393.ディスコミュニケーション
「よう!ようようよう!ヨーヨーヨーヨーヨー!よく来たなあ!よく帰ってきたなあ!待ってたぜえ!愛しい愛しい我が子よお!」
カエルが部屋に入ると同時、ボスは自ら立ち上がり、デスクを迂回しながら歓迎を示した。
ハグをしてから同行していた男に顔を向け、
「お前もよくやった!俺はお前の、そういう使える所が好きなんだ!」
「あ、ああ!ボス!だよな!」
「ああそうだ!お前も自慢の息子だ!」
言いながら彼も抱き締めようとし、
その肩からだらりと身を下げている女を意識に入れる。
「おい、なんだそいつは?」
「え、あ、ああ。大した話じゃないんだ、ボス。いやほんと、ちょっとしたお土産っつーか、店で買う感じじゃなくて、川で石拾ってきたイメージで……」
「おい」
ボスの声が、静かに低くなる。
「俺は、お前の親は、聞いてるんだぜ?『そいつは、なんだ』?」
「ろ、ローマンだボス。俺達の会話を聞かれたかもしれないし、一応攫って来た。後で連中の便器に使えるし——」
パキッ、と、
気持ちの良い音がした。
「はれ?」
男の鼻が、顔の右側に数cmズレていた。
「あ、あがああああ!?」
すぐに穴からボトボトと滴る赤を、両掌で何とか受け止め、床が汚れるのを防ぐ。
反社会的勢力の中ですら出世できない小心者であったが、保身に掛けては侮りがたい反射神経を発揮するようだった。
「おい、誰の部屋に、悪臭プンプンの、不衛生なゴミを持ち込んでんだ?」
「ぼ、ボス…!ボス…!ごめん…!ボス…!」
「『ごめん』で終わるなら!ルデトロワに自警団《俺達》なんて要らねえんだよ!ダボカスがっ!」
ボスが蹴り出し、男はドアごと廊下の壁に打ちつけられる。
女を離さぬよう抱き、室内に落とす事だけは防ぎ、「す、すぐ持ってく!すぐこいつ、他のヤツと同じ所に放り込んでくるよ!」と鼻を押さえながら逃げるように駆け出した。
おかしい。
だんだんと静まる呼吸音と共に、部屋の奥に戻って行くボスを見ながら、カエルは得体の知れない恐れを抱いた。
ボスが厳しいのはいつもの事だが、キレやす過ぎる。
今日のボスは、どこか短気、いや、何故か常に気を逆立てている。
「カエルぅ……、お前……」
「ぼ、ボス……?」
振り返りながら、椅子に腰かける“父親”。
その目を覆う黒ガラスに、怯えた青年の顔が映る。
「お前……、レイクサイドをよ……」
「そ、そ、そうなんだボス!レイク、レイクサイドが…!」
「やっちまった、って……?」
「そ、そ、そうなんだ、『やっちまった』…!お、俺は…!」
仕事を果たせなかった。
何が起こったかも分からないまま、ビビって逃げた。
この前のバーの時に引き続き、またしても同じ事をやってしまった。
「そうかぁ……、そうだよなぁ……」
続きを聞かずに頷くボスは、何が楽しいのかニタニタと笑みを抑えられないようだった。
「ボ、ス……?」
てっきり怒られると思って、だから仲を取り持ってくれるよう兄貴分に頼んでいたカエルは、その頼みの綱が即行で消えた上に、話が分からない方へ転がって行く事態を前にして、ただうろたえるばかりだった。
「ああ、カエル……、俺の、お前は俺の子だ。子供ってのは、親に従うもんだ、そうだろ……?」
「あ、ああ、うん、ボス、そ、そ、そうなんだ、そうなんだけど、ゴメン、俺、あの時、その、わ、わわわけがわわわからなくて」
「おいおい謝んな。謝んなよカエル。オタマジャクシはもう卒業だろ?シャンとしてろよ立派なカエル」
「ぼ、ボス…?」
