654.救われない人達
「受け流して、どこまでも気楽に……、それが、出来てるつもりだったんだ……、だったんだけど、ね……」
殊文君の助手、いつも飄々《ひょうひょう》としていた良観先輩は、ベッドの上で窶れた顔を垂れ下がらせた。
すぐ横の窓の外では、多数のアームを持った、動く建築物みたいな重機が、瓦礫撤去や各所の修復に勤しんでいる。
魔学駆動系を持った、最新鋭の機材なのだと、先生から教えて貰った。
「君のような、当事者にとっては、ズルいスタンスだとは、思うけどね」
長く流した前髪越しの眼は、水分を失ったように萎んでいる。
「『可哀想』だって理由で、社会が人を救うべきじゃあ、ない。時間を掛けて、注ぎ込むリソースを精査すべき。それが僕の考えなんだ」
俺について、漏魔症について調べた、その理由の一つが、「現在の扱いが妥当であるのか」、それを客観的に検証する為、らしい。
「誰か、困っている人に、手を差し伸べたい。それは、美徳ではあると思う。だけど、人の本能は身勝手だ。『助けが必要なのだ』と、気付きやすい対象と、気付きにくい対象、どっちもあるのが、特に良くないところなんだよ」
感情で助けていると、人間意識というプログラム的に、「可哀想」と認定しにくい、一定の人達を無視することになる。
憐れんでもらえた時点で、社会に認知される強者となる。
真の弱者は、誰からも苦境を認識されないもの。
「弱者を救う。それは、一部のグループを特別扱いすることだ。疎外して迫害することにもなるし、英雄として扱うことにもなる。どちらかではなく、その二つは根本的には同じことなんだ」
だから、弱い者を助けるというのは、時に危険なのだと、彼は語る。
助けを求めて喉を嗄らして、それでも耳を貸してくれない。そんな鬱屈を溜め込んだ人達の前で、大した理由もなく優遇される者達が居る。
その状態は、容易に人を堕とす。
公平公正に扱ってくれるという、社会からの約束が、有名無実となってしまったら、
法も秩序も、人はその場で脱ぎ捨てるようになる。
それらを守ったところで、良い事なんてないと、そう思い込んだら最後、屑紙みたいに丸めて投げる。
「勿論、その感覚がいつだって正しい、というわけではないさ。感情に振り回されているのは、彼らの方も同じなんだ。失うものなんてないと拳を突き上げたせいで、まだまだ幾らでも失い続ける、そういうことだって、よくある話さ」
だから彼は、優遇不遇の主張合戦に対し、論証による説得を試みた。
ディーパーや漏魔症罹患者は、政府から守られていて「ズルい」のか?
有望な潜行者は、才能があるから「ズルい」のか?
深化を起こす者達は、運に恵まれているから「ズルい」のか?
それらを検証し、その上で公的な扱いなり、支援なりを、適切な形に整備する。
良観先輩が目指したビジョンは、そういったものだった。
それにはまず、信頼できるデータが必要だ。
新開部に入り、そこで出会った優れた頭脳、殊文君と協力し合い、「本当の弱者支援とは何か」、そのテーマで魔学の世界に切り込んだ。
「冗談じゃないって、そう言うだろうね。君がこれまで苦労して、政府の支援が無ければ生きていられなかったことは、君にとって真実だろう?そこに疑いを差し挟まれるなんて、恵まれた者の寝言を聞くようなものだろうさ」
「いえ……、視点としては、普通に分かるって言うか……」
何なら、似たようなことを言っていた人を、俺は知っている。
日魅在衛。
俺のにーちゃんだ。
見えないところで追い詰められてる人が、一番悲惨なんじゃないか。
そういう話を、小さい頃から聞かされていた。
漏魔症は、どうなのだろうか。
可哀想と、思われていない側にも見える。
でも、事実として、実際の運用として、特別にお金を投入されて、援けられている。
働かなくても暮らしていけるように、社会が整えられている。
元は、偏見溢れる世の中で、社会に受け入れられるまで、補助として支払われるものだったらしい。
だけどいつからか事実上、漏魔症の隔離費用、みたいなものになってしまった。
何か、社会でまだ認知されてないような、分かりにくい不利を背負っている人が居たとして、それか、自分がそうだと信じ込んでる人が居たとして、
漏魔症罹患者って、とっても楽で、理想的な生き方に見えるんだろう。
上も下もないって言ったところで、「特別扱い」が制度として実在してしまっている。
その本当が彼らの背中に、まるで神話の刑罰みたいに、大岩を乗せて行動力を削ぐ。
それか、恨みや憎しみに油を注ぐ。
絶望が、人から約束を奪って、獣にしてしまう。
と言うか、たぶんほとんどの人が、「自分だけに降り掛かる不幸」を、それぞれ個別に持ってるんだろう。
それは個人的なことで、聞いてもらえないのが当たり前だから、誰かが特別にされた瞬間、「なんであいつだけ」と思うことを、止められなくなるのだろう。
弱きを助けるって言うのは、「自分は弱い」と思ってる大多数に、無力を与えたりイジけさせたりすることと、表裏一体。
だから、「約束を破ったのではありません」、「どころか、約束を守る為にやってるんですよ」、そういうちゃんとした理屈を周知することに、意味が生まれる。
従って、「やる前に理論武装を徹底する」、その姿勢も普通なことだ。
