
心を落ち着けようとしている。
乗研の目にはそう見えてならない。
「よう、どうしたよ。『最年少チャンピオン』さんよ」
また一本を取り出し、ライターの点火を何度も試みて、けれど何故か、今に限って上手くいかなかった。
横から彼に火を差し出され、それを貰って肺一杯に汚れを吸い込み、白い靄として舌打ちと一緒に吐き出す。
「おっさんが」
「んだって?」
「ロベのおっさんのこと、知ってるだろ?」
「………ああ。ありゃあ、なんとも、痛ましい話だった」
ロベ・プルミエル。
彼らの青春の一角である紋汰の父親であり、もう死んでいたと思われていた人物。
生存していたことを知ってすぐ、テロの首謀者兼実行犯として、本当に命を落としてしまった。
「おやっさんは、許されねえことをしたけどよ。まあ、気持ちは分からねえでもねえ。絶対に肯定するつもりもねえが」
防衛隊として戦い、守っていた彼への返礼が、最愛の息子を死へと追い遣り、死後も良いように使い潰すこと。
憎悪が湧かない方が嘘になる。
「俺も、ダチを殺られたってのによ。おやっさんを憎む気にはなれねえし、かと言ってあの人を殺した奴にも、怒りを向けられねえ。気持ち悪い気分だぜ。どっちにも振り切れねえでよ」
彼は、戸惑っていた。
ロベの凶行が発覚してからずっと、心の置き場が分からなかった。
「俺なんだよ」
「……なにが?」
「おっさんを殺ったの、俺なんだよ、リュージ」
絶句。
また一つ、ややこしく絡まった感情の玉が、増えてしまった。
「俺は……、そーだな、俺もおんなじだよ。分かんねー。なにも、分かんねー」
椅子に深々と座り直し、背凭れに体を預けながら、頭をずり下ろしていく。
夜更かししていた少年が、睡魔に引かれてだらけ切るように。
「デカい事、やって、それで……、それで、良かった。良ーって、思ってたんだ。『吾妻漆、ここに在り』、っつってさ」
けれど、
彼女は彼を見上げる。
「けどよ、リュージ。俺は、知らねーうちに、テメーを引っ張り込んでやがった。“右眼”の争奪戦の時に、テメーを巻き込めるって、喜んでやがった。そのクセ、何か物足りなくて、それは手柄が足りねーんだって、そー思って」
その後、スカッと大金星、という機会に恵まれず、だから気付くのが遅れたのだ。
それが本質ではない。
手柄が大きくとも、今の彼女は、しっかりと満足できない。
「俺が久しぶりにテメーと戦って、でもなんか、なんでか違くて、それがずっと、魚の小骨みてーに引っ掛かって、クソイラついてたんだけどよ。でも、おっさんと戦ってる時に、俺、思ったんだよ」
——ああ、モンタはもういないのだ
喪失に苦しみ、取り戻せない事実に狂い、正気を失い暴走したロベを見て、
その背後の、本当の欠如、永遠の不在を、強く意識させられてしまった。
そして、分かったのだ。
彼女が求めていたのは、手柄では、結果ではなかった。
成果が出るとか出ないとか、そんなものはどうでも良かった。
「モン坊が、モンタが、もー居ねーんだよ。俺と、お前と、でも、あと一つが、どーーーーしても、絶対に、埋まらねーんだよ」
ロベとの対峙によって、その空白に通る風が強くなり、その痛みの大きさを思い知らされた。
彼女は、「無いもの」を求めていたのだ。
「だから、俺は……、チクショー……、分かんねーんだ……、分かんねーんだよ……。楽しー筈なのに、ドデカいヤマに関わって、ガキの頃に願ったみてーに、思い通りになって、なのによー………」
かつての彼女なら、それで幸せになれたのだ。
彼と関わる前の、ただ自分の名を刻むことだけが全てだった、余計なものを持たないシャープな彼女なら。
いつからか、彼女がやりたいことは、成功することではなくなっていた。
あの3人で、不可能にも思える困難に立ち向かう。
その至福の時間をこそ、求めてやまなくなっていた。
「気付きたく、なかったぜ…、クソが……。それが本当なら……、俺が欲しいのが、あの時間だってんなら……」
必然、彼女に残されているのは、絶望的な行き止まりだけ。
「俺は二度と、マジの幸せにはなれねー、ってのかよ」
何故って彼女達は、もう3人にはなれないのだから。
それはどうしようもなく、覆しようもなく、決まってしまったことだから。




