402.入って、混ざって
「そのように意思薄弱でどうします!世界は狂ってる!道徳は死に瀕している!これは人類の危機なんですよ!」
「は、はあ……」
人類、とか言われても、彼には分からない。
自分一人の問題さえ解決できない彼にとって、その男の視座はあまりに高過ぎて、そこから下を覗こうものなら、縮み上がって動けなくなる。
「革命が必要なんです!意識の変革!大改革!『なんとなく可哀想』、それではダメです!心と命に直接訴えるような危機感!使命感!それが無いと、人は変われない!」
「そ、そ、そう、か……、そうだな……?」
「そういう!そういう態度ですよ!被害者であるあなたまでもが、ピンと来ていない!時間も労働力も財産も人権も搾取されているのに!ぜんぜん今のままでいいと、充分だと思っている!慎ましさという美徳に逃げ、考える事を放棄している!それがいけない!」
それは、違う。
それだけは違うと、心の中でなら自信を持って否定出来る。
慎ましさなど彼は持っていないし、今のままで良いとも思っていない。
だがその男が言っているのは、人間の話だ。
人の待遇が良くなった所で、そこにディーパーの居場所が無ければ、彼の苦しさは変わらないだろう。
それに、世の中どうこうよりもまず、数時間後に生きているかも分からない。
「声を出すべきなんです!もっと怒るべきなんです!」
むしろ、静かにして欲しい。
目立ってはいけない筈だ。
外に聞こえたらどうする。
彼は気が気ではない。
「この国は、罪を償うべきです!報いを与える権利が、あなた達にはある!」
「わかっ、わか、わ、分かった、わかった、から…!」
しっー、と、
人差し指を口の前に立て、相手の声のトーンを抑えようと図る。
作戦以外の話題について、ここで無駄に喋り続ける、それが得策ではない事は、鈍い自覚のある彼であっても分かる話。
ほら、恐れていた通りにノックが——
——違う、誰も来てない
また、あの部屋に来たヤツの事を思い出していた。
どうでもいいことだ。
あそこで見た、聞いた事に、特別に思いを馳せていたなら、あの修道女を“処理係”として差し出していない。捨てていない。
あんなこと、何かをくれた恩人相手には、出来ない。
なら、彼は彼女から、何も受け取らなかった。何も教わらなかった。
あの行動が、いいや行動しなかった事が、その証拠で——
——恩人?
——“人”?
びゅ おうっ
違う。あれはローマンだ。
彼ら黒肌とは違い、神様から本当に「人ではない」と言われた奴らだ。
目の前の男が言うように、白肌は彼らを、人間を無闇に傷つけ、無意味に殺し、無邪気に滅ぼして、だから罰として、ああなってしまったんだ。
彼女が言っていた事は、間違いだ。
彼女は許されていない。バチが当たったから、ああなったんだ。
そう考えるのが一番、起こってる事と理由が合っている。
あの扱いも、そうなって当然。
後ろめたさなど感じていない。
感じてはいけない。
ノック、ノック。
誰も来ていない。
この部屋は、今は誰も使っていない事になっている。
ルデトロワが誇る、空っぽな大型スタジアム、その選手控室の一つ。
賄賂を掴ませた業者と、目の前の白肌の警官の手引きで、地下から搬入エレベーターを通って中に入った。チケットも職員IDも持っていないので、誰かに出会えば不法侵入だと一発でバレる。
前の試合が終わり、次の試合までの観客の入退場が行われている頃合いだ。
壁を押し割り空を落とす活気の入れ替え。
人がその身体で、その群れで、その大波でゴウゴウと気流を作り、入るのと出るのと二つルートが輪のように繋がり、そこに苦しげな渦が生まれる。
それを自然と起こせる多数の中、一人か二人か席番外が混ざった所で、誰がどうやってそれを知れると言うのか?
「大丈夫です。成功します。史上最も、緻密に組織された市民革命です」
黒に近い紺色の制服、その上に耐衝撃・運動性能強化の魔具でもある防刃防弾ベストを装着した男は、彼の方へとポキポキ首を折るかのように頷く。
「世界はあなた達を、無視できません。もう二度と」
でも、その目に反射している景色は、灰色で継ぎ目の無い、固まる前のコンクリートみたいに見えた。
ここじゃないどこかの光をキャッチしている、そんな直感を呼ぶ輝きを宿していた。
以前なら、
以前まで、今日の朝までの彼だったら、この男の言う事が、響いていたのだろうか?
それが欲しい言葉だったと、やっぱり正義は彼らの味方だったと、涙を流して感動したのだろうか?
そう思う。
彼が思う自分は、その言葉を肯定したがっている。
でも、ノックが何度も頭を叩くのだ。
何でかは分からないけれど、部屋に入って来ようとするのだ。
「そろそろ、時間です」
腕時計を確認した男の声で、扉はやっと静かになった。
同時に、風が、
距離で殺し切れず、ここまで及んでしまった運動が、
どことなく騒がしく、沈黙を揺らす。
動いている。
沢山の人が。
一杯の物が。
ざわざわ、
どうどう、
ごうごう、
「行きましょう。見られないように注意を」
言うや否や、男はノブを静かに回して、戸を僅かに開け外を確認。すぐに隙間に身を滑らせて外に。
彼は数秒後ハッとして、その後をヨタヨタ付いて行く。
どろどろ
もこもこ
ここには雪なんて積もっていない。
血の池が浸み込んでもいない。
硬くてしっかりした床だった筈だ。
なのにどうして、こんなに歩きづらいんだろう?
