560.甚だしく仰々しく
「あ……ぁう、ぁぁ……」
その能力で、日魅在進の右眼を治癒し、“彼女”を呼ばせた睦月は、
「うあああ、あ、ぁ、あ……」
腰を抜かして、へたり込んでいた。
「あ……へっ、へぁ…、はへ……っ」
呼吸を、半ば忘れていた。
〈いけませんね。目と目が合ったら、ちゃんと、「お話し」ないと〉
「あぉ…っ」
一瞬、自分に言われているのかと思い、肝を冷やした睦月。
だが“彼女”が視軸を向けている先は、咎めている不敬者は、
不躾な日照の元凶である、麦わら帽子の女。
〈こんにちは、“旱魃”さん?〉
「……やあ………」
冷や汗。
自身が一瞬でも「冷える」という体験は、彼女にとって青い薔薇と同じ。
乃ち、「あるとは思っていなかったが、実現したのだから仕方がない」。
「お見知りおき頂いて、光栄だね……。てっきり、きみの眼中には、ないものかと………」
その存在を、感じたことはある。
それが通り掛かった、それだけの、袖さえ擦り合わないような、馨しさが鼻の粘膜にそっと馴染んで済むような、それくらいのすれ違い。
たった「それだけ」の事でさえ、その女にとっては重大な事故だったが、恐らくその逆は然りではない。
“彼女”にとって、そこにいる一体は、細胞の一粒が良い所。
個別具体的に認識されているなどと、そんな高望みは思ってもみなかった。
〈よぉく、存じておりますよ、“提婆”〉
だがそいつは、名前をきちりと言い当てた。
〈あなたのことなら、なんでも、ね?〉
「ふ、ふぅ~ん……?まあ、わたしがそんな、あっさい理解で見通せるヤツだって、見縊ってくれてるんなら、別に良いんだけどさぁ……」
意識せず、その場に注ぐ光量を上げてしまう。
夜半かと考え違うほど、真っ暗なように思えたからだ。
不用意に洗濯機に放り入れられた、染料が濃いシャツのように、
鮮やかさが染み出ていって、色落ちした世界が見えたからだ。
「戦うんだったら、そっちの方が、まあ、やりやすいわけだ、しぃ……?」
目や、耳や、鼻や、口や、肌や、魔力を通しても、
外側の形を教えるあらゆる情報が、「遠くなった」と、女にそう伝えていた。
その空間が、さっきまでのそれと、大きく「違って」しまった、と。
〈あれ、喧嘩腰ですね〉
持ち上げた袖の裏で、ひそりひそりと、鈴を振るような嘲笑。
最大限の警戒と、いつでも総攻撃を仕掛けてやろうと練られた敵意。
それを見透かされることで、理解の深さを立証される。
〈もっと愛想良く、出来ないものですか?そんなことだから、二千年も時があって、未だ独りぼっちのままなのですよ?〉
頭皮が切れたかと思うほど、激しく熱い血潮が弾けた。
「………ん、ふー………」
——落ち着け
が、それ以上に高温な体熱で、その反応に大した意味を持たせず、鎮める。
——わたしらしからぬ表現だけど、
——アツくなるな、クールになれ
観察を絶やさず、最適最高の一撃を図れ。
目標を、達成条件を、見誤るな。
“彼女”の後ろの、人間一つ。
それさえ消せば、こちらの勝ちなのだ。
“可惜夜”を殺せなくていい。
小僧っ子の命だけ。簡単だ。
魔学現象を起こすきっかけとなる、脳。
そこを確実に刳り抜く。
彼女が持つ攻撃手段の中で、最速のものを使う。
世界の限界にして絶対の不変運動者、光子で焼き貫く。
少女のリボンも、普通に突破できることを確かめてある。
それを止めることは、何者にも不可能。
少なくとも、“提婆”は不可能だと確信していて、「絶対に止まらない、減速もしない」という効果を魔法に持たせている。
光が止まれば時間も止まる、などという空論があるが、他の全てを止めたとて、光が止まることなど有り得ない。
そこで警戒すべきは、“鳳凰”が見たという停止現象。
黒い球体の如きそれは、光まで捕まえているように思えたと言う。
恐らく熱として吸収したか、外からは入れるが中からは出られないようになっているか。
“靏玉”のような鏡のトリックに近いのだろうか?
