464.「強い人」って、結局なんだろう? part1
彼女が彼に抱いた第一印象は、“臆病者”だった。
兄が頼り甲斐のある人物だからだろうか、彼はどちらかと言えば「甘え上手」なタイプの、家族や友人の数歩後ろをくっついて歩く子どもだった。
自分の望む事は自分の力でやれるようにならなければ。
当時からそういった使命感を抱いて、よく聞き、よく話し、よく学び、親からも神童の如く扱われていた彼女にとって、主体性の見えない彼の様は、呆れや苛立ちを掻き立てるものとして映っていた。
どちらかと言えば、彼の兄の方に憧れていたくらいだ。
そちらには一本の軸が、情緒だけに止まらない意志があるように見えたから。
世の中を動かすのは、きっとこういう人だ。
彼女もそうなりたいと、目標にしていた。
見え方が変わったのは、小学一年生の時。
学童での生徒間トラブル。
「意思の強さ」、世間で素晴らしい物として語られるそれの無力さを、彼女は身を以て思い知った。
大人の黙認という権威、恵まれた体格に支えられた暴力。
気が強い女の子一人、何を言った所で変わるものじゃなかった。
屈辱。
自分がこれまで積み上げてきた、将来大人になる時の為に身に着けてきた全て、それが一切通用しない。と言うか、使えない。行使しようとしても、頭も身体も動かない。
本当ならこんな奴ら、弁舌巧みに説き伏せて、二度と逆らえないよう正論で撃滅させてやれる筈。
正しいのがどちらかなんて、分かり切っている。言い負かされる余地なんてない。議論なら絶対に勝てる戦い。
でも、そいつには言葉が通じなかった。
丁々発止の激論に備えていた彼女は、獣の襲来に無防備だった。
間違っている。それを立証できる。
でもそんな事、熊を説得するような不見識。
侵略者に平和を説くような呑気。
打ち震えた。
彼女の正しさは、ビリビリに破かれ屑籠に捨てられた。
彼女はそれに、反論出来なかった。
秀才たる彼女は、一人の弱い少女だった。
情けなさに堪えきれず、涙が目元とこじ開けようとしていた所に、
「や、や、やめろ、よ……」
意外だった。
彼は大勢いる他の生徒の後ろで、隠れて平和を待つタイプだと思っていた。
だがよく観察すると、そこに覚悟も強さもない事に気付く。
彼女の方を明らかに気にして、声も震え腰も引けていた彼は、知り合いを見捨てる所を見られて、後ろめたい気持ちになるのを避けたかったのだと分かる。
結局機転を利かせた彼女がわざと大声で泣き出して、その場をリセットするきっかけとなった事以外に、役に立ってはいなかった。
言葉では止められず、暴力に訴えたものの、一切の有効な反撃を打てていなかった。
これでは抑止力にならず、明日からも横暴は続く。
騒動が収まった後、下校する時のこと。
途中まで道順が同じである彼女達は、どちらかの親が送り迎えを担当すると、家族間で決まっていた。
彼は彼女と二人、彼女の母に連れられる帰路の途中、如何にも気まずそうだった。
そのクセ、捨てられた仔犬みたいな顔で、彼女の顔色をチラチラと窺っていた。
どうせ、「やっぱり親に相談した方がいいのかな?」、だとか、「さっきやった事って無駄じゃななかったよね?」、だとか、そういう惚けた思考をしているのだろう。
「大丈夫、あなたは立派だったよ、感謝してる。後は被害者の私が全部報告しとくから任せて」
そう言って欲しいのがバレバレだった。
この弱体者と、彼女自身と、あの野獣の前では、どちらも結局同じだけ弱い。
それに気づかされ、虫の居所が悪かった彼女は、取り付く島なく無視してやった。
睨みつけてやったかもしれない。
家の中に入る時の彼の表情は、彼女に嫌悪されている事を、しっかり分からされたと雄弁に語っていた。
——味方になんてなってやるもんか
——あんたと違って、私は強いんだ
彼女はその夜、さめざめと泣きながら両親にあらましを暴露。
すぐにでも告発すると憤怒する彼らをさりげなく諫め、証拠を集めた上で保護者の間で少しずつ同盟を組み、包囲網を完成させた上でケダモノを追い出すよう、手練手管を駆使して誘導した。
