607.戦争が、やってくる
大気がジメジメと水を吸い、重くなっていく。
池の底みたいに、息が苦しくなったような錯覚。
「ニークト様……イカメシ顔ッスね……」
「“厳めしい顔”だ」
「それッス……」
トクシのメンバーで学園に居合わせたのは、俺、ミヨちゃん、ニークト先輩、八守君、訅和さん、来栖君、二瓶君の新開部組。
六本木さんは他の友達と遊びに行くと言っていた。
狩狼さんは別のメンバーで、ダンジョン攻略に向かっていた筈だ。
トロワ先輩は武者修行と称して、後輩女子ズと遠征しているらしい。
「六本木さんと狩狼さん、巻き込まれてないといいんですけど………」
「行き先からして、ちょーど包囲網の境界らへんになるからねぃ………」
「奴らなら戦火に囲まれても、ここまで無事に辿り着く。そう信じるしかあるまい」
「もう一つ、言いにくいことを言います」
二瓶君の笑みに、玉の汗が一筋落ちる。
目元が筋肉で意識的に歪められていると、見ただけで分かる。
「いかな僕であっても、ここに居ない先輩方を心配出来る余裕は、持てません」
「………そうだね。まず私達が生き残らないと、無事の便りを待つなんて夢のまた夢だよ」
「やっしかないっしょ……」
薄暗い雨垂れ幕の向こう、視認性が最悪に近い彼方。
人を簡単に殺せる道具が、群れを成してそちらから迫っている。
その姿は見えないけれど、近付いて来ていることだけは分かる。
それが、恐ろしい。
『学園内魔素放出シークェンス開始。各自、濃度を確認してください。学園内魔素放出シークェンス開始。各自、濃度を確認してください』
アラート音と共に届いた放送のすぐ後くらいに、魔力の湧出の勢いが露骨に上がる。
「来た……!」
避難しに来た一般の人達が、新たに魔学回路を得てしまうリスクがあるのも承知で、大規模魔素生成システムが稼働を開始した。
防衛用設備の一つであり、膨大なカートリッジを消費することで、疑似ダンジョン状態を作ることが出来る機構。
これで学園内の潜行者はリソース供給を受けられるし、俺もちゃんと戦える。
ただし当たり前だけれど、この状態を維持するのには莫大なコストが掛かる。
それが起動したということは、敵がすぐそこまで来ているから、全力の迎撃態勢に入ったってことだ。
「受け入れもまだ全然なのに……!」
ミヨちゃんが言う通り、講堂を始めとして各種施設内に避難民を収容する作業は、とても完了しているようには見えない。
学園内に長蛇の列がうねって、今もずぶ濡れで不安げにさざめている。
それだけ広範囲の人間が、ここに駆け込んでいるってことだ。
今回ばかりは、ダンジョン発生とかの方がまだマシだったと、そう思ってしまう。
ダンジョンなら一箇所から広がっていくけれど、今はぐるりと封鎖されて追い込まれている。
キャパシティを超えようと、他に行き場なんて無い。
「俺達の出番、無きゃ無いに越したこったなっす」
そうだ。
俺達が戦わなきゃいけないってことは、先生方が負けたってことを意味する。
そして、この混乱状態な群集を、生徒の力で全て守らないといけない、ってことでもある。
そんな事態。
どれだけ悲惨なのか、想像がつかない。
「センセー!ちょっと!こら!まて!」
天候と同じく暗澹としていた俺達が、雨宿りをしていた建物。
高等部座学用の校舎だが、その玄関にもう二人やって来る。
プロトちゃんと、壱先生だ。
「先生、もう行くんですか?」
「はい。寧ろ、長居し過ぎなくらいですから」
先生は当然、最前列だろう。
弾丸を使う敵に対して、その能力はあまりに適材だ。
「べっつに、いーじゃん!ビビってんの分かってんだから!」
だがプロトちゃんは、違う意見らしい。
「センセーみたいな腰がすっぽ抜けたアオビョータンが行っても、ジャマになるだけだって!」
彼女の口のヤンチャさには慣れっこだったけど、いつも感じていたじゃれるような気安さは無い。
「てゆーか!アタシの後ろに隠れてていーんだよー?それがお似合い!アタシの方がぜんっぜんに強いんだから!」
