496.剣と拳 part1
「キビキビ動けよ。まるで寝相だぞ?」
線が、機能していない。
「死ぬだろ、そんなんじゃあ。まあ殺す気だけど」
刀弥は、己の魔法がほぼほぼ形骸化するという、恐るべき窮地に直面していた。
彼を喩えるなら、大海を行く豪華客船。
慌てず騒がず、落ち着いて航行するそれは、自分が沈むなんて余程の事だと思っていた。
もしそうなったとしても、偉大なる自然の御業によるものであり、その巨手に掛かるのは是非もないこと。
それは一つの歴史的大事であり、遭遇するのは一種の光栄とすら受け止めていた。
だが彼は知った。
彼が思っているより、海は広く、深い。
それから見れば、浮かんだ枯れ葉と彼との間に、区別らしきものはない。
海は彼を倒すのに、大袈裟な手間など掛けてくれない。
爪一枚使うことなく、簡単に転覆させられる。
ただ海が海としてあるだけで、彼はいつも脅かされている。
況してや、彼を襲う一雫に、「害する」という意識があれば——
紅色に沿って、一閃。
高熱を帯びる短刀型魔具が、罪人を繋ぐ鉄格子に意思が宿ったような敵の、喉笛あたりを切開……出来ない。
「今更効くもんかよ…!そんな素直な棒振り運動…!」
何度やっても同じだ。
見えぬ壁でもあるように、押し返されるのだ。
紅色は刃先が着く途中で、ぐねぐねと指示を撤回。
それに合わせて修正し、迂回しようと手首を返した先で、「ちょんちょんちょんちょん…!人の物つっついてバズろうとするタイプかよ」またも予測線が錯綜、袋小路からの迷い惑い。「面白くもなんともないからな?」
どこからどう斬り込んでも、どれだけ急いで正確に軌道を辿っても、途中で道を変えられ、伸ばされ、諦めず刃を走らせて、また着きそうなところで再度大回りをさせられて、
亀に永遠に追いつけない韋駄天のような、何かが間違っているとしか思えない悪夢の中から、彼はずっと抜け出せない。
攻撃が、届かない。
諸刀斬閃。
彼の肉体から外を通って、敵に吸い込まれるように集中する幾十もの残光。
うじゃうじゃとした指で握るような、同時多発刀撃。
「手元がおぼつかないけど、酔っ払ってんの?さっきからさあ」
ほぼ同時に止められる。
何も無いように見えた空間が、夏の車道上のように歪み、理想的斬撃の誘導線を迷走させる。
危険。
それを察知した彼は刀の一つで防御。
手応えあり。
だが前からではなく、予測の少し上から。
守りをすり抜けるように、手刀が胸に刺さる。
アーマーに搭載されたシールドと、重ね着された魔法の像、それらがあったから何とか無事。
それらに遮られることが無ければ、そいつの前腕が彼の背に届いていただろう。
まただ。
また軌道が修正された。
彼の魔法が、また予測を外していた。
精彩に欠くどころでなく、一撃一矢一掠りとして的中しない。
打つ手打つ手が、一路も残さず先回りで押し返される。
彼の前に引かれた、紅の解体ルート。
少年と正面から対峙し、最早不意討ちは成立しない。
この距離なら、彼の斬撃に対し、敵が咄嗟に取れる防御行動は、極めて単純な物に限られる。
彼の魔法なら、それを簡単に予測できる。
攻めにしろ守りにしろ、彼の動きを察した敵が対処しようとしても追い着けない、そうなる経路が示されている。
そう断じていた彼だったが、
どれに手を出しても、一度に全てを通っても、
決してそいつに着く事はない。
無限に旅路が延長される。
「!!゛」
ならばと全ての体を一つに纏め、結集した力で無理に斬り破ろうとして、ガス噴射による加速機構が内臓された、最も潜在威力の高い一振りの魔具を両手で横一文字に振り抜く、「性懲りとかご存知ないのか?」事は出来なかった。「わきまえな?お前、迷惑かけてる側だぞ?駄々も笑って済ませられない域まで来てんだけど?」
今度は上下からも挟まれたような、硬さとしなやかさを両立した粘土に食い込ませたような、今までで最も抗い難い抵抗が、手中から潜り掘り腕、胴、腰に伝わる。
肉体強化無しに鉄板を割れる絶技が、フェイントや小振りの牽制と同じように扱われる。
「分かってんのか?分かってないか。そんな賢くないから、人の物壊す迷惑行為に命懸けられるんだもんな」
これでは不可。
ならば次。
それを即座に放し、一度離され落下途中だった刀剣の数々をキャッチ、再度の全周囲斬断。
「ちまちまポコポコ細かいお茶濁し攻撃ばっかやってんなよ」
自らの死角に入ってから引き斬られる分まで全て、そいつは舌打ちを繰り返しつつ顔を動かしもせず魔力操作で閉じてしまう。
「喋ってたら勝手に飛ぶ唾みたいにくだらないぞ、その攻撃」
大きく開いた彼の胸に、反撃。
「不快なだけ」
袈裟懸けの手刀を一歩引いて躱すも、手首の上からの高圧噴射が追いかけて斬りつける。
一方的な負傷。
シールドのバッテリーがまたもごそりと削られる。
これでまだ、最初から線が引かれなければ、
「お前にこいつは斬れない」と、摂理の側から足切りされれば、
彼は納得が行った。
平静の中にあった。
だが魔法は、世界は、彼に「斬れる」と教えている。
殺せる筈だ。
線は引かれている。
崇大なる法が、天然の理が、彼に約束しているのだ。
それを、覆される。
奇跡でも何でもなく、ただ風が吹き、草花が舞い、日が沈み、星が光るのと同じように。
彼は何度も、裏切られる。
斃せると言われて斃せず、守れると言われて守れず、
自らが一手差す、何故かその度ごとに追い詰められる。
動いているのは彼なのに、支配しているのは敵の方。
法を曲げながら、そいつは何の罰も受けない。
またも手刀。
今度は余裕を持たせたバックジャンプ回避。
そいつは右腕を捩じり振り抜き、身体全体に回転を伝え、魔力噴射で加速した左の踵を回し蹴り気味に叩き込む。
左の鎖骨が砕かれた。
衝撃が心臓を跳ね下ろし、血の巡りの乱れが体幹を崩す。
続けざまの連打を、ただただ紅色の体で受け、反撃として次の線を引いて——
気付く。
自らの愚かしさに。