「良いんだよ。命令と少し違ったんだが、んなこと全然どうでもいい。俺がお願いした事が、きっちり完了されていて、そこにチップも付いてきた。働き者な息子を持って、俺もいやはや鼻が高い。良い気分だぜぇ…?マジに、良い気分だともさぁ……」
「う、うん、うんうん……」
どうやら彼は、レイクサイドが壊滅した、その事実が届けられたことで、満足しているようだ。
頭を取れれば良しだったのに、どこかの誰かが特典満載でサービスしてくれた。
だから、彼が下した命令は、180%満たされたという扱いなのだ。
怒って落ち着きが無いように見えるのも、思った以上に順調に行きそうになっているので、ちょっとウキウキしているだけだ。
そうだ、そうに違いない。
ボスは、優しい。
それが幸運から来るものであっても、カエルの仕事の成功を喜んでくれている。
「よし、早速だがよ、カエル。“男”になったお前に、大人の仕事をさせてやる」
「おとな…っ!し、仕事っ…!」
ゴミ箱から生まれた廃棄物が、誰かに物を頼まれる立場に。
この部屋には狙撃対策として窓も付いていないが、彼は明光が差したような温かい感慨を得た。
カミサマとやらがいなくても、許しても許さなくても、彼は人間に、確かに存在する誰かに許された。
弱い奴を慰めて、無害に飼育する為のお題目なんか、嘘なんか彼には要らない。
教科書も、国も、カミサマも、彼を愚かで無価値だと見捨てる。
だけどそれは、本当の話じゃなかった。
これまで彼が信じた事が正しくて、勉強だとか信仰だとかは、ボスが言ったように悪の企みだ。
本当に優れた人間が、まっとうに彼らより偉くなるのを恐れ、不当に平らに並べるか、足の下に敷く詐欺師のやり口だ。
だって、カエルは認められたのだ。
どこか遠くを探したり、小さな文字をつらつら追ったり、無いものについて考えたりしなくとも、地上に彼の望むものはあって、それが今こうやって姿を現した。
彼は勝った。
人生に。
運命に。
彼は幸せになれる。
天国なんて目指さなくても。
「ぼ、ボ、ボス……!俺、何すれば……!」
「いいことづくめな話だ。命令はもっと簡単になって、貰える金はずっと積み上が——」
ボスはまた立ち上がろうとして、と、っと、何かに足を躓かせ、下を、デスクの向こう側に転がる何かを見る。そして短く舌打ちし、
どたん、思いっきり、親の仇のように強く蹴り転がした。
死角から外れ、その姿がカエルの目に入る。
女だ。
目隠し猿轡手足拘束、衣服は破られ薬物酩酊状態の、白い肌の女。
「………」
「はー……。…ンでこう、俺は周りの人間に恵まれねえんだろうな?俺はこんなに、人の為に尽くして、考えて、頑張ってるってのによぉ……」
彼女は、
《《それ》》は、動かない。
指先一つ、震わさない。
「足を引っ掛けてくる、恩知らずばっかだ。どいつもこいつも、物を知らねえ。食ってクソして寝て、それが出来るのは誰のお蔭か、まるで分かってねえ」
「なあカエル?」、
ボスは“使用済み”の物体を見下ろしていた視線を、そのまま“我が子”に向ける。
「俺が本気で、世の為人の為を思って、やってやってんのによぉ……。親不孝な奴らは、それが自分に関係無い仕事だと思って、手を抜きやがるんだ……。なあ、どう思う?おかしいよな?あいつらの為にやってんのによぉー……?本当はあいつらが、自分でやんなきゃいけない事だってのによぉー……?なあ?おかしいよなぁー……?」
「こいつらもそうさ」、
無造作に頭を踏みつける。
ポキリと、首の中ほどから簡単に折れる。
「こいつ、汚い物を見る目を、俺達に向けたんだと……。この街を、人間を守る俺達に……」