余裕が無い。
追い詰められた時に、それでも見せる反抗的な笑みも無い。
高圧的に、上から押さえつけるような口調と語気だったのに、
俺にはまるで、縋りついているみたいに見えた。
「エカトさん」
先生は膝を折り、視線の高さを彼女に合わせる。
「すみません、エカトさん。私は、行かなければいけません」
「だからっ!おかしーじゃん!強いアタシがまず出てって、センセーは…!センセーはベンチ温めてればいいのに…っ!」
食い下がる彼女の頭を撫で、落ち着かせながら彼は言う。
「それではいけない。いけないんですよ、エカトさん」
「いけないのは、大人のしょーもないプライドじゃん…!大人しく負けてるの認めて、もっと強いアタシ達に任せれば…っ!」
「いいえ。それは、生徒と教師、子どもと大人の関係ではありません」
ぴしゃりと頬を張るような、有無を言わせない断定。
けれど、どうしてか温かさを感じた。
「私の役目を、仕事を、果たさせてください」
「そんなにっ、そんなに死にたいってわけ…っ!?」
「エカトさん。私に——」
——あなたを守らせてください
ギュッと、シャツの裾に、少女の両拳が皺を寄せる。
「私達教師に、あなた達生徒を、どうか守らせてください」
続く言葉に、彼女は「そっ!それっ!」、と目を瞠り、白黒何度も往復した後、
「サイアクっ!」
迷子になっていたらしい感情が、結局は怒りとして出力された。
「サイアクッ!自分の力量も、勇気とムボーの違いも分かってないっ!気の利いた説得もできない、サイアクダメ大人!」
「ほんとに、サイアク………」、
言動が隅々まで弱々しく尻すぼんでしまった彼女を、最後に2、3回ほど軽く撫で、立ち上がった先生がこちらに体を向ける。
“あのこと”もあって、俺はつい、半歩下がってしまった。
「皆さん。後方を、エカトさん達を、頼みます」
一礼と一緒にその願いを置いて行った彼は、答えを聞くこともなく、レインコートのフードを被りながら、大降りの下へ進み出ていく。
「ばか」
その背中に、プロトちゃんは拗ねていた。
「先生なんか、キラい。
お願いしますって言われても、助けてやんないんだから」
本人に聞こえたのかは分からない。
いや増すばかりの雨声が、掻き消したふうに思えはする。
自らの職責に誠実に見えるその態度を、俺は複雑な思いで見送る。
と、彼が消えた方向から、入れ違いに別の影が生じて、大きくなっていく。
それは車だった。
黒っぽい、暗い色だと思ったのは、日の光が遮られてるせいなんだろうか。
どことなくレトロと言うかクラシックと言うか、尖ったギラつきを放つタイプでは無いけれど、「高い車」だと思わせるような気品を備えていた。
それは校舎の玄関前に、横付けして止まった。
運転席から出て来た、それを職業としているらしい人が、傘を差して後部座席を開く。
窓にカーテンが引かれたそれの内から、ゴーグルを装着した黒服に先導されて、スーツの前ボタンを外しながら、丸い鍔のある帽子を被った男が立ち上がる。
「失礼。人に会いたいのだが……」
その人と、両の目がばっちりと搗ち合う。
みんなの反応を見たかった。
流石の俺でも、顔と名前を知っているある人物、それに見えてしまったから。
何かの間違いじゃないか、それを確かめる為、周りを見回したかった。
だが衝撃のあまりか、それとも紳士的な洗練に刺し貫かれたか、
俺の体は固まって、舌先の一寸すら、動かなくなった。
「何かが引き合わせてくれたか」
「まさか、尋ね人の方から出て来てくれるとは」、
肩幅の広い初老の男は、理知の光を湛えた黒眼で、
閉じ込めるように俺を映す。
「僥倖、僥倖だ」
内閣総理大臣、三枝聡一郎。
この国における、行政のトップ。
彼は帽子を取って、
まるで俺と1対1、上からでもなく下からでもなく、
両者の間には何の差異も隔たりも無いという顔で、
ただ友好的に握手を求めた。
「君が、日魅在進だね?」
漏魔症の俺に、握手を。




