626.どうしても、やらなきゃいけないのか?
疲れたな、と、
素直にそう思った。
教師という職業は、疲れるものだ。
それは知っていた。
生まれる前から、彼の骨身に沁みていた。
どうしてだったか。
あれは、そう、二千……、何年だったか。
彼は矢張り教師で、人の為に働こうと、胸に決めていた。
世の中を支える人間で、価値ある職務に就いている、その誇りを確かに持っていた。
理不尽も多かった。
人が足らず、必然、時間が足らず、給与額が良いわけでもなく、年々負わされる責は重くなる。
けれども、踏ん張りどころだという覚悟はあった。
自分がここで持ち堪えることが、社会にとって大きな意味を持つ、その想いは変わらなかった。
その身を捧げ、人から信頼や尊敬を集めていれば、それ以上の幸せはないと、そう信じていた。
馬鹿な話だ。
信頼なんて、されていなかった。
彼が積み上げたのは、うだつの上がらぬ中年男性の“気持ち悪さ”だけだ。
少女が指を差し、身に覚えのない行為を騙ったその時、彼を見る目の色に、嫌悪と軽蔑以外は見つからなかった。
彼は歯車として、分かってくれる人々だけでも、敬意を向けて、信じてくれていたら、それで良かった。
だがその勤労が利権と呼ばれ、人気取りの短命政権が発注を潰して回り、会社が倒産し露頭に迷った後ですら、誰も彼に同情などしなかった。
泥に塗れているから、ゼロをゼロのままで保つのは当たり前だから、彼はいないものとされた。
彼がやる仕事は、無駄遣いとされた。
何も起こさないようにする日々の働きは、何も起こしていないのだから、金を払うべきものではないのだ。
だから彼は、社会というシステムから追い出された。
ホワイトカラーになれなかったのがいけないのだと、そうも言われた。
代わりが幾らでもいるような職しか選択できなかった、自分の無能を呪えと言われた。
同じ世代でも半分近くは正社員になれた。
お前が平均より劣っていただけで、それを社会のせいにするな。
耳に胼胝ができるほど聞いた。
そこに病名が付けば、もう少しマシだったのだろうか。
いや、それでも、彼が成人男性と言うだけで、弱き者として見られない状態は、ずっと変わらないだろう。
公的支援は女子どもが優先だ。
ジェンダーからの解放とは言っても、家の無い男を心配しようともしない意識は、脳にべったりと貼り付いて取れないもの。
彼は憐れな被害者にはなれず、見たくもないゴミか、足を引っ張る加害者か、どちらかの役しか許されていなかった。
この阻害されている感覚は、分からないのだろうと思う。
親の経済状態やら思想やらを理由に、選ぶことが出来ない彼を横目にすら入れず、性別だか性的嗜好だかが、支援に値する“不利な要素”として掬い上げられていく。
彼は救われない。
何故なら彼が不幸なのは、正しいことだから。
そんなことを不幸と思う人間は、負けて当たり前だから。
公平で、公正で、無垢で、無謬な裁きの結果、
彼はどん底に墜ちたのだ。
見ていて不快な人間が不幸せなのは、
当然の報いが下ったから。
彼がみすぼらしく転がっているのは、
それだけ世間が正常だという証明。
彼を見て、この世はちゃんと出来ていると、今日も誰かが安心する。
ここが、新しい居場所だ。
新しい役だ。
彼は更なる底に潜って、社会を下支えするのだ。
彼が惨めに行き、悲しく死ぬほど、
“人”が、社会の正当性を、世界の平等性を、
信奉できるのだ。
彼の罪は、
視界に入るだけで相手を苦しめ、傷つけること。
万死も足りぬ蛮人だ。
そうだろう?
「はぁ……、疲れたな……」
割れたレンズの内側、破片の一つ一つに種々の記憶を映し見ながら、彼は何度目かの溜息を吐き出した。
眼鏡についた水滴を拭おうとして指先を持ち上げ、どうせ罅だらけかと思い直し、やめる。
そして彼の、少し上がった鼻の先に触れようと、飴色がズブズブと伸び掘って、原動力を使い果たして消えかかっていた所に、尻を叩くよう追加分が重ね撃たれる。
「なんで、こんなことに………」
心底面倒そうに目蓋を緩め、空を仰ぐ。
対地戦闘ヘリを、更にゴテゴテと銃身で装飾したような、一方的虐殺意思の具体例が、砲火を追い焚きする。
明胤学園だけでなく、丹本国を弱体化させる手筋として、これは妙手と言える。
彼がもう少し、あと少しだけ希死念慮に振れたなら、ここで黙って死んで、東門が突破されるだけに終わる。
だが、最後まで足掻くのであれば、自動的に丹本の立場が崩れることになり——
——それだけ、か?
