546.「解くな!」
「思い上がったクソフランキーも、頭のおかしなNSも、ぷるぷる凍えて逃げてった……!」
リーゼロッテは聞かせてやる。
キリルという国を、不沈不落の城塞とした、
天理天然にして世界最硬の防御力について。
「お前もこれから加えてやる…!その敗軍の列の末尾に…!」
双頭の鳥を手指で作りながら、左の肘を円環に引っ掛けて持ち堪える。
だが今この時も、ダンジョン内の酸素濃度は薄まっている。
肉体の時間遅延は解除された。冷気と合わせて、低酸素大気の害が及ぶのは、人間もモンスターも平等になった。
いいや、肉体の脆弱さで言えば、不利がどちらかは明らかだ。
“奔獏”が手を離し、“嘆きの湖”に囚われ死んでくれれば、それは勝利だ。
だが気道を痛めつける極低温や、低い酸素分圧で、リーゼロッテの意識が先に潰えてしまえば、その殺傷能力を自身で受ける事になってしまう。
冷たい殺意は、諸刃の剣。
柄に棘を持つ薔薇の牙。
人が持つには、手にあり余る。
使うにしても、限度があるべき。
「「リーゼ…!この、この冷却速度では…!」」
「………」
「「リーゼ…!」」
「大丈夫、ガヴ……、だいじょうぶ……!」
彼らに背を向けるリーゼロッテは、何の根拠も語らず続行、どころか出力をますます上げる。
「足りない……、あいつ、まだ、つかめてる……!」
「「リーゼ!これ以上は!」」
「まだ、まだ、もっと、もっと…!たりない…!あいつを、振り落とさないと…!」
互いを片腕で抱き寄せ合う“聖聲屡転”の器、その片割れがリーゼロッテの肩を揺さぶる。
ツン、と、指を貫く、痺れるような痛み。
「「やめなさい!先にあなたが呼吸できなくなる!」」
「まだ…!もっと…!だいじょうぶ…!ころす…!もっと…!だいじょうぶ…!」
「「リーゼ…?」」
この魔法の威力を最大化する為には、厳しい寒さをその素肌で感じていなければならない。寒がりな彼女が戦場でも厚着をしない理由はそれである。
強力に発揮されるその必殺技の副作用として、彼女の精神力は凍傷《凍傷》のザラつきで削り卸されていく。
脳が暑さを錯覚する“矛盾脱衣”現象のような、一時の救いすら働かないよう、身体機能を調節する効果すら、その魔法は孕んでいる。
その結果、
「だいじょうぶ…!ガヴ…!わたし…!だいじょうぶ…!」
「「リーゼ、あなた…!」」
「わたし、できてる…!」
聞こえていない。
この極限環境下で、“零景”にほぼ全魔力と処理能力を注ぎ込んでいるため、会話能力すら喪失している。
「できてる…!とっくに…!」
「「リーゼ、お願いです…!」」
「『覚悟』…!私には、ある…!」
「「止まってください…!」」
「!まずい!移動してください!」
悲痛な嘆願に応えたのは、彼らの背後の六波羅。
反射的に円環が出力を上げ、横に引っ張りズラす。
そこに現れるのは胴長イルカ!
“飛燕”!
口先での一穿を外したそいつは頭を横向け、その額から三半規管を狙った音波攻撃!
だが六波羅の演奏で相殺される!
「「父の命を…!」」
そこから再度飛び込んで来るそいつをビートの爆発力と円環の推進力で回避!
この極寒低気圧の中、動きが鈍くはなっているが、けれど意識はハッキリと研ぎ澄まされている!
〈海棲肺呼吸をナメないでよねっ…!〉
その頭を幾らか床にズブズブと沈め、
〈日常茶飯事なんだよ!ずっと息を止めてるなんてさッ!〉
それと共に人間達を挟み込むように、彼らの背後から上下逆の尾ビレが現れる!
地中では腹を上に向け、ラッコのような姿勢を取って、彼らが口先に突かれるのを嫌がり下がった所を、尾っぽに待ち伏せさせたのだ!
〈削り取ってやる!〉
打ち上がった尾ビレが床へと振り下ろされ、そこにゲートが開かれる!
そこに円環は突っ込んでしまい「“神呪拝授供犠饗餐”」
金色の騎士!
それが炸裂し彼らを押し戻す!
「やっとお目覚めですか!」
〈成程腕の良い探偵だっ!口の利き方なんか特に!〉
知恵の輪のように、メインの光輪と噛み合わさっていたもう一つ。
そちらに嵌まった状態で運ばれていたメナロが、六波羅の拍動の影響で覚醒し、取り敢えず目に見えた危機に即応!
