521.導きの星
——りかい、できない。
——なにを、されたのだろう。
真っ暗な、
本当に眼球をマジックで塗り尽くされたような、
真っ黒。
さっきまで、昼だった。
午後に差し掛かっていただろうか。
薄暗くなる事はあるだろう。
急に天気が崩れるというのも、無い話ではない。
けれどこれは、
この、黎さは、
目蓋の裏でいつも暴れる、頭痛を催させる、絵具のようにぶちまけられたプリズムすら、触れ得ないほどの深淵は、
違う。
これは、
夜だとか、
闇だとか、
そんなものではない。
「触れ得ない」、
そうだ、
感触が、
手足の先が、
舌の渇きが、
鼻を擽る燃焼反応が、
鼓膜を叩く振幅が、
喉を通る唾が、
胸を打つ拍が、
何も、無い。
無、
無だ。
今、
浮いているのか?
沈んでいるのか?
情報が、
感触が、
無い。
恐怖、なのだろうか。
孤独、なのだろうか。
ただ、麻痺していた。
“麻痺”という語も、違う。
五感を全て、奪われたのだ。
それは、自分の形を感じ取る全てが無いのと同じだ。
感情の源を、身体の反応に求めるなら、“自分”という主体すら、情緒すら、残っていないのと同じだ。
それは何か?
死、
死だ。
これが、死。
恐ろしい。
それは分かった。
「何も無い」という身体反応が、「恐ろしい」と思う自分を作った。
その鬼胎に、安堵する。
まだ、恐ろしがれている。
まだ、彼は死んでいない。
喪われて、いない。
目の前の黒は、余りにも純然であった為、そこに脳内が簡単に投影された。
太陽が沈み、人の灯りが寝静まる事で、初めて星座が見えるように。
——私は、
メナロは、
あの時、
場を包む何かの存在を、肌で悟った。
「何か」に、支配され掛けていた。
それが何であるのか、部下の声で振り向いて分かった。
楽園。
白青いイルカと、超越した白金。
その二つが舞い戯れ、踊り回る、この世のものではない美景。
物理と物質の世界に、あんなものが存在していいのか。
そこだけどこか平面的、絵画的な質感で、
しかし確かな奥行きもあった。
一つ下の次元に展開された、仮想の神秘。
その中に踏み入れてしまったような、
夢と現実が地続きになったような、
そんな瞬間。
それを見て、
感銘を受け、
そして、それから、
それから——
——どうなった?
それこそ、眠る直前を憶えていられないように、
意識の切れ目が茫洋としている。
彼の頭蓋に内蔵された幻灯機が、黒に記憶を高速投影する。
答えはすぐに見つかった。
“奔獏”。
奴だ。
彼らが我を忘れ、魔法の手綱すら放して突っ立っていた間に、
恐らく奴の指で貫かれたのだ。
今、彼は“遅れて”いるのだ。
体内の反応の全てが、脳と受容細胞との間の連絡が、酷く重たくされているのだ。
見たとして、その光景はまだ視神経の途中。
聞いたとして、鼓膜から内耳に差し掛かったあたり。
触れたとして、それに触れた情報が届かない。
何も、分からない。
世界と、接する事ができない。
ただ本能的に、危機に瀕して走馬燈を見るのと同じように、脳内の一部の活動だけは反射的に魔力で強化され、だから思考する事が出来る。
だが、脳から一歩、一指でも外に出れば、そこでは全てが遅い。
脳からの命令が手足に、魔学回路に届かず、考えを実行に移せない。
高速思考、それで見掛け上延命している。
だが、あとどれくらい?
こうしている間に、上から奴が迫り、一瞬で8騎全員を殺すだろう。
ドラゴンも、あれでは長くない。
もう数秒あれば全滅。
今、何秒、
何秒経ったのか?
