438.不可抗力
積乱雲の中にまた、青白い光が明滅する。
雷鳴はほぼ同時。
それが1秒未満の数瞬、晴れた正午のように空を明るくし、雲間から大きな両目を浮かび上がらせる。
やけに生命感に溢れる、緑を帯びた光彩を持つ眼。
ちっぽけな者達を睥睨し、その暴威を遺憾なく振るう、大いなる存在。
それは容易に、安易に、神と結びつく。
それでも、いいのかもしれない。
区別する意味は、無いのかもしれない。
神は、あの存在を許している。
それが神を標榜するのも、誰かが神と誤認するのも、真の絶対者には咎められる事などない。
あれは神が造られた、大いなる自然から生まれた一つ。
それに巻き込まれ轢き潰されるのも、ある意味で天の父の意にそぐうのかもしれない。
世の終焉を見ているようで、気が楽だ。
みんなここで終わりなら、ジタバタする事もないだろう。
どんな不吉も、不快も、不幸も、
あれだけ痛かったのも、
無いも同然になる。
自ら潰えさすのではなく、自然のままに閉じられる。
救世主が示した道の通り、先人が残した教えの通り、
祈る。
これが最後だとしても、誰もが天国に行けるよう、
世界の在り方の全てに、そうあれかしと——
「ウワアアアアアッ!!」「きゃっ!?」
後ろから押しかかるように地面に倒される。
直後、彼女の耳を叩く、上方を過ぎ去りし風切り音。
「アギャアアアアアッ!?ヒフッ!ヒフッ!アアアアアア!!」
聞いている側が泣き出したくなるような、悲痛な苦啼。
下敷きとなった彼女の顔に、ぽたぽたと数滴落ちたのは、
汗か、涙か、それとも血肉か、
絡まった情緒では、「これ」と判じる事が出来なかった。
「ひぃいいいいっ!うぅううううっ!」
それは、
彼は、
彼女の上から動かない。
あの大風の前では、一人か二人束ねた所で、纏めて撫で斬り重ね斬り。
怯懦に濡れそぼる哀叫の中に、それを理解し打ちのめされた、哀れな男の姿が見える。
二人が別々に居ようと、一緒に居ようと、命の有無はほぼ変わらない。
どちらか片方だけでも、そう思うとしたら逆効果。
だが彼は、動かない。
自分の僅かな生存確率を、少しでも相手に分け与えようとする。
彼女はその時、自分が自棄になっていたのを知った。
結局心のどこかでは、彼女に起こる様々な事を、不幸の連続と見て、許せていなかったのだろう。
だから、自分の手を使わずとも、積極的に綺麗な形で、この世を後にしようとしていた。
その弱さも、それはそれで、大いなる腕の内にあるものなのだろう。
自分で自分を終わらせるのでなければ、生き切った事になるのだろう。
けれど、
それでも彼女は、
幸福には感謝していたい。
右手をそっと引き抜くように持ち上げ、手探りで彼の頬に触れる。
「あなたに、神の祝福がありますように」
それには意味がある。
「神が見ている」。
そこに意味がある。
「………ッ!」
男は歯を食いしばり筋肉を硬直させ、能力で傷を埋めながら耐え、
「もっと小さくなってろ…っ!」
精一杯の警告をする。
「これしかないなんてぇ…!」
痛みが引くと共にぶり返す恐怖に、狂気に呑まれそうになりながら、
「これ以外、許せないなんて…っ!!」
顔面をめちゃぐちゃに縮め固めて、
「なんだよぉ…!こんな…!こんな事以外…!何も…!」
彼は耐えた。
耐え続けた。
その頭上、彼らの視界の外で、雲の中の一点に火が燈り、それが螺旋を辿りながら空へと持ち上がっていく。
『見えるか!?コックピット!』
「見えてるよ!あれも夢じゃねえってか!」
「嘘だろ今度はなんなんだ!?いい加減にしてくれ!!!」
何故か急速に竜巻の範囲が狭まったのを幸いにと、何とか離脱しようとしていたトルネード・ハンター達の目に、その光の帯が飛び込んで来た。
独楽の淵に色を一つ描き加えたように、まるでこれから起こす更なる破壊を溜めているかのように、加速し過ぎた空気が発火したかのように、それは燃え盛りながら一本の円形になっていた。
そこでは今、慎重に稼働する大型重機が出すような、くぐもりつつもよく届く声が響いている。
〈まぁわぁ〉
それは命じる。
自らの風に、
それに掴まれた憐れな塵芥に。
〈レレレレレレレレレレレ〉
吹き荒び、渦巻き、引っ掻き回される大気。
〈レレレレレレレレレレレレレレレレレレ〉
細切れに、
粉々にする。
それ以外に、考えられない。
〈レレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレ〉
「ひあぁっ!?ひいいいああ!!」
膝で地を掘り爪に土を食わせ、屈み縮こまっている矮躯。
人の手で曲げようがない最期を迎えながら、それでも下にある命を庇う。
〈レレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレ〉
地上を抉り吸う雲は、遠目にはゆっくりと浮かび這うバルーンに見えなくもないが、見縊って触りに行った者には、更地を塗り固める材質に混ざるという、新しい役割が遠からず与えらえる。
母なる地球と一体になりたいなら、それを選ぶのも名案となるかもしれないが。
〈レレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレ〉
〈何ですってえええええええ!?〉
その中に、灯り。
遠い円周を描く燈火。
熱力溢れる巨体の輪郭。
だがその抵抗は、空を切っていた。
宙以外の、何も触れていなかった。
〈うぉおおおあああああ!放せええああああ!!〉
それが発した声からは、窮地に陥っているのが分かった。
尋常の生命では生存困難な熱を、体表からメラメラギラギラと沸き光らせて、
けれどもしかし、空を自由に飛び回れはしなかった。
こうなった時点で、そいつの敗北は決まったようなものだった。
地に届かなければ、その重みが通用する相手でなければ、本領を一切発揮出来ない。
〈出ない、だと…!?手も足も尾も…!このワタクシが…!〉
各種の未来が、どれも敗北に落ち着く数秒先が予感される。
いや、確信される。
命運は決まり、
後はそこに到る道を選ぶだけ。
〈レレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレ〉
〈こ、この、このワタクシがああああああ!!〉
犬搔きでもするように四肢を回して、背中から溶けかけた焼石を噴き出して、何の助けにもならなかった。
地上にあるものが全て豆粒に見える。
断頭台の上でギロチンの刃が登って行くのと、同じ状況だと言えた。
何故、こうなっているのかと言うと、
そう狙った、仕組んだ者が居て、
それに全く気付けなかったからだ。
その龍がこれまで経験してきた、力量差を押し付ける、マウントポジションから殴るだけの、無造作な暴力とは違う。
特定個人を標的として、綿密な計画と対策を用意され、確実に狩る為のプランが練り上げられた、ひとつの執拗な暗殺計画。
それをあと一歩、理解し切れていなかったからだ。
これが、illの戦争!
本気で殺しに来る上位者、その真の恐ろしさ!
人間などとはステージが違う絶対強者の、全力の闘争!
ここまで型に嵌められれば、同じillと雖も抜け出し難い!
これに晒された一生命など、
簡単に宙を吹く砂屑となって——
ひゅ、ぅぅぅううう………っ!