「ロイヤルファミリーの礼儀作法に則った方がいいですかい!?」
〈無駄な時間を割ける局面に見えているのなら、かなりの大物とお見受けするっ!〉
「普通に『必要ない』って言えよエスプリボンボンめ!」
“飛燕”の細い口と金色の騎士の細剣が決闘のように打ち合い、擦れ合う!
白き円環の軌道はより不規則に、そこをなぞるスピードは速くなる!
——なんてこった、だよ…!
イルカは歯嚙みする。
状況が良くなさ過ぎる。
“奔獏”を口の中に保護し、腹の中、“向こう側”に拡張した空間に匿うのが最善。
に見えるが、ある一つの駒の存在が、それを許さない。
吾妻漆。
“徴崚抜湖”。
奴の能力を上手いこと使えば、腹の中まで踏み込んで来る危険がある。
それでも、一対一なら“奔獏”は負けないだろう。
けれど、実情は一対一対一なのだ。
イルカの腹の中、その拡張空間には、既に一体が軟禁されている。
“臥龍”、催眠状態の彼女だ。
その眼を覆い幻術に閉じ込めている鏡を割られ、彼女が自由を取り戻したら?
“右眼”を破壊させまいとする側に付く。
つまり今だけ、彼女は歴とした潜在敵対者なのである。
吾妻の前で、迂闊に口を開けられない。
となると、狙うはリーゼロッテを狙い撃ち、あの魔法を止めさせること。
エントロピーは増大していくのが摂理。それを曲げているあの現象は、魔法による働きかけがなければ、確実に破綻し消えるだろう。
だからこちらに突撃した。
けれど、二組残った“聖別能徒”と、六波羅とメナロというグランドマスター2名までもが護衛となって、それを阻んでいる。
この空間は閉じているから、遠くに逃げられることはない為、冷気と酸欠の巻き添えは喰らわせられるが、時間が掛かり過ぎる。
その前に“奔獏”が落ちてしまう!
——もう、ここまで、かな…!
潮目、潮時が見えていた“飛燕”。
一方、「時間」に追い詰められていたのは、“聖聲屡転”側も同様である。
彼らの目には、リーゼロッテが持つ全てのリソースが限界に見えた。
illが音を上げる前に、一人の女が折れる方が先。
その予想は正しいように思えた。
——やめさせるしか…!
それは奇妙な思考だった。
信じる何かの為に、戦い抜くと決めた戦士の背中を見ながら、
天使はそれを引き留めようとしていた。
そうあれかしと、彼らが教えたと言うのに、
知らず知らず、彼女を助けようとしていた。
根底にあるのは、疑念。
これは、“自死”なのか。
これがもし禁忌に触れるなら、彼女はその身を焼かれなければならない。
審判の日に、置いていかれる側として裁かれる。
天国には、二度と到達できない。
信じるが故の行いが、自らの救いを捨てる事になってしまう。
それは、
それはあまりに——
——あまりに…!
器の右手に、小さな光輪が生成される。
「「父の罰を」」
それを首枷としてリーゼロッテに装着すれば、魔法発動を強制抑制、彼女は敵の手で負かされて死ねる。
天国から見放されることはない。
——もう“奔獏”の肺と腕は、ボロボロだ…!
“飛燕”の焦燥が強まる。
魔法が消えても、この現象そのものが、すぐに収まるわけではない。
早めに死んでくれなければ、その残り香のような極寒で、諸共道連れで殺されてしまう。
それに傷や身体の失調が深まれば、逃げることにも支障を来す。
この嵐を生き残り、或いはダンジョンごと消滅させても、ヘロヘロになった所をリンチされて、殺し切られるという危険がある。
判断が後ろ倒しになるほど、生存率が低まっていく。
ギリギリになってからでは遅い。
今ならまだ、遠くへ逃れられる。
ダンジョンを追い遣り、あの寒冷爆弾も一緒に無きものにするのだ。
「「リーゼ…!」」
密かに円環を首元に近付ける“聖聲屡転”。
〈ジェスター!〉
ダンジョンの構築に手を掛ける“飛燕”。
〈「解くな!」〉
声は同時だった。
奇遇にも、その二つは重なっていた。
考えを共有されていたわけでもないのに、
互いに何かを感知したかのように、
彼らは救いを拒絶した。
両者ともに、耐えるつもりだった。
刺し違えてでも、敵を滅する構えだった。
今やドーム内の床、壁、天井に薄い氷膜が張られ、
気流の烈しさや熱せられた気性とは裏腹に、
室温の寒々しさは深まるばかりだ。




