540.「逃げていい」と言われたのなら part2
「ハッ…!ハッ…!ハッ…!ハッ…!」
息を切らして逃げる。
こうしていると、あの日を思い出す。
生涯の主を見出した瞬間。
今日みたいな、よく晴れて少しだけ蒸し暑い午後。
「ハッ…!ハッ…!ハッ…!ハッ…!」
あの時、八守は警察から逃げていた。
罪を犯したのか?
犯したのだろう。
逆らった法の名は、“親権”だ。
親の言いつけを守らなかった、その咎で追われていたのだ。
「あんたはバカだからさ、分かんないかもしんないけどさ、」
頬を張りながら、生物学的な母親は言っていた。
「子どもってさ、親に逆らっちゃいけないからさ、」
灰皿から取った煙草を、二の腕のあたりに押しつけられる。
泣くと腹を殴られるので、必死に堪えた。
「だからさ、ちゃんとアタイの言う通りにやらなきゃいけないの。アタイは大人だから、あんたよりよっぽど世の中のこと知ってんのさ」
「だからほんと、言う事聞いて欲しいんだよね」、
漢字ドリルを目の前でぷらぷらと揺らし、
「ああああああ!!いうこときけよおおおおお!!」
その場でビリビリに引き裂いてから床に叩きつけて足の下で念入りに挽き潰した。
「はー……!はー……!言ったじゃん?こういうのやんの、禁止だって」
「勉強をしてはいけない」、
「そんな小細工が無くとも、テストを突破できるようにならなければ、頭が良いとは言えない」、
「そんなのやるだけ無駄だ」、
その女がいつも言ってる事だった。
「先生にやれって言われたからって、テメエなんでも先生のせいにすればいいと思ってさ?じゃ何?先生が死ねって言ったら死ぬわけ?あんた」
「宿題を忘れた」という言い訳にも限界が来て、学校に残ってやらされていたのを気付かれた。
学校から「帰りが遅くなる」と連絡が行き、その女はすぐに飛んできて、「児童虐待で訴えるぞ」と脅しながら連れ帰ってしまったのだ。
そこから後は、夕ご飯抜きでのお説教の時間だ。
それから外で体育座りで寝かされ、朝になってからまた叱られる。
ルールを破ったのだから、それは当然の報いなのだ。
「あんたが言う事聞かない、悪い子だからさ?アタイだってやりたくもないよ?やりたくもないのに、あんたのこと叱らなきゃいけないんじゃん?それで、何日休むことになった?」
こういった「重大な違反」があると、その度に翌日全てを使った制裁が行われる。
それは、「違反者」の過失から来る、「サボり」なのだと女は言った。
「遠足もサボったよね?あんたさ。あんたの学校のお金、払ってんの誰?そ、アタイね。アタイが行かせてやってる学校なのに、何無駄遣いしてんだよクソガキイッ!!」
腹を蹴られ、キッチンの角に背中をぶつける。
痛い。
でも泣くと煩い。
煩いと、相手を嫌な気持ちにさせる。
それはやっちゃいけない。
だから、耐える。
「助けて欲しい」と、そう思ったことはある。
だけれど、周りの大人に話を聞く限り、それは願ってはいけない事なのだ。
担任の先生は一度家庭訪問をして、それから女が学校に乗り込んだ後、相談を聞き流すようになってしまった。
ある人に言われて、相談所と呼ばれる所に駆け込み、「保護」された。
2、3日後に、女がやって来て、職員と何か話をした後、
「ほら、お母さんに謝ろう?」
そう言われた。
「お母さん、叱り方が分かんなくなっちゃったんだって。それはね、子どもを育てることが、とっても大変だからなんだ。いつも君の事を考えて、君の為を思って、一生懸命に頭を使ってるから、間違っちゃうこともあるんだ」
女はその時、横で泣いていた。
彼女が泣くのは許されるというのが、素朴に不思議だった。
「だからさ、君がお母さんの言いつけを守らないで、余計に疲れさせて、混乱させちゃいけないよ?お母さんも間違えちゃったけど、君もそこが悪かったんだ。女手一つで子どもを本気で育てるなんて、凄いことだから。君も、お母さんに協力してあげなきゃいけないんだよ?」