主観以外の尽くを没収された彼には、知る由などない。
いつ来るか分からない、けれど直に来る、本物の虚無。
それを前に、彼の意識はジタバタと跳ね掻く。
動け。
命じる。
動け、
動け動け動け、
動け動け動け動け動け動け動け動け。
感じる筈の無い鼓動の早まりが彼を襲う。
何でも良い。
どこでもいい。
感覚を取り戻せ。
魔学回路に接続し、魔力を充填し、魔法を行使し、強制的に加速させろ。
早く、
速く、
気ばかり逸る。
だが何も答えない。
何もない。
土壇場の底力で思考が超加速するも、それが体の神経に届かないのなら、
何の意味もない。
今の彼は、自分の骨肉にさえ見放されていた。
何か、
何かを、
せめて、
せめてあとどれくらいなのか、
残り時間を知りたい。
暗がりに、
一寸先すら存在しないような場所に、
せめて、時間感覚だけでも、
今が断頭台の、何段目なのか、それだけでも。
基準が、
夜道を見上げた時に見える、北の極天に位置する星のように、
導が欲しい。
自分を規定する、基礎が欲しい。
無など、耐えられない。
こんなのは、厭だ。
彼は死ねない。
その反骨精神は、鋼のように。
けれど、どこで手遅れになるのか、それが分からないと、
危機感すら、ぼんやりとボヤけてしまう。
杳として溶け崩れてしまう。
だからまず、正しく焦る為に、
恐れるのでなく急ぐ為に、
彼に導きを、
夜を歩く寄る辺を——
——ああ、
十字の上に、菱形。
煌めき。
あそこで何かが光っている。
星だ。
星が見える。
ただ一つの、徴だ。
——夢王星だ
何故か、そう思った。
彼はそこに向かって走った。
走ったと、そうイメージした。
彼という意識が、電気信号のパターンが、
そういう自分を虚像として作り上げた。
空へ駆け上がり、白光を目指し、片時も止まらず、
黒の中から真っ白の内側へ。
「「父の命を」」
騎士の首に白い輪っかが嵌められた。
その途端、世界は元の形を取り戻した。
「「父の罰を」」
白き円環が横から大量に飛来。
装甲の隙間から入って彼らを串刺していた複数の指に当たり、その径を回りながら切断。
首輪が引っ張られ、空間の裂け目のような黒い楕円の中に引き込まれ、暫くしてから断裂し隆起し炭化した大地に投げ出される。
「「父の慈しみを」」
彼らに穿たれた穴が、輪から差し込む浄き光で癒されていく。
「ご…、ゴホッ……!救世……!」
「今日だけで何回目だ?俺達が駆け付けて人を助けるのはよー」
「さあな、一々数えてねえよンなもん」
白い壁で囲まれた結界、聖域の中。
周囲に数組の男女が、二人一組で肩を寄せ合い、それぞれ一つの輪を手指で作っていた。
“聖別能徒”。
“聖聲屡転”の端末。
それと共に立っているのは、
「でもよー、なんかアレみてーだなー?あーと、アレだよ、わらしべ長者」
“徴崚抜湖”、吾妻漆。
「ハイハイ!しってま~す!助けた人からもりゃったもにょでぇ、次を助けるってやつぅ~」
“全仇冬結”、リーゼロッテ・アレクセヴナ・ロマノーリ。
「それになぞらえた場合、財産じゃなく厄介事が増えてンだよ。枕元で語るにはスリリングなおとぎ話だな、オイ」
それとあれは、明胤学園の校内大会で見た、卑劣な魔法を使う落ちこぼれ。
名前は確か、乗研竜二。
「よー、おひさじゃん、紅茶犬クン」
「……これはこれは、Miss馬車馬様…」
杖を使って立ち上がるメナロと、挑戦的に歯を見せる吾妻。
「あなたのような民間商人風情が、斯様な所で一体何を?」
儀礼的に、棒読みで聞いた狼に対し、
「決まってんだろーがよー」
狂犬は掌に拳を打ちつけ、唸りを隠しもしなかった。
「illをぶっ倒すんだよ。争奪戦が終わっちまう前に」




