498.狂瀾怒濤
〈ローカスト……!〉
巨大な魔力の熾り。
雷が落ちたかのような震撃。
樹頭を足で掴む“鳳凰”がそちらへ面を上げた時、熱と光の代わりに瘴気の塊を纏った彗星の如きものが、木々も地盤も大気も押し退け、広くに亙る脅怖を落とした。
その上でバッタの群れが編隊を組み、円の内に接する複雑な幾何学模様を描き、それが中心点から外へと開いていく。
隔世。
ダンジョンの入り口。
それがストンと落ちて、高く立ち昇る黒煙を連れ去った。
〈《《使った》》のか……!〉
辺獄現界。
illが、と言うより、魔法の深奥を覗き、その扱いに長けた者のみが操れる秘儀。
己の肚に招く行為で、敵を噛み砕き消化する必殺に見える一方、情報処理能力や魔力等、かなりのリソースを消費する。
あれが終わった際、魔学回路が一時的にショート、暫く使えなくなったという例まであるのだ。
更に、内側に呑み込む以上、内から壊される危険と隣り合わせ。
特にダンジョンを生み出せる他の使い手を入れてしまうと、そこに新たな世界を上書きされてしまう恐れも発生する。
自分のローカルが届かない、隔絶した場所に叩き込まれるならまだ良い方で、下手をすればダンジョンの構成情報に干渉され、同一性が崩壊、この世の存在として死に至る危険すらある。
彼らの肉体は造り物であり、魔力さえあれば拵えられる。
だが壊れてはいけない致命的なものというのは、当然誰にでもある。
それは切り札であると同時に、ill相手には一発逆転を許すリスク。
だからこそこの島に来ている彼らは、互いに互いへ目を配りながら、先に使わないよう立ち回っていた。
その口火を、数で劣る“環境保全”が切る。
本来であれば望ましくない事だ。
戦略的にはこの時点で一つ負け。
だが、
〈奴ならば〉
“醉象”であるなら、それを覆す事もある。
戦闘能力において、“提婆”に次ぐ準最強。
彼女の忠実な僕であり、荒事をきちんと型に嵌めて片付ける役。
“火鬼”亡き後の勢力図の中で、敵側であれを抑えられるのは“靏玉”くらい。
短気で堪え性に欠けるきらいがあり、あの発動も挑発に乗せられてという側面が大きいだろうが、“転移住民”が1、2体巻き込まれていたとしても、無理矢理勝利に持っていくだけの豪腕——いや豪脚か——を備えている。
他者がダンジョンを生んで、環境を書き換えようとしても、術が成立する前に喰い荒らされて、まともな構築は阻害され続けるだろう。
そう考えているからこそ、“提婆”は奴の自由にさせている。
彼はそう判断し、自らの問題に戻る。
木々の合間で、跳ね飛んでは地に沈む姿がある。
ピエロのようにカラフルな柄を身に着けたイルカ。
それが数匹、高く飛んで宙返り、鼻先——と言ってもそこに鼻の穴は無いのだが——から美しく着水、ならぬ着地をして、土の下に消えていくのを、一定間隔で並びながら繰り返している。
それらを繋げると弧が描かれて、主戦場を中心とした部分円周が見えてくる。
彼は朱色の腹を持つ鳩を一羽生み出し、その反対側へと飛ばしてみる。
それが境界線を越えるという時、その真下でイルカ達が頭を出す。
その口の先で、区間ごとに色分けされた、パフォーマンス用のボールを回す。
先程までと同じように、鳩はガクガクと進行方向を不安定に変え、やがて当初の行き先とは180°反対の側へ飛び出し、それから再度の突入。
これをずっと繰り返し続ける。
〈“奔獏”……、「遅らせる」窟法、か…〉
「夢幻の如くなり」と表現されるそれは、何かのスピードを「遅くする」。
その効果範囲では抵抗が強まり、弾丸から電流、熱伝導まで、あらゆる物が減速する。
本体が近くに居て、且つ本気でやろうと思えば、光を曲げて一部の空間に届かないようにする、ということすら可能。
質量ゼロであり“場”に干渉されず速度が不変である光子を「遅らせて」曲げる、というと一見意味不明だが、恐らく水中で見られるような屈折現象と同じやり方。
ある波動と全く同じ波を少しズレたテンポで発し、元の波と干渉させれば、打ち消し合ってゼロになる部分と、足し合わせて振幅の2倍の強さを発する部分、それらが交互に来る第三の波、合成波が生まれる。
その周期——一回の振動に掛かる時間——は、二つの波の幾つかの振動の組み合わせによって形成されている為、必然的に元の波の周期よりも遅くなる。
光の波長、周期、振幅が見た目上遅くなるわけだ。
奴のローカルは、そういった原子、電子単位での現象を発生させ、時間がゆっくり進むような錯覚…、そこまで行くと「錯覚」どころか実質的な時間経過遅延を起こせていると言えるのかもしれないが、とにかく泥水を掻き分けて戦うような世界を局所的に作り出す。
ダンジョン内の全てが、時折若干遅くなる程度の効果だったのだが、永級まで登り詰め、illとして覚醒した事で、それを任意に起こせるようになり、凶悪な防御力へと変貌。
例えば敵の体の右半分に掛かる全ての作用だけ遅らせるような使い方をすれば、先程の鳩のように真っ直ぐ飛ぶ事すら出来なくなる。
あの線を超えようとした者が見るのは、時空が狂った世界だ。
ローカルである為、生半可な解呪で対抗しても完全無効化が難しく、彼の“到達させる魔法”ですらご覧の有り様だ。
上から入る手も考えたが、どこまで行っても奴の力場が続いていた。
“醉象”は、どれだけ高く跳んだのか。
或いは、意図的に誘い込まれたと見る方が正しいか。
別に、彼の魔法だって、消去されているわけではない。
その力の一部は“向こう側”を経由している為、情報エネルギーは既に境界を挟んだ反対に着いており、故に目的地設定が出来ているのだ。
それさえシャットアウトされていれば、そもそも鳩が飛ばない。
遠回って時間が掛かっているだけで、いつかは着く。
渡り切れる。
が、それはいつだ?
少なくとも、あと数十分は見なければならないように見える。
〈ここを横断するには、相応の通行料が求められる、か〉
強行突破も、無理な話ではない。
だがそこまでやって渡った先で、反動で力が弱まった所をこれ幸いにと奇襲されては、食べて貰いやすいように自ら骨を折るようなものだ。
〈フン、食用肉の立場からは、なかなか脱却できないものだな〉
まだ様子見。
“醉象”が“右眼”の破壊に成功すれば、それで終わる話だ。
だが何事にも、絶対は無い。
例えば数十億の個体数を持った種が、狩り尽くされて絶滅する事だってある。
あの準最強も、ここで討伐されてしまうかもしれない。
二の矢を番えておくのに、越したことはない。
〈準備だけは、しておくか〉
彼は羽ばたく。
イルカ達の周回に沿って飛翔。
“奔獏”の役目が、「入場制限」の整理係なのだとしたら、
本体は境界の近くに居て、
何かれば外に出て来る筈だ。
それを直接叩き、
このセキュリティを主電源から落とす。
その手を模索すべく、
彼は天空から道化師を探し始めた。