「その報告が本当か、さっき確かめてみた」、
散らばった空の注射器。
それを見た途端、語りの冷淡さに肺を焼かれるのではないかと、腸をシェイクするような強迫に苛まれる。
「確認は大事だ。無実の罪で裁かれるなんて、あっちゃならねえ。それは、俺達が最もやられて嫌だった事だ。だろ?だから、しっかりチェックしたんだ。俺達を人間としてみてるかどうか、本音の底の部分まで調べた」
“有罪”だったと、そう断定する。
手ずから行われた“取り調べ”中、女は彼を人喰いの野獣のように扱い、恐怖と嫌悪だけを向けた。
審理と検証は済んだ。
だから、相応の罰が下された。
「ンとに、そんな話、ばっかだ……。そればっかりだ……」
「自分の命を守ってる奴を、ケダモノだバケモノだ犯罪者だ、よく言えたもんだ……」、
恩知らずの無知を、嘆くばかりだと首を振る。
「おかしいよなぁ?何かを受ければ、何かを返すのが、人間のルールだよなあ?恩があるなら、返礼品を、何も持たずとも敬意を、感謝を、くれなきゃだよなぁ……?俺達を偉くするか、偉い奴が俺達にペコペコするか、しないとだよなぁ……?」
ミシミシと、更に体重を掛け、恐らく魔力による身体強化まで使って、女の頭が潰されていく。
ぶちぶち
どろどろ
「なあ、施しやら、誠実さやら、それを与えたのに、返さねえって事は、取り立てても良いって同意だ。だろ?だって、自分の意思で、未払いにしたんだからよ。借りた物は、きっちり返す。約束は守る。思いやりに思いやりで返さないなら、他で支払う事にしたって意味だ。おかしな話してるか?そんなに難しいルールか?法律を守らない奴に、力で守らせる。警察や軍隊の連中がやってる事を、俺達もやって何が悪い?」
カエルは女を見ていた。
白い肌。
永遠の暗闇の中。
赤黒く歪んでいくその顔が、ふと、あの修道女の形と重なったように見えた。
思い込みだ。
共通点があったから、思い出しただけだ。
異人だから見分けがつきにくいだけで、たぶん似ているわけでもない。
「なあ、カエル?」
ボスに呼ばれ、視線を上げる。
「お前は、違うよな?お前は俺に——」
——返してくれるよな?
「信じてるんだぞ……?お前が、そんな酷い奴なんかじゃないって……」
彼には、カミサマは要らない。
彼には、ボスが居る。
そうだ。その筈だ。
「許す」、その言葉がグルグル脳を回るのは、
きっと病気だ。寒いから、熱が出ただけなんだ。
ノック、ノック、
あの音が聞こえたような気がして、後ろを振り向く。
片側が外れた二枚扉。誰も立っていない。来訪者などいない。
これもまた、思い出しただけだ。
あのローマン女から、連想したのだ。
そこには誰も居ない。
何もなかった。
彼はあの時、何も感じなかった。
何一つ、疑ってなんか、迷ってなんか——
「カエル」
呼ばれて再度、顔を前に向けて、二つの暗い穴を覗く。
「なあ、カエル……?」
「ぼ、ボス……?」
「お前の父親は、誰だ……?」
「ボス、ボスだよ。とと、当然、だろ……?」
「お前を拾って、守り、ここまで育てのは、誰だ……?」
「ボスだよ、ボス……。ボス以外に、そ、そん、そんな人、い、いなかったよ……」
「俺の頼みを、聞いてくれるよな?」
頭が言葉を決める前に、体は行動に移していた。
彼は頷いて、受けた。
断らないと、誓った。
どろどろ
もこもこ
びゅうびゅう
床にあの、白くて盲目な女が、転がっている。
そんな光景が一瞬視野の隅に入ったが、
何も見なかった事にした。
「殺して欲しいんだよ、出来るだけ多く」