「まだちょっとしたトラブルかもしれないから」、「先生が動いてくれるかもしれないから」、などと心にもない物分かりの良さを並べ、親心を完全に従えると同時に、絶対に相手を破滅させる陣形の構築を図った。
彼の両親は正義感が強いから、焦って動いてしまうかもしれない。そうしたら、彼らの周囲から情報が漏れた事が分かり、密告者を特定されるかもしれない。だから彼らに教えるのは、一番最後にしよう、そう提案したのも彼女だ。
獣に言葉が通じない事は理解した。
痛いくらい理解させられた。
だったら猟師と檻を持って来るだけだ。
世の中にはディーパーなんて職種があるけれど、強いだけで偉くなれるなら、彼らが丹本の支配者だ。
でもそうはなっていない。むしろ軽蔑混じりに見られている。
人間の社会は、強いだけで何でもできるように作られていない。
それを野良に教えてやる。
自分の「強さ」を改めて証明する。
彼女はその事に執念を燃やした。
正義は我にあり。
それを疑いもしなかった。
問題は、
彼女の世界を大きく変えた一連は、
その直後から始まる。
証拠集めの為に、わざと標的になりに行った彼女が、首尾よく因縁をつけられたその時、
「だから、やめろってええええ!」
今度という今度は、完全なる意識外だった。
絶対に楽な方に行かせてやらないと、散々に突き放して、絆も親愛も絶った相手。
彼が、また彼女を守った。
その小さな身を打たれながら、全ての拳脚を受け止めた。
今度は彼女も思考が止まり、その場を止める策を打てず、一方的且つ散々に痛めつけられるのを、黙って見ているだけだった。
通学路を反対に辿りながら、彼女はまた彼の様子を窺った。
彼はもう、彼女を見ていなかった。
と言うか、何も見ていなかった。
軽く俯き、恐怖と後悔で目蓋を暗くし、視野狭窄で一人ぼっちになっていた。
両親への相談という手段すら、自ら「無理だ」と択から外していた。
“絶望”していたのだ。
むしゃくしゃして、という事ではない。
彼はそこまで、気が大きい人間じゃない。
腹が立ったなら、彼女を庇うより、相手に少しでも歯を立てようとする。
でもそれ以外に、理由があるのか?
媚びでも憤りでもなく、あの場で動く動機が。
ここは仮に、衝動的行為、だったとしよう。
一度や二度はともかく、何度も続く行動じゃない。
今回でやっと、彼は学んだのだろうか?
誰も助けちゃくれない。
やるだけ無駄。
彼が何かしても、彼女の心は傾かない。
息を殺して頭を下げる、それ以外に、メリットの生じる行動は有り得ない。
彼は到頭理解したのだ。
彼女はその日は、そう結論づけた。
だけど次の日も、
そのまた明くる日も、
一度の例外もなく、
何度恐ろしい目に遭っても、
彼は抗い続けた。
目をつけられるのを恐れた生徒達が離れていって、
感謝どころか同情の目すら向けられなくなって、
全身余さず「こんなの嫌だ」と発しながら、
だけれど毎日毎日、
同じ絶望を廻り続けた。
彼には、事が好転する未来など見えていなかった。
彼女の工作はまだ彼の家族の知る所になく、力においては年単位で見ても覆せない差があり、大人は変わらずそっぽを向き、勝ち目がないから友軍など望めず、一番近しい彼女さえ手を繋いでくれない。
奴が小学校を卒業するその日まで、誰かを守れば同じ地獄に襲われる。
終わりなんて遠い先。
例えば彼女に恋をしているのか?
いや、それなら彼女以外も助け始めた事に、説明がつかない。
彼女に縋ってこない態度と、整合性が取れない。
敗北と、その先の残酷な仕打ちを恐れ、
出来る事なら戦いたくなんてないと、心からそう願って、
誰にも望まれず、どこにも逃げられず、何にも頼れず、
論理も感情も世間も社会も周囲の目も、彼に「大人しくしていろ」と言った。
彼はその声をしっかり聴いて、そうしたいと確かに欲していた。
けれど、戦った。
前に進んだ。
この世でたった一人、彼だけが理不尽から人を守ろうとした。
彼女は彼の、
いや、人間の可能性、その真骨頂を見た。




