516.今は無き今を生きる者よ
星が出るまで、あとどれくらいだろうか?
彼は目を群青色に染めながら、そんな事を考えていた。
いや、「出る」という言い方は適切ではない。
星はそこにある。
種類を問わないのであれば、24時間一貫して、地上を無愛想に見下ろしている。
ただ、見えないだけだ。
この土と岩の塊から、最も近いというだけの火球に、他の光源からの贈り物が追い出され、捉えられなくなっているだけだ。
雲一つない晴天には、いつだって一つの輝きしか見当たらない。
点いたり消えたりしているわけでなく、見えたり見えなかったりするだけ。
あれらは本来、ずっと変わらずに——
それも、違うか。
観測者の認識に曲げられた誤謬、誤解。
星は、必ずしもそこに無い。
夜空を仰ぐ者達は、それらを直接感覚しているわけではない。
もう居なくなっているかもしれない。
彼らが見るのは、情報だ。
降り注ぎ、ここまで届いた光、それが網膜でキャッチされているに過ぎない。
それは、エネルギーから生まれた現象。
かつて彼方の遠くで生まれ、遥々《はるばる》宇と宙を渡り来て、やっとここに着いた余波。
数km先から誰かが投げたボールにぶつかって、その球を元に投手の事を知ろうとしたって、大した何かが分かるわけでもない。
まず、どこに居るのかさえ定かでない。
ボールを投げた地点から、まだ動いていないとさえ、言い切れない。
星空を見上げた時、彼らは星を見ているのではない。
「そこに光が降ってきた」、「過去にそういう物が遠くで発生した」、という事実を摂取しているのだ。
まあ言ってしまえば視覚なんてものは、星に限らず万事がそうだ。
光には速度がある。
距離があれば遅れだって生まれる。
観測側から見て、発生源から0秒で来てくれる、なんて事にはなりっこない。
スケールが天文学的になると、その距離も莫大な数値を叩き出すから、だからそれが表面化した。
光でさえ、数千数万年も遅刻して情報を持ってくる、それが露見した。
けれども、ただそうだと思えないというだけで、日常的に触れている現象なのだ。
誤魔化しが発覚した、それだけなのだ。
一つの土塊の上だけなら、ほとんどゼロに近いから、無いという事にしても不都合でないだけだ。
本当はその目が見せる全てが、ほんの僅かに過去のものなのだ。
世界最速、質量を持たない光が、それでも本物の“今”を届けられない。
他の感覚だって体に届くまでに、体の中で脳に届くまでに、どうしても遅れがあるものなのだ。
生物は、
意識は、
全て過去に生きている。
「今ここ」、そう認識した時点で、それは過去になっている。
刹那的に生きるのが何故不毛なのか?
満たそうとした「刹那」は、既に過去となっているからだ。
変えようがない、過ぎ去りし時ばかり埋めようとする、それが「刹那的」な生き方だからだ。
「今」は永遠に満たせない。
何故なら変えられないのだから。
だから、今を生きようと本気で考える者は、皆が未来を見る。
「今」が来てからでは、遅いのだ。
それはもう過去であり、失われたものなのだ。
「これから来る今」を予め満たし、それが来るのを待ち構える事でしか、本当の意味で「幸せな今」を、享受すること能わないからだ。
「今ここさえ満ちればいい」、
そう言った時点で、そいつが満ち足りる時間など、一生来ない事が確定的。
そういう意味では、時間感覚というものは、二つの「今」に分けられると言えるのかもしれない。
「もう過ぎてしまった今」と、「これから来る今」に。
前者は変えられず、後者は変えられる。
その厳然たる区別でしか、時間を分けることはできない。
全ては遅れているからだ。
過去から抜け出る事は出来ないからだ。
既に起こってしまった事の情報を得るという迂遠さでしか、世界に触れる事が出来ないからだ。
彼は、物を遅らせる事が出来る。
観測者への到着、そこまでの遅延を、より広げる事が出来る。
だがそれは、大した力ではないのだ。
世の認識の全てが手遅れであり、その度合いが幾らか広げられた所で、天地が裏返る事など無い。
この宇宙、それを支配する法則にとって、当たり前の事なのだから。
ただ、世界を情報によってしか認識できない者にとって、それは現実の崩壊と同程度の意味を持つ。
彼らがちっぽけだったからこそ忘れられた、虚像が孕む矛盾。
それを白日の下に引き回し、“現実”という概念への信仰を破綻させる。
彼の能力は、宇宙と対面させる事だ。
意識というものの真の姿。
構造的な欠陥を、常に抱えざるを得ないという恐怖。
それらと向き合わせる事が、その本質だと考えている。
例えばここで、ある一つの出鱈目を彼らに見せて、
それが「有り得ない」と思われたとして、
それでは彼らは、それをどうやって反証する?