「だって、たった一人の肉親でしょう?家族でしょう?」、
非難や怨恨でなく、単にそれを確かめたかったから、聞こうとした。
「ぶったり蹴ったり火を押し付けたり、それは相手が好きだからなのか」、と。
「あんたがいつまでもそんなんじゃあ!恥ずかしくて世間様に出せないよ!」
だが、口を開こうとした時には、遮られていた。
女はさめざめと糾弾し、隣の大人はそれを同情的に見つめていた。
「学校に行かせられない!中学校までは行かせられても、こんな調子じゃ疲れちゃって、あんたの為に高校のお金出そうだなんて、とても思えなくなっちゃうよ!」
「ほら、お母さんが辛いって。学校も行けなくなっちゃうよ?ちゃんと支え合わないと」
そこでやっと理解した。
おかしいのは、間違っているのは、自分の側だった。
だって、ヨソの大人がそう言っている。
その女がそうなっているのは、自分が悪い子だからなのだ。
自分に原因があるのだ。
頭を下げて謝った。
抱き締められ、職員に女が何度も礼を言うのを、冷たくなった脳でぼんやり受け止めていた。
「いつもありがとうございます」、
「また相談してもいいですか」、
「責任を持って育てます」、
そんな事を言っていた。
それから、認識を改めた。
大人がみんな、「どこの家族もそういうもの」、「それが普通」と言っているのだから、おかしなことを考えているのは、自分の方なのだ。
その日から、変わろうとした。
女を怒らせない自分であろうとした。
けれど、「悪い子」は治らなかった。
治せなかった。
それどころか、もっと酷い事をした。
その日、学校を休み、朝から詰められていた途中で、
ふと、魔が差したとしか言えない。
女を突き飛ばしてしまった。
頭を打って痛がるそいつを見て、怖くなって逃げ出してしまった。
狭い歩幅で、大人の為に作られた町を、走っても走っても進まない長い道を、
小さな手を振り、息も絶え絶えに走っていた。
「ハッ…!ハッ…!ハッ…!ハッ…!」
——あんた、もうだめだよ、将来
どこに行こうとか、何をしたいとか、そういった思考は一切なかった。
——稼ぐにはもう、“ウル”しかないよ
何も考えたくなかった。
自分が犯している罪と向き合いたくなかった。
——あんた見た目は悪くないし、マニアからなら金取れんでしょ
「ハッ…!ハッ…!ハッ…!ハッ…!」
汗と涙と鼻水と、
途中で転んで擦り剥いて、
焼けてるのか溺れてるのか、
何をしてるかも曖昧になって。
そして小学生の無計画は終わりを迎え、
自転車に乗ったお巡りさんに捕まった。
また彼女を怒らせてしまった。
どうやって謝ろう。
今度という今度は、許してくれないかもしれない。
そういう事をぐるぐると、発展させるでもなくただ混ぜ回すだけの頭を乗せて、トボトボと手を引かれて交番に連れて行かれた。
そこに、見覚えのある人が立っていた。
いつだったか、外で立たされている所を見て、話し掛けてきた少年。
「相談所」の事を教えてくれた彼。
なんだか不良みたいな着こなしが、その雪だるまのような体の形を、何故か引き締まったふうに見せる。
今まで見た中で最も似合っている金髪。
不機嫌に鋭い黄色の瞳。
見間違える筈がない。
「そこの公僕、お前に電話だ」
その少年は、巡査にスマートフォンを押し付けた。
後から聞いたところによると、それは明胤上層部から繋がった、丹本政府筋の誰かだったらしい。
“英国公爵家”の三男が、難題を吹っ掛けている。
その応対に、それなりの権力者が出張ったわけだ。
「おい、お前、名前は?」
いつものように学園に行く途中で、騒ぎを嗅ぎつけたらしい彼は、
独善に振り切れた決断と強権で、
そこを取り巻く全てを破壊した。
「ツ、ツクヤ、…ェす……。ヤガミ、ツクヤ……」
「ツクヤ、心しろ。お前は今日からオレサマのものだ」




