517.紳士の振る舞い
イルカの群れが、波に攫われかけている。
イルカという、海を生きる者の代名詞が、波に負けている。
グラグラと波打つ絢爛の中、カラフルに打ち上げられて死ぬ。
滑稽な絵面だ。
メナロはほくそ笑む。
戦場を分断した緞帳が、もうじき上がるのを強制される。
舞台上の大根役者は、下手な軽業の報いを受けて、全てそこから引き下ろされる。
所詮、紛い物だ。
王にも神にも至れなかった、怪物の分際だ。
怪物はいずれ、人間か神に殺される。
神話からずっと、そう相場が決まっている。
ダンジョンは人間に打倒され、支配されてきた。
モンスターと呼ばれる勢力は、人類とその魔法に負け続けてきた。
これからも、それは変わらない。
人の真似事が出来るようになった程度で、彼らが神格を得る事など有り得ない。
“不可踏域”でさえ、モンスターの勝利の形とはなり得ない。
あれは、人と人との合意の上で、存在を許されているに過ぎない。
ゴミ捨て場だ。
面倒ごとを引き受けてくれる、必要悪でしかない。
“ill”。
大層な呼称だが、適確だ。
“無法”、否、“不法”、か。
それは、法の力で裁かれる。
人とは社会だ。
人の強さとは、“法”を持てるという所にある。
法とは何か?
支配だ。
約束を守る貞淑と、守らせる強制力だ。
それは誰か一人が、欲望から手に入れるものではない。
社会を作る民が、欲求から築き上げるものだ。
誰かが王になるのではなく、皆が誰かを王にするのだ。
人が生きる為には、社会が、法が必要だ。
約束を守るとは、多くの「生きたい」と願う意思と、連帯する事だ。
無法とは、それに対する挑戦だ。
法を持つ全てを、敵に回す行為だ。
生きたがっている大多数が生み出す、世界レベルの強制力、
それに背くという意味だ。
だからillは、こそこそ隠れていなければならなかった。
ゲリラ戦しか出来なかった。
端の方で、“社会”に知られないように、“人類”そのものと敵対しないように、地下を蠢動するしかなかった。
その存在が明確に知れた今、彼らは“最強”を名乗る事も出来なくなった。
フィクサー気取りは、闇に埋もれていられた間まで。
ライトの下の彼らには、社会的な地位が与えられる。
だがそれは人でなく、神でもない。
人が生きようとする時に、縋りつく先にはなれない。
だから、彼らは“敵”になるしかない。
だから、彼らはルカイオスに、神に勝てない。
英国が擁する王に、英雄に、神話に勝てない。
本物の上位者とは、人から存在を求められる、社会から実在を希求される、そういう超越者の事を言う。
そうでなければ、ただ殺し難いテロリスト以上に、なる事など出来ないのだ。
おとぎ話で、王に化けた怪物が必ず退治されるのは、民から求められていない強さなど、必ず敗れるという教訓なのだ。
求められることこそ、本物の強さ。
そして、
王が、
神が、
一歩。
歴史に足跡を踏刻する。
遅延を展開する曲面が、白金色に押され内へと曲がる。
イルカの列が乱れ、ボールを上げながら跳んだ一匹が、美貴なる力場に両断される。
メナロの前に、本物の王が居る。
実在の神が在る。
〈完成する…!〉
怪物の頂点を討伐する、質量を伴う神性を全身に浴び受け、彼は確信した。
〈ルカイオスは、遠くない未来、完成する……!〉
オーンもいずれ、より安定し、人の意思の下に収まる日が来る。
あと何代先かは分からないが、けれど必ず達成される。
そうなれば血統を王室と再合流させ、世界で唯一の現人神が治める国として、エイルビオンを再定義する。
ディーパーこそが真人類であり、理想的な存在に近づく為に、人が踏むべき段階だと示す事が出来る。
正しさとは何かを見せつけ、人を統一する事が出来る。
生きる為には、必ず殺さなければならない。
その義務を忘れ、口先ばかりの平和・博愛・生命愛護主義を唱えるような、怠けた愚民に身の丈以上の権威を与える、民主主義という流行病。
人から「生きる」という本能を遠ざけ、その意思を忘れさせ、その為の約束を軽んじさせる、間違った在り方。
それを正す事が出来る。
誰もが生きる困難に直面する貴族社会。