足音を殺すなんてできず、腰砕けになった老人のように、背中を追うのに精一杯。
幸いにも、彼一人の足音なんて、すぐ掻き消された。
どどどどどどど
どどどどど
どどどどどどど
どどど どどど
地鳴り、
揺れる空間。
錯乱者達のいたずらな行進。
人と人と人と人と人と人と人と人と人が………
もう「人々」という一個の塊、大きな川になった一団が、通路を埋めていた。
警官が列から外れた者を、横からぎゅうぎゅう押し込んで戻す形で、彼はその中の一雫となった。
呑まれ、
流され、
埋められ、
どろどろ、
ごぼごぼと溺れそうになって、
息を継ごうと顔を浮上させ、
眩しさの後に世界は広がった。
国内、いや、世界最大級のスタジアム。
それぞれが応援する国の衣装を身に着け、全体で二つとない模様を描く観客席。
その点の一つ。
自分は今、オレンジ色だろうか?黒色だろうか?
オオオオオオオオオオオオ
ドオオオオオオオオオオオオオ
ドンドンと小さな爆発が起きているのは、拍手か。あれが何段にも重なって、隕石が落ちたみたいな揺れを作っているのか。
彼の近くでは、隣に何かの言葉をわめいているのが聞こえる。
でも遠くになると、それはまるで波が岩礁を打ったような、大きな一つの音になってしまう。
どろどろ
もこもこ
溶け合う。
全部、同じになる。
ここに居るのは、全員が「見る」為に来た人間で、だからここで同じになれるのか?
『——!も—!聞こえ——か?聞こえますか?どうぞ?』
不思議と、耳に着けたハンドフリーツールからの声は、その中でも聞き取れた。
骨を直接伝うから、だろうか。
「聞こえて!る!聞こえてるっ!」
叫ぶ。
他と混ざってしまう事が、どうにも恐ろしくて、自分が一人だという証明をしようと躍起になる。
彼自身が不思議に思う。
他と同じになりたかったのに。
違うナニカと思われたくなかったのに。
どうしてこんなに怖いんだろう、と。
『競技スペースの、南側、人が他より集まっているのが、見えますか?』
「み、南?」
彼は方角なんて分からず、取り敢えずキョトキョト見回してみる。
確かに、観客席とアリーナの境目付近に、大勢が詰めかけて見える場所がある。
『インタビューをしているようです』
「いん、だれ、だれのっ!?」
『例のローマンですよ!チャンスです!神はやはり、正義に味方してくれています!』
ローマン。
あの、イエローの。
それがどうして嬉しいのか?
『犠牲者の中に、他国の選手団が居る事が望ましいんです!そうすれば、政府の内外からの信頼を揺さぶれますから!しかしディーパーを殺すのは、普通ならもっと難しい!ですが!』
魔素が焚かれていない状態で、ローマンは常人以下の耐久性しか持たない。
『殺せます!世界中に最もインパクトのある形で!』
彼は懐の内、ギザギザした滑り止めで指の腹を擦る。
びゅうびゅう
どろどろ
もこもこ
ふらふら
『行ってください!私もすぐ後から行きます!』
彼は言われた通りにした。
ボスは、その男に従えと言った。
だったら、それが正しい事なんだろう。
余計な事を考えてはいけない。
理屈を聞けば、騙される。
世の中に出回っている正義は、全部国民を搾取する嘘だ。
ボスがそれを教えてくれた。1から10まで、育ててくれた。
だから、彼が言う事は本当なんだ。
人混みを無理に掻き分け、もたもたと一人分ずつ空間を開けさせながら、縁へと確実に近付いて行く。
『私は右後方に居ます…!念の為、ここから見える所で撃ってください…!』
彼はちらりとさりげなく、と本人は思っているが、実際はがっつりと顔を上げて、言われた方角を向いた。
模様の中に、黒に近い点が入っている。
あれがそうなのか、よくわからない。
だが、どちらでもいい話だ。
彼は解放されたかった。
終わらせたかった。
彼は悩んでいたくなかった。
頭が痛いのを終わらせたかった。
彼は分かった。
分かった通りに行動した。
正しく生きた。
そう思えるうちに、やり切ろうと急いだ。
火事場のクソ力だろうか、彼はこれまでに見ないような強引さで、ぐりぐりと人垣を横に退けて、遂に目的の人物が見える所まで——
びゅ お うっ
——白い
そう思った。
黒い点の位置を、最後に確認しようともう一度振り返った。
そしたらその色の上の方に、直線?横に長細い楕円?が白で描き込まれた。
それは何か耳のデバイスに聞こうとして、
どろどろ
もこもこ
びゅうびゅう
転んだ。
背中を押された。
——あっ
背後を見ると、白い影が見えた気がした。
全身白で固めた、あの手品師が?
それとも、あれは修道女だろうか?
もしかしたら、あの部屋を訪れた来客だろうか?
どれも、ここに居る筈が無いのに。