そこまで考えたことを、かいつまんで先輩に話した。
社会が人の集合である以上、公の力を使うなら、まず納得させる理屈ありき。
そういう順番でゆっくり進めるしかない。
理解できるし、同意する。
彼の牛歩も、漏魔症への支援の再検討も、怒るようなことじゃない、と。
良観先輩自身が、それに首を振る。
「それはそうだ。正しい。正しいから、僕は思い上がった。思い上がってしまったんだ」
なまじ、それが一本に通っているのが、気付きを遅らせたのだと、彼は語る。
「良観先輩は、何を、分かってなかったんですか……?」
「笑ってしまうほど、当然のことさ」
彼の自嘲には、明らかに力が無かった。
「『時は金なり』。時間は、貴重だってこと」
時間経過は、常に、確実に、起こっている。
だからこそ軽んじられがちだが、実際のそれは純金より重い。
「間違いが……、本物の不遇が、世の中にあったとして……、その是正に時間を掛けるってことは、それだけ被害の拡大を許すってことだ。それだけ見捨てる人数を増やす、ってことだ」
急いで変えれば、何も奪われなかった、救われたかもしれない人達。
それは1秒ごとに沈殿し、下に掛ける負荷を強めていく。
底が抜けるまでの、崩壊の力。
それが今も、堆積し続けている。
「で……、でも、だからって、焦ってやったら、新しい問題が、生まれちゃうことだって……」
「そう、そうだ。上っ面の情に流されて、その場その場で『良いこと』をするなんて、社会転覆の最適解なんだ。だから僕は、今のやり方が正しいって、自信を持っていた。疑わなかった」
けれども——
「『それが解決する時、自分はもう手遅れになっている』。そう思いこむ人間が出て来るのも、疑いようのない当たり前だったんだよ」
幾ら正しいことをしようが、幾ら改善していこうが、その者達にとって、社会は憎き敵である。
自分の力で解決することも、助けを求めることも許さず、彼らが犠牲になるのは仕方ない、そう断じてしまったのだから。
それは、思い込みだ。
それは、我がままだ。
それは、言い掛かりだ。
では、誰がそれを、証明してくれるのか?
彼の主張の是非が出る頃には、彼はもうドロップアウトした後。
今死んでも、後で死んでも、結果は同じ。
少なくとも、そう信じてしまった者達に、理屈なんて無意味。
死後に向日葵の絵が売れたところで、
作者はそれを喜んだのか?
否だ。
彼はもう死んでいるのだから、喜ぶどころか知ることすらできない。
「彼らは、間違っている。間違ってるんだけど、だけどその事実を指摘しても、何の意味もない。彼らにとって、社会の『正しい』挙動こそが、自らを処刑するギロチンの所作なんだからね」
社会を「正しく」運用するとは、そういうことだ。
その社会が、未来でも残る為、より強くなる為、弱くなるとしても最小限の損失に留める為、子々孫々の出来るだけ多くが幸せになる為、
今を生きる者の中から、出来るだけ少なく、けれど絶対に、
幸せを削り、人生を手放させる。
誰かが、「その役」になる。
自分が救われないのを知りながら、社会に奉仕し、隷属し続け、墓の下まで約束を握り続ける。
社会の形成過程で、それを誰かがやらなければ、真に平等で、真に平和な国なんて、作れない。
“本物”を作るには、時間が必要で、
人間の寿命は、そこまで待てないから。
「僕は、受け流している、つもりだったんだ。『可哀想』だとか、『救いたい』だとか、そういうものにのめり込み過ぎず、強い心で前に進んでいる、って」
それは思い違いだったと、彼は頭を抱えた。
「『正しい』ことは、誰かを捨てて、殺すことと同じだったんだ……!僕は、『受け』られていなかった……!避けていただけ……!避けて、避けて、自分が避けていることすら気付かなくて……!」
これまで運良く触らずにいられた。
ぶつかってすらいなかった。
それを、分かっていなかった。
受け流せているなんて、思ってしまった。
実際に受けた時、その重さに背中から、地へと叩きつけられた。
「僕は……!僕は、人の幸せを……!誰かを救うって、素晴らしいことに、正しさを添えられるなら……!もっと、もっと世の中が良くなるって……!」
ベッドやサイドポールまで、音を立てて揺れ始める。
顔から伏せてしまった彼の背を、殊文君が撫でて落ち着かせる。
「もういい、良観…!もういいだろう…!今は休め…!」
俺とミヨちゃん、ニークト先輩の目にも、良観先輩は限界なように映った。
救おうとしていたものを、その手で殺す。
その倒錯した、悪趣味なシチュエーションを、俺と同じように、彼もその手で味わった。
自分の色んな中身が崩れてしまうのも、無理はない。
彼が言いたかっただろう内容は、全て聞けただろう。
後は、全部吐き出したことで、快調に向かうことを祈るしかない。
俺達は二人に幾つか言葉を掛け、後ろ髪を引かれながらも、その病室を辞すことにした。
廊下に出て暫く、気まずい沈黙が漂う中で、全員が下を向いていたのだろう。
小さく驚く声に、前を確認したところで、3人とも初めて気が付いた。
そこに居た数人は、仲の良い友達同士だった筈だ。
何故知っているかと言えば、一度、彼らと話したからだ。
俺を守って死んだ朳君。
彼について俺を問い詰めた、
あの時のメンバーに混じっていた顔触れだ。