あの防御だけが、問題になってくる。
だが“火鬼”は中に侵入出来ていたらしい。
なら“提婆”に出来ないことではない筈だ。
単純な力で干渉可能な以上、“向こう側”に逃がしてどうこう、という話でもない。
ついさっきill最高の盾を、それ以上の矛で蜂の巣にしてやった、それと同じことをやればいい。
必要なものを持ってくる用意をする。
移動用のエネルギーと、攻撃用の光線だ。
一撃、それだけだ。
それだけしか許されないだろうし、それだけでいい。
狙い澄まして、その一撃を——
“可惜夜”が、薄く網状の手袋に覆われた、指を開いた両の掌を相手に向け、それを胸のあたりまで掲げる。
ビクリ、後ろに踏んでから、キャメルはそれが自分の右足だと気付いた。
「待て」、「降参」、そういう意味の肉体言語、と、表面だけ掬えば、そう言えなくもない。
けれど、違う。
何が正解かは分からないが、「負けを認めている」という推量が、的外れな事だけは分かる。
その態度は、雰囲気は、
これから重大ニュースを告げて、サプライズを決めようとしている、いたずら精神を絵に描いたようだ。
〈十〉
「………?」
蕾の初々しさと、黒百合の妖しさ。
どちらをも孕む二枚の花弁が、そっと数字を口にした。
〈あなたは相当、運に恵まれています。今の私は、有史以来他に例を見ないほど、機嫌が良いんですから〉
続く言葉も、説明になっていない。
なっていないのに、“提婆”にはその意味が分かりかけてきた。
〈今から改めて、十まで数えます〉
隠れ鬼のルールを読み上げる童女、
若しくは我が子に教え伝える慈母。
〈その間に、私の手を煩わせずに立ち去って頂けましたら、大サービス、〉
その顔で宣告されるは、執行猶予。
〈今日のところは、数々の無礼を不問としましょう〉
それも、死罪に適用されたという、異例措置。
〈では始めますね〉
事の整理の時間どころか、返答、相槌すら待ってくれない。
〈ひとぉ……つ〉
右の小指が折り畳まれる。
それで、“提婆”の寿命の一割が消えた。
〈ふたぁ……——〉集めていたエネルギーを解放し後退大幅跳躍。〈——つ〉右の薬指が畳まれるのを尻目に反転。
〈みぃぃ……つ〉
右の中指。
何度も追加で加速しながら離れる。
〈よぉぉ……つ〉
右の人差し指。
離れている筈なのに、声が遠ざからない。
ずぅ…っと、すぐ後ろにぴったり張り付いて、
耳元で声を潜められているように。
〈いつぅ……つ……。“ベー”?〉
右手の全てが握り込まれた。
位置が変わらない。
異変を感じて振り返る。
〈むぅぅ……つ〉
左手の親指。
白い髪が横に戦いで、覗いた左耳からキラリと小さな輝き。
耳飾りに、“提婆”が映っている。
その鏡に映った大きさを変えないように、空間の側が歪んでいるのか。
〈ななぁ……つ〉
左手の人差し指。
進行方向が圧縮され、“彼女”の視界から逃れる運動を阻む。
〈やぁぁ……つ〉
左手の中指。
“提婆”の腕を掴む鳥の足。
〈ここの……つ〉
左手の薬指。
“鳳凰”が“向こう側”を経由して全速力で彼方に飛び去る。
〈とお〉
十指が残さず畳まれた時には、“可惜夜”の、その持ち主の肉眼可視範囲から、2体ともが消えていた。
〈そそっかしいと言いますか、意気地がありませんねえ。少し考えれば、分かりそうなものを〉
そんな都合の良い逃げ道など、存在する筈がないのだ。
彼女が用意していなければ。
魔の者を前に、異空間を進む技能など、手慰みにもなりはしない。
ただ、最初からそこを通って、逃げることが許されていた、というだけ。
とっとと何処かへ行って欲しい、その考えを隠す為に、
派手な登場の仕方をして、
如何にも余裕綽々に、見下すが故の情けを掛けたように見せて、
逃したくないのかと思わせる、ちょっかいまで仕掛けたのだ。
〈ミヨ〉
彼女は振り向き、傾国の妖狐に視線を絡み付かせる。
〈後はそちらで、お願いします〉
呼ばれた詠訵は、自信を持って頷いた。
「任せて。ススム君とカンナちゃんのフォローには、慣れてるから」
〈ええ、そうでしたね。いつもお世話になって——〉
そこで術者の、
日魅在進の意識が切れ、
後ろ暗い艶姿は、
風のように颯と立ち消えた。
何もかも、少年の夢だったみたいに。




