596.普通じゃないし、特別でもない
訅和の居心地の悪さは、放課後になっても取れなかった。
「ありがとう」、彼に言われた言葉が胸に閊えて、たまらなく叫び出したくなる。
彼は彼女のことを、友人として信頼し、尊敬までしている。
彼が素直過ぎるくらいの竹割り男だから、それが疑念の挟みようがないほどよく分かる。
あの一件の後も、彼は何ら変わらず彼女に接してくれている。
見下していないどころか、対等以上と見做しているのだ。
その事実が、より敗北感を深めてしまう。
この話の登場人物の中で、心が狭いのは彼女だけだ。
あの二人ばかり先に行き、不貞腐れた童女がヤダヤダと、起き上がれなくなった虫みたいにジタバタして、平手一発で宥められた。
彼女が下級モンスター達に決死の勝負を挑んでいる間、あの二人はダンジョンのような場所に閉じ込められ、D、W、A、Z型を討伐していた。
遠くなっていく。
追い着けなくなっていく。
そしてそれが、才能なんかとは別に、自分の手による蓄積の差だと、それが完璧に分かって、辛くなる。
考えなり、努力なり、覚悟なり、足りていなかった。
社会的評価の高い集団の一員で、一番好きな人の隣で、もっと欲しがると苦しくなるから、それ以上は別に良いかと、足るを知ってるフリをして逃げて………
彼女は、誰よりも貪欲だった。
自分の強さ、能力を研ぎ澄ますような、ありふれた苦痛すら、許容できなかったのだ。
その帰結として、「これだけは」という最低限の望みが、脅かされている。
謙虚や質素は、美徳かもしれない。
でもそれらは、怠惰の言い訳になりやすい。
「今日が良いならそれでいい」とは、「明日のことで悩みたくない」と同じことになる。
計算したり、稼ぎ直したりが面倒だから、お金をケチって使わないようにするというのが、必ずしも良い事とはならないのと同じ。
彼女は「今が満たされているから」と、現状と成長を停滞させた。
流れる時間の中で、その場に留まるとは、動く歩道の横で突っ立っているのに似て、相対的に後退するのと一緒。
彼は違った。
彼は、あれだけの物を持っていて、成功して、今も満足していない。
その強欲は、時に身を滅ぼす。
だけどそのリスクに踏み出さない者は、そもそも勝負すらさせて貰えない。
何より彼は、「理想的な世界が一番良い」ということを、忘れていない。
半端に現実に気触れた人間は、「最善」のラインを徐々に後ろへ妥協していく。
戦いなんて起こらない方がいいし、全員が幸せで、誰も死なないのが一番良い。
だけど現実は、その世界設計に合致するようにデザインされていない。
あちらを立てればこちらが立たず、引っ込めたところで角が立つ。
だから、「戦いが起こっても周囲を守れるのが一番良い」となり、「できるだけ多くが幸せな方を選択するのが良い」となり、「外側や少数を切り捨てて行こう」となり、いつしか「自分が満足してるからこのままでいい」となる。
現実的に無理な理想を望むことは、「それはどう頑張ってもできないんだ」という絶望が、「いつか絶対にやって来る」と覚悟することと同義で、疲れるし、やりたくない。
時間と共にみんな、出来ないことを望まなくなる。
彼は、
まだ16歳だから、これからどうなるかは遠く未知数だが、
今のところ、理想を夢見れる側の人間だ。
自分が幸せで、周りが幸せで、社会が幸せで、国が幸せで、世界が幸せで、誰も死なない、何も滅びない、そんな矛盾だらけの絵図が、「叶えばいいな」と本気で思っている。
一方で、現実を知らないわけでもない。
汚らわしい世相を、儘ならない事柄の数々を、特に漏魔症に罹った後からはずっと、その目で見てきた筈である。
彼の幸せは、誰かの幸せと相克する。
その程度のことを、気付いていないわけがない。
だけど彼は、自己も他者も幸せになることを、願っている。
そして「それはできない」という事実に鼻先からぶつかられて、その度に傷つきながら、自分の手で「厭なこと」をやり遂げる。
彼は理想だけずっと高い位置にあり、自分がどれだけの力を手にしても、どうにもならないと理解しながら、その進歩を止めようとしない。
永遠に不満足なまま、達成不可能な目標を追い続ける。
並の精神力ではない。
そして、そこまで多くを求める男だったから、
これまでの危機を切り抜けてきた。
彼らが閉じ込められたダンジョンは、彼がZ型を討伐したことで滅びた。
「まずまずの強さ」で止まっていたら、あの試合に出ていた12人は、全員死んでいた。
訅和は、詠訵を喪っていた。
彼女が外野で良い人のフリをしている間、本当は何よりも優先したい真の望みを叶えてくれたのは、他ならぬ恋敵だったのだ。
「あーー!も~~~~~~っ!」
訓練用の強化ゴム人形を背中から投げ落とすボディスラム!
「もおおおおおおお!!」
引っ繰り返したそれの背後から取り付き、体を後方に反らせて叩きつけるスープレックス!
「ほん、のるばあーーーーっ!!」
また裏返し、背中に乗って、エビ反りにするキャメルクラッチ!