人と獣が同じと見做されるからこそ、獣を超え神に近付かんとする人間に権威が与えられる、選ばれし上位者と群れる下位者で構成された世界。
責務と命の重さが、比例する世の中。
上は獣に落ちないように重責を全うし、下は獣から神になる為に使命を求める。
そういった事を考えたくない者は、家畜と同じく資源の一部として、政など触れもせず、目の前の仕事だけ熟していればいい。
そういう構図の復活が為される。
エイルビオンに、再びの世界覇権を。
魔力銃やAS計画。
“平等”を求め、それに媚びる方向性で生き残りを図る、陽聖社会の主流派に、圧倒的な正しさと実行可能なプランによって、ノーを突き付ける。
そこまでの未来が、彼の前に道として現れている。
ルカイオスの悲願は、現実的なものなのだ。
証拠と共にそれを宣言する、その役のなんと名誉なことか。
巨神が道を進む。
そこに壁が立っている。
だが白金は止まらない。
軋む。
歪む。
突破する。
突破出来る。
彼らは勝つ。
ルカイオスは、不可能のその先へ。
先へ。
先。
先に、
何かが浮いている。
足場も何も無い場所に、二股帽子、赤い鼻、分厚く塗られた白い顔、目の下に涙マーク、赤く吊り上がる口周りが描かれた、小柄な道化師が立っている。
「紳士諸君こんばんは!楽しい星見にいらっしゃい!」
真っ昼間に寝言が響く。
巨神が、手を伸ばす。
文字通り、プラチナの腕の長さが伸びる。
動き自体は日常的。
だがその大きさ故に、超音速兵器の如きスピードで空間を横切る。
腕が1m先まで届く者と、10m先まで届く者。
どちらも全力で腕を伸ばすのに1秒掛かるとしたら、拳の速さは後者の方が10倍速くなる。
空気抵抗等の邪魔も強くなるが、エネルギーそのもので構成される巨神の体の前では、ほとんど考慮に値しない。
道化師の姿が無くなった。
他の敵と同じように消し飛んで——
——待て
速過ぎないか?
白金が、と言うより、長兄の動きだ。
先程までと同じようにフラフラしているが、一つ一つの動きのキレが良くなっている。
なり過ぎている。
不安定さはそのままに、全ての動作が早回しになっている。
倍速再生が見せるような気持ち悪さであり——
〈各騎!身を守れ!〉
巨神の後ろを守っていた騎士団。
彼らのうち、肉体に纏うタイプの魔法を持たない者は、自らの首元に突如出現したナイフで、喉元を搔っ切られた。
メナロの指示は間に合わなかった。
いいや、届かなかった。
彼は小部屋のように反響している自らの声を聞いた。
〈遅らされている……!〉
カラフルなボールが彼の周囲を跳ね回り、そこの空気の運動を遅延させている。
動きにくくなった分子は振動せず、音を伝えない。
だから声が、壁にぶつかったかのように跳ね返ったのだ。
〈そして……!〉
彼は自らの魔法効果の中でも、神経伝達に関わる部分の強化に重きを置いて、魔力を余剰投入。
世界が緩慢に。
違う。さっきまでが異常に速く見えていたのだ。
〈反応速度を、ということか…!〉
色とりどりの投げナイフが飛び、部下達はそれに当たるがままになっている。
本来の彼らなら、死角から投げられても対処できる速さ。
だが、防御態勢すら取れていない。
まるで気配を感じず、晴天の霹靂に打たれている。
彼らの意識、
見えている景色、
それのみが遅らされている。
ありふれた“高速”を、“消える魔球”と呼べるほどの規格外として見せられている。
あの——メナロはそいつを目で追う——、
球に乗って高速で転げ回る、あの道化師に。
奴に。
“奔獏”に!
〈兄上は……!〉
長兄は巨神の体で、その影響を受けていない。
その力を借りれば、そう考えた彼だったが、そちらもまた取り込み中であった。
遅延を乗せた高圧潮吹きを浴びせるイルカの中に、蛇のように長い胴と、鋭い牙を覗かせた大口が居る。
“飛燕”、その本体。
illの中では戦闘能力が低めだろうが、それでも目を離していい相手ではない。
そちらに助けは求められない。
〈やるかしない。この私で…!〉
彼と、旗の下に集った騎士団。
それだけの戦力で、
“奔獏”を押さえるしかない!




