2061/8/31 02:00~2061/8/31 03:00
彼は一向に寝付けなかった。
疲れたように、手足がベッドに沈む度、喉が何度目かの渇きを訴え、その為にむくりと起きる。その繰り返し。
そしてまた寝室を出て、一階に降り、キッチンでコップに水道水を汲み、飲み干す。
そしてもう半分ほど入れて、水面に小刻みな波紋が広がっているのに気付く。
否、震えているのは、彼の手の方である。
怖がっている。
彼は今、幽霊を見ている。
葬った筈の過去が、何故か再び彼の前に、姿を現した。
だからそれは、亡霊なのだ。
それはとっくに死んだのだ。
終わった筈なのだ。
何故今になって、それも彼への当てつけのように、あの少年の手で運ばれてきたのか。
不可解で、不条理。
どうして彼ばかりが、このような重荷を背負わねばならないのか。
もう下ろせたと思っていた。
あれは終わったのだと、そう信じていた。
それが間違いだったと言うのか?
彼はどこで間違えたのか?
思い返すと、あそこしかない。
あの時、あの少年を殺しておくべきだった。
悪魔になりたくなかった。
死ぬ理由を用意できなかった人間を、幼子を手に掛ける、それは厭だった。
だから、助けた。
その手で運び、後は野となれ山となれ。
彼は死ぬべき人間を殺し、そうでない人間は公正に生かした。
その後、どれだけ不幸になろうとも、どんな罪を犯そうとも、助けた彼のせいじゃない。
彼がせっかく繋いだ命を、無駄遣いしたその少年が悪い。
そうだ。彼は何も間違っていなかった。
あの時点では。
あれが、いけなかった。
殺すべきだった。
いや、でも、仕方のないことだ。
だって、ああなるなんて、分かる筈がないのだから。
罪を犯すどころか、希望になるなんて、
誰よりも高潔な人間で居て見せるなんて、
不可能を幾つも覆してしまうなんて、
あの時に分かりようがないのだ。
結果論を言われたって、彼は知らない、どうしようもない。
だいたい、厳密な話をすると、殺したのは彼じゃない。
共犯者だ。
なら彼は、どちらも殺さなかったという意味で、一貫してるとも言える。
そう!
そうだ!
彼は正しい!
理屈として、責められる謂れがない。
人を殺さなかったことを、どうして糾弾されなくちゃならない?
様々な国も関わっていたプロジェクト、その手助けをして、何が悪い?
間違っていると言うなら、それは国が、世界が間違っていたのだ。
彼のせいじゃない。
彼が間違ったわけじゃない。
彼に選択肢はなかった。
漏魔症罹患者だったし、当時の状況は、いや、現状も詰んでいる。
そう、彼は全てをやらされていた。
そして最も赦されない行為には、手を染めていなかった。
彼は正しく生きている。
彼の事を責めるなら、彼に「死ね」と言っているのと同じだ。
そんな事を言う権利は誰にもない。
だから彼は、間違っていない。
だって自分の意思では、何もやってないのだから——
ごとん。
廊下から、何か重い物が落ちたような音がした。
思わず手を放してしまい、ガラスが流しに落ちて再度驚かされる。
速くなっていく心臓を押さえながら、そろりそろりと、抜き足差し足。
ダイニングを抜けて、廊下への扉を、軋まないように注意して開ける。
暗くて何も見えない。
壁のスイッチを入れて、証明を点ける。
何か、流線形に見えるものが、床に置かれている。
ゆっくり近づいて、出来るだけ遠くから、覗き込むようにそれを観察する。
それは狐面の上半分だけ、というデザインの物体。
それに似たものを、彼はどこかで見たような気がして、
思い出した時には後ろからにゅうと伸びた腕で口を塞がれていた。
「!???ンーッ!!ンッ!ンーッ!!」
なんとか抜けようとジタバタ藻掻くが、石のようにびくともしない。
声を出そうと喉を響かせていると、湧き出たかのような唐突さで、愛らしい少女が眼前に立つ。
「シー……」
彼を塞いでいる左手越しに人差し指を立て、
「シ、シ、シ、シ、シ、シ………」
徐々に神経を落ち着かせながら、目線で自らの左腕を辿ることで、彼の注意を下へと誘導。
彼女の手は彼の首の下にあり、首筋にナイフの腹をピトリとくっつけている。
激しい動きで切れても知らない、という意思表示かのように、金物の冷たさを押しつけてきた。
彼が大人しくなったのを確認し、不法侵入者二人はダイニングまで引き摺って、食卓の椅子の一つに座らせる。
対面に腰掛けた少女が、笑顔で言った。
「天王寺四さん、ですね?」
彼はゆっくりと顔を縦に振る。