「ふぃ~~~………っ」
前腕で額の汗を拭いながら、立ち上がる。
成人男性の体重まで再現されたその現代的木人は、修復できる用務員がいるということで、「幾らでも破壊していい」という寛大な御言葉と共に貸し出される。
ストレスが溜まると、こうやって放課後に訓練がてら発散するのが、彼女のお決まりの行動パターンであった。
同じアリーナ内の、隣のコートからドン引きした目を向けられているが、どうせ間にシールドが張られているから、迷惑は一切かけていない。
ならばちょっとやそっとの怯えなど、彼女の知ったことではなかった。
そうやって打ったり刺したり踏んだり絞めたりしていると、
「………お邪魔だったかしら」
いつの間にやら入ってきたらしいトロワが、困り眉で立っていた。
「わっと!トロちゃん先輩、どうしてここに!」
「いえ……。あなたが今日、自主練をしてるらしいって聞いて、同じ教室の先輩として、激励をしに………」
なんと、彼女がそんなにも気配りのできる性格だったとは、訅和には思いもよらなかった。
「ついでに、一発格付けでも、と思っていたのだけれど」
どうやら威厳が欲しかっただけのようである。
一瞬見直しかけたことを軽く後悔した訅和であった。
「言っておくけど、偉ぶりにきたわけじゃないわよ」
「ハイハイワカッテマスヨー」
「聞きなさいよ」
露骨に流そうとし過ぎである。
「あなたの体術、特に相手の痛みを重視するやり方は、レイピアの突き主体な私の剣術と共通するところがあるでしょう?」
「確かに、そうですねぃ」
「だから、吸収してやろうと思ったの。名案でしょう?」
納得の理由、のように聞こえる。
だが、動機の筋が通っていても、行動がよく分からない。
「それなら、昼間にトクシで会う時に、一緒に聞いてくれればいいですじゃんか」
「百聞の時間を、この身を以ての体験に割いた方が、効率が良いじゃない。私の“時”は純金より貴重なのよ?」
「痛い方が早く覚える」、それを受ける側の口から言う人間は、あまり多くないだろう。
「トロちゃん先輩は、すごいですねぃ」
「当然じゃない」
「いやそういう意味じゃなくて」
「なんで発言者本人が否定するのよ!?」
強いとか、向上心があるとか、それもそうなのだが、
「なんか、“並”なのに、“普通”じゃない自分に、胸を張ってる感じ、ですかねぃ」
彼女が感じた驚嘆は、それだ。
自分が外れた人間であると受け入れながら、自分が足りていないことを知っていて、少しでも良くなろうと前進している。
普通でないから、特別なのだと、そう信じ込んでいた訅和とは、決定的に違う。
「そんなことは、ないわよ」
俯きがちだった彼女は、トロワが謙遜するという驚天動地に、ガバリと音を立てて顔を上げてしまった。
「な、なによ」
「い、いやあ……」
そこはもっと、「そうでしょうそうでしょう!」と、積極的に自慢しに来るところだと思っていたのだ。
「私だって、普通というか、常識というか、『こうあるべき』って規範に逆らうのは、怖かったわよ」
「怖い」、
その口から出ると、夢にも思っていなかった一語。
「私はずっと、言い訳してたの。自分が普通で、自分だけが正常で、そういう意味で並外れた人間で、だから他から外れているのは、自分以外が間違ってるからだって、そう言い張ってたの」
訅和は普通に擬態しながら、普通じゃないという暗い優越感で、自尊心を満たしていた。
トロワは普通の軸を自分に置いて、そこから外れたものを軽蔑することで、除外される不安を拒絶していた。
「でも実際は、私が偏屈だった、ってだけ。世の中に幾らでも居る、頭が硬くて口喧しい人間の一人。だから、偏屈な人間として生きることを選んだのよ」
彼女がそれを悟ったのは、
そういう生き方を選んだのは、
「あ…あなたの、お蔭、でも、あるのよ……?」
ふいと目を逸らしながらの言葉に、訅和は愕然とする。
「わ、わたし……?」
「世の中の欺瞞の全てを分かった気になって、自分だけ賢いつもりだった私に、重いパンチを入れてくれやがったの、忘れたのかしら?」
去年の、誘拐騒動があった直後、教室での話し合いを言っているのだろう。
「あ、あれはどっちかって言うと、ノリっち先輩が……」
「まあ、腹立たしいけれど、あの男に良いように正論をぶつけられたのも事実ね。ただ、あなたも共犯だから。と言うか、あなたの一発が一番効いたから」
「そ、そんなぁ~……」
自分の至らなさへの不安や危機感を、万能感という一時凌ぎで麻痺させていたトロワにとって、逃げ場のない状態で、「現実見れてないですよね?」と指摘されたのは、何より重い一撃だった。
それによって、これまで押し込めていた数々の痛みが、一気に噴出したからである。
「だから私、その時のこと根に持っているし、……コホン……感謝、してあげなくもない、と、思ってる……ような……」
「急に歯切れ最悪っ!?」
かつてのトロワに、何故か無性に腹が立っていたのは、きっと同族嫌悪だったのだろうと、訅和はやっと分かった。
だから、彼女に言ったことは、八つ当たりみたいなもので、感謝される筋合いではない。
それでもついつい、彼女ほどの人間に謝意を示されると、少しいい気分になってしまうのは、誰かさんのことを笑えないくらい、単純な構造の頭である。
なんだかこうして見てみると、似た者ばかりの教室だ。
集めたパンチャ・シャンの慧眼、ということかもしれないが。
「で?」
「………はい?」
「だから、模擬戦よ。やるの?やらないの?」
「立ち会いをお願いできる相手に、心当たりとかは?」
「私が連絡すれば1分で駆け付ける後輩ならいるわね」
彼女にそこまでの人望がある理由が分からない、と、これまでは思っていただろうが、今の訅和には、それがなんとなく分かる気がした。
「よくできた後輩ちゃんですねぃ。大事にしないとダメですよ~?」
「そうね。特に私の場合、決して性格が良い方ではないって、最近分かってきたものね」
こうしてその日は、二人で和やかに切磋琢磨して——
「え?今更?」
「は?」
とはならず、恐るべき大人げなさで、片方が徹底的に切り刻まれたのは、言うまでもないことである。




