本物に触れて、本質に触れない
白取モデルに曰く、魔素とは穴であり、通り道である。
それは“向こう側”を覗かせ、エネルギーのやり取りをする。
では、魔素の向こうには、どのような景色が広がっているのだろうか?
残念ながら、人間はそれを見る事ができない。
魔素は、そこを通るエネルギーによってのみ知覚される。
魔素そのもの、その先にある世界、それは一切の干渉を受け付けない。
人は、魔素から出たものによって、間接的にしか、“向こう側”を推測できない。
それは考えないものとして、付き合っていくのが賢いだろう。
本当に?
本当に、考えないようにするのが、正しい在り方なのだろうか?
白取モデルは、未検証な事柄も多く、正式な論文としては未完成である。
それを良い事に、数々の仮説や可能性が、読み手に投げかける形で盛り込まれている。
その中に、魔力に関する項がある。
魔力は、ディーパーとして研ぎ澄まされた者にのみ、光として見えるもの。
ただその実態は、魔法未満ながら、影響力や効果を持った、エネルギーである。
これは、相手の力が持つ性質を、直感的に感じ取った脳が、光学的な像として、その形を補正するから。
というのが、従来の定説である。
だが白取は、どうにも納得が行かないと、そう考えていた。
ディーパーとして深まる。
それはつまり、魔学の深淵へと近付くことであり、“向こう側”により近しくなる、ということ。
そうなった彼らに起こる変化は、魔素の先が見えるようになる、
どころか逆に、
相手のエネルギーが見えやすくなることで、それが出る穴の奥が、見えなくなっている。
幾つか理由は考えられる。
普通は「穴」を感知できないが、より敏感になったことで、「何かが出てくる穴がある」と発見し、それが魔力の運動として視認できている。
或いは、魔法の使い手は、何かを隠そうという意思が、無意識下で働いている。
それとも、魔力を見る側の脳が、「見たくない」と、塞ごうとしている?
魔素の向こうは、どうなっているのか。
仮に、魔学的な感度が鋭敏な人間が居て、相手が不可視の魔力を使っていたら、
その者は“向こう側”を、知ることが出来るのだろうか。
では、「不可視の魔力」とは、どういった状態か?
それは、何かの主張?
それとも、何かの隠匿?
重要なのは、魔力の色が感じられる以上、光か、それに準じる何かが、発せられているということ。
プラズマが基底状態に戻る時、熱と光を発するように、
何らかのエネルギーが、相手の視覚野に訴える、“現象”に変換されているということ。
ならば不可視の魔力とは、その、敢えて言ってしまえば“余計”なエネルギー変換を挟まず、ただ純粋な運動量や効力のみに、全ての力が注がれている状態。
誰よりも鋭い、改変・破壊力を持つ者が駆使する、
頂点の、
“最強”の権能。
と、言えるのかもしれない。
例えば、窟法を起こす不可視の作用は、大抵の魔法より強いのと同じ。
また、人間が見れる光の範囲は、非常に狭い。
この世に溢れる殆どが、不可視光。
ならば、見えない部分にこそ、本質があるのではないだろうか。
不可視の魔力とは、最も本質に近いもの、ではないだろうか。
ローカルも、そうなのだろうか?
では、ローカルとは何か?
そもそもダンジョンとは、魔学とは、どのようにして誕生したのか?
他の自然科学と連続しているようで、まるで後から取ってつけたようでもある。
作り上げる物質もエネルギーも不安定であり、こちら側に生み出したものは、時間と共に完全消失。
親和しているようで、異物的。
世界に食い込んでいながら、後付けとしか思えない理。
それによって、棲んでいる者達に適応を強いて、誘導する法則。
それはまるで、
ダンジョンの中のローカルである。
魔素が人それぞれの形で定着し、条件によって異なる魔力を引き出せて、それで個人ごとに違った魔法が使える。
たった2000年前に急に現れた、その特殊ルールこそ、ローカル的である。
では、何のローカルなのか?
最初のダンジョンは、オリジナルディーパーによって、踏破、枯らされた。
それでも世界には、ダンジョンも魔学も残っている。
それでは魔学とは、
何によって、齎された法なのか?