もし、その先があるとしたら?
例えばクリスティアが、これから何か更なる無法を通そうとしていて、その横車を押す突破口として、彼を使おうとしているのだとしたら?
まあ、どちらでもいい。
分かるべきなのは、ここで「生きよう」としてしまうと、その時点でクリスティアの術中に嵌まる、ということだ。
大人しく殺されるべきか。
そうすれば、どこにも迷惑を掛けず、幕を閉じる。
ここで足掻くと、どの味方にも、マイナスを与えることになる。
「………なんだ、いつもと同じか」
彼が黙って、物分かり良く社会から落伍し、リソースを食い潰すことなく死ねば、それで皆が厭な思いをしないで済む。
誰もが納得して終わる。
「別に、悔いらしき悔いも、無いな……」
目蓋が落ちていく。
銃砲を撃ち込まれていると言うのに、
耳に届くのは雨の静寂。
小さく続くノイズのようなそれに沈むうちに、
意識は眠るように離れていく。
全身が吹っ飛んで終わりなら、それはそれで楽で良い。
欠伸が出るような安寧の中、
心地良く夜が降りて来る。
「せんせーっ!!!」
弾かれるように振り向く。
飴色の隙間から、ライトイエローが眼窩を刺し貫く。
何故ここに、
舌がその一節を乗せ、口が開かれる前に、
銃口が先に開く。
人が嫌がることをする才能にかけて、自分と同等以上の者に出遭ったのは、これが初めての経験だった。
飴色が横切り、大気や降水ごと中空を裂いた。
そこだけが、青い空の下に、陽が直接照っているような明度。
少女の小さな身体には、過剰とも言える集中攻撃。
その前に翻る、深い色の大布。
亜麻色が銃撃を吸い尽くし、それらが編まれて一本の縄を作り上げ、その先端の輪っかがヘリコプターの尾を捉え、X軸方向へと急速で引き回す。
回転しながら棟の一つに体当たりして爆発炎上するそれに構わず、
少女の前に立った“それ”は、頭を巡らせて背後を見下ろした。
白面の獅子舞。
簡略化して特徴だけ抽出すると、そういう表現になる。
四つ足、に見える四本ともが、よく見ると巨人の太腕そのもの。
纏う布は青地、そこに白い渦巻き模様が、鯉のぼりの鱗のように重なり合っている。
頭からは脂ぎった黒髪が伸び、赤やシラミらしき白い虫で汚れている。
顔は殆ど髪に隠されていたが、濁点部分が目の下に配置された、「へのへのもへじ」が辛うじて見える。
口は笑っているかのように、横まで裂けて歯茎が剥き出し。
首回りには、麻縄らしきものが巻き付いており、それは上へと伸びて、途中で別の空間へと消えていったふうに見えるほど、不自然に途切れていた。
〈はあ………、結局、こうなるんですね……〉
突如現れたモンスターから、彼女が耳に何度も覚え込ませた声が聞こえる。
大きな両目はポカンと見開かれ、碧緑の瞳は針で開けられた穴ほどに収縮し、まるで白目を剥いているかに見えた。
「せ、せん、せ……」
髪の毛の結びと、渦巻き模様が、六芒星魔法陣に変化。
〈辺獄現界〉
景色が、一変する。
〈“箴埜筵”〉
そこは、教室やオフィス、路上や電車といった、どこか現代丹本を思わせる光景の、混合。
縄で首を吊った男達が、あちらこちらからぶら下がり、或いは床を埋めている。
〈この姿で、あなた達の前に立った以上、他にありません〉
整理など一切追い着いていない少女を、狼男が引っ張り戻し、パーティーの陣形内に押し込める。
〈「厄は外、福は内」。やりますよ、人とモンスター、どちらかが死ぬまで〉
「ダンジョンの法則通りに」、
誰にも望まれなかった筈の殺し合いは、
このようにして始まった。