彼らが見るもの、聞くもの、触れるもの、そういった一切が、全て偽物なのに。
そこに在ると錯覚しているだけの、もうどこにも無くなってしまった過去を、疑いなく妄信する分際で、どうして「有り得る」、「有り得ない」を論じられる?
近くに恒星一つあれば、その他の全てが見えなくなるくらいの鈍感さで、どうして自身満々に、真っ直ぐ立っていられるのだろうか?
意思が語る善悪なんて、底まで掘れば選り好みでしかないと、そう言われて反論が出来るのだろうか?
星が出るまで、あとどれくらいだろうか?
開いた目蓋の下、べったり塗られた涙袋の上、
群青色の中に一点、
十字の上に菱形を重ねたような、白い瞬光が灯っていた。
それは、遅れてきたものだ。
それ自体は発光しておらず、反射を見せる投影面でしかなかった。
かつてそこに何かが浮いて、それに光がぶつかって跳ね返った、その痕跡だ。
あれなるは、太陽系第十惑星、
“夢王星”。
或いは“バッキャス”。
彼には、それが見えている。
例え煌々《こうこう》と注ぐ陽光の下でも、瞳の中にそれがある。
遅れているから、今もそこに宿っている。
………
………………
………………………
——ク
「ククッ」
アハハハハハハハ。
「アハハハハハーハハ!」
アハハハハ、
ヒヒヒ。
ああ面白い。
ああ、忌々しい。
これだ。
これが世界だ。
「現実」だ。
真実のなんと脆弱な事か。
偽りのなんと強固な事か。
審美など、
理知など、
先見など、
なんという戯れ言。
なんという痴れ言!
所詮、彼らにそれ以上などない。
それより上等は、彼らに与えられない。
だから、
だから——
「オヌシ、その眼を妾に譲らぬか?」
だから彼は、彼女に仕えるのだ。
「そのガラス玉のような瞳。そのわざとらしい天光」
彼女は彼の頬に掌を這わせ、その瞳を覗き込み、
夢幻の中に焦点を合わせた。
「皮肉と諦観と絶望と、そして何より——」
——戯歌の触り心地
「妾好みの宝石じゃ。所有されるに相応しい」
彼女は言った。
それは作り物であると。
紛い物であると。
偽物なのだと。
そしてこうも言った。
「それは、憐れなる小人物の、大宇宙への洒落た抵抗。
銀河への敗北感を噛み締め、怨恨で生み出した歪な滑稽味」
だからこその美がある。
だからこその魅がある。
それは余りに不格好故に、他に二つとない仕上がりになっている。
「“奇貨居くべし”、じゃ」
そう、欲しがった。
だから彼は、彼女の物だ。
「もう過ぎた今」でも、「これから来る今」でも、
もう持ち主は変わらない。
全ての「今」で、そう在るのだと決めたのだから、
これから来る「今」は、
全てが満ち足りているだろう。
日射を押し返すほどの白金色に網膜を刺激され、彼は「今ここ」を見るのを止めた。
その眼をそのまま、「これから」に向ける為に使う。
彼が待つ遅延のカーテンは、巨神の息吹で揺れている。
神話の御世の再現。
過ぎた何かを追い続ける意思、その終着点。
愚かだ。
だがその愚かさは、嫌いじゃない。
嘘を本当にしようという、そのしようのない意地っ張りは、共感できるところもある。
けれど、協力は出来ない。
ここを通さない事が、主の命であり、主の命を守る事に繋がる。
「紳士諸君こんばんは!」
だから間違っている同士、
異形の兄弟として、
「楽しい星見にいらっしゃい!」
存分に無くし合おうではないか。