「これから放してあげますけど、余計なことをしたら、あなたの無事は保証しかねますので」
目蓋の隙間を細めに細めながら、小首を傾げての脅し文句。
少女は一見、非常に親しみやすかった。
美しさと同時に、気安さを感じさせていた。
彼女の前に座らされ、決して不快ではなかった。
寧ろ癒されるような所感さえあり、
だからこそ、恐ろしかった。
ゆっくりと手が剥がされ、彼は言われた通り、行儀良く黙った。
「初めまして。今日は漏魔症罹患者支援の代表的人物として、あなたに会いに来ました」
そうだろう。
彼を訪ねる理由が、他にある筈もない。
「日魅在進君。ご存知ですよね?」
息を詰まらせた彼に、「ああ、質問にお答えする時は、喋っていいですよ」、そう「許し」を与える少女。
「勿論、お静かにお願いします」
「……知って、ますぅ……」
「『次世代娯楽育成事務所“UWA”』、でしたっけ?」
表向き、彼と日魅在進の接点は、それだけだ。
だから、彼が関与していると、そう思い至ることは、難しいと思っていたのだが——
「少し前からススム君には、言っておいたんですよ。あなたに気をつけて、って」
「な、何故、でしょう……?私は、彼の味方で……」
少女はスマートフォンを操作し、スクリーンショットらしきものを見せる。
それが何か理解して、天王寺は目を瞠った。
「そ、それっ……!?」
「ある人から貰ったんです。あなたが所属してる団体から、わる~い人達にお金が流れてるって、証拠ですよね?」
「誰から…、いや、どこから…!?」
「その反応を見るに、やっぱり本物ですか」
それはある少女が、漏魔症支援団体内部の人間を懐柔し、引き出させたものだと言っていた。
信憑性としては低く、確証には至っておらず、だから進への忠告も、「注意しろ」程度で収められていた。
精々、探偵に住所を特定させるまでで、手を止めていた。
そのグレーが今、真っ黒に変わった。
鎌をかけられていたことに、天王寺が気付くも既に遅く。
「警察が、来たんですよ」
「………」
「仨々木さんの家に、早い段階で政府の手が届いたんです」
「………」
夫妻が連絡した相手は、以前自分達を助けてくれた人達。
一人は立て籠もり事件で体を張った進。
もう一人は、漏魔症支援関係で親身になってくれた、天王寺。
「あなたから、総理派に報告が上がったんですよね?」
そして幾つかの仲介を通って、仨々木佑人の魔力操作能力覚醒を、総理が聞き及ぶところとなった。
「あなたは漏魔症や、それを利用する反社会的勢力をコントロールするリモコンとして、総理派に使われている」
「その日」が来た時、彼らの暴発を最小限に抑える。
それまで常日頃から、反抗心や思考能力を削いでいき、スムーズな人権剥奪を成し遂げる。
彼はその為に用意された駒。
「あなたに、お願いしたいことがあります」
彼女は注意深く、天王寺の一挙手一投足を逃さないつもりで、そう持ち掛ける。
「漏魔症罹患者のイメージ向上、それに使えるチャンネルを、演出の材料を、あなたは持っている筈です」
何を提示すれば、彼は靡くのか。
それを正確に見極めようとして、
チラチラと外を気にしていると気付いた。
「何を見て」「ニ…ご主人様っ!」
そこに駆けこんでくるもう一人。
「なんか一杯来てるッス!」
「なんだと?」
天王寺へと視線を戻すと、彼は引き攣りながらも勝ち誇った笑顔を作っていた。
「国の機密を知る、数少ない民間人なんですよぉ、私はぁ…!」
一定範囲内で魔力を使えば、即座に警報が飛ぶように、隠しセンサーを仕掛けられている。
それくらいの備えは、当然。
「あなた達、こんな事をして、もう終わりですっ!」
2階からガラスが割れる音!
すぐに階段を駆け下りてくる!
詠訵は天王寺の背後に立って、その首にナイフを突き付ける!
「止まって!じゃないとこの人の命の保障はない!」
『第一実行部隊、行動を許可する。フラッシュの後に突入しろ』
「了解。フラッシュ行くぞ」
庭に通じる窓から閃光玉を投げ入れ、それが炸裂してから突入。
ダイニングで護衛対象を人質に取った犯行グループを、ボララップを発射してから素早く取り押さえに掛かり、
電撃棒型魔具が振り下ろされると、罅が入って金色の板が現れる。
「!?」
「幻影能力だ!」
「解呪!解呪急げ!」
それぞれの隊員と、そこにある板の全てに解呪魔法が掛けられる。
「やられた…!」
その部屋の、家の中には、天王寺の家族以外、誰も残っていなかった。
「周囲を探せ!まだ魔法の射程範囲内だ!」
「本部!こちら第一実行部隊!作戦失敗!天王寺四が強奪された!」