391.また戻ってしまう、底無し沼の淵へと
ルデトロワから東に行った、隣町。
ローマン共の集合住宅、という名のボロアパートやお手製ハウスが並ぶこの地は、饐えた臭いが立ち込めているように思えた。
何でこんな所なんかに。
そう不平を垂れるも、他に選択肢は無い。
やらなければ、彼はこの街で生きられないどころか、残りの寿命を止まらぬ疼痛と共に過ごす事になる。
或いは、その「残り」が一括で、ツケの返済に持っていかれるか。
苛立ち紛れにダンボールハウスの一つを蹴り倒し、男は先を急ぐ。こんな腐り物が溜まったシンクのネットフィルターみたいな場所から、一刻も早く出て行きたかった。
彼の気がささくれ立っているのは、この町が放つ悪臭や、背中を見詰める彼の故郷の圧、だけではなかった。
これから会いに行く待ち合わせ相手、その青年への恐怖。
彼はその青年をよく知っている。
最も苛烈に「可愛がって」いた人間。
サンドバッグであり、そんな仕打ちを受けているのに、「目を掛けてやっている」という言葉を真に受けている、それを受ける以外に生きていく意味が持てない無能。
絶対に逆らわないし、逆らおうとしても秒でぶち転がしてやれる雑魚。ローマンより噛み応えがあるだけのロクデナシ。
恐れる事はない。
昨日までの彼なら、そう言い切っていた。
一つの疑いもなく、自信を持って宣言出来た。
「わたくしはあのゴミカスを、何の理由もなくぶん殴って、自分一人で掃除出来ます!」と。
今は、違う。
奴は、化け物になった。
レイクサイドの頭どころか、胸から上を纏めてミンチにした。
それだけの力を手に入れた人間が、日頃から暴行を加えてくる他者を見たら、どうするか?
街には街の掟がある。
だから強くても、誰でも彼でもぶちのめす事が許されている、なんて事はない。
やり過ぎれば家族や組織から追い出され、一丸となったルデトロワに潰される。
が、レイクサイドの上位幹部達を殺し、死ぬどころか捕まりもせず逃げる、そんな奴に暴力の脅しがどこまで通用するのか?
特にあの青年の知能で、パワーバランス云々を考慮できるのか?
刹那的な衝動に身を任せ、殴り殺しに来るのではないか?
彼の悪い想像は絶えない。
だったら行かなければいい、というわけにもいかない。
奴が電話で連絡を取ったのが、彼だったからだ。
ここで待ち合わせを無視して、それを別の誰かに話されたら、やるべき事を怠けた裏切り者として、ボスからケジメをつけさせられる。
どっちに行っても、痛そうな死に方しかなかった。
だから、一縷の望みに賭けることにした。
奴が、
“カエル”が、想像以上に馬鹿だったら、
なんだかんだでお咎めナシでいられるのではないか。
「あ、アニキ……!」
狭い路地からの声に、彼は足を、体中を硬直させる。
ゆっくりと左に顔を向けると、何も変わらない、オドオドと身を屈めてしょぼくれた顔があった。
「よ、よう……!」
声が上擦るが、カエルはそれを気にしなかったようで、「良かった。お、俺、かか、帰りたいんだ…!」そう縋りついて来た。
「俺、お、おれ、家族と、家族のトコまで、帰りたい、んだけど……」
「い、良いのかな……?」、
あんな事件に巻き込まれて、警察にも目を付けられてそうな状況で、迷惑にならないか?
カエルはそれを聞いた。
「い、いいさ!全然オーライ!バンバンオーケー!」
あんな事件を起こして、追われる身で帰っていいのか?
そういう問いだと考えた男は、カエルが心理的に敵対していないと見るや、大喜びで頼れる兄貴面をし始めた。
「ボスが呼んでるんだ!」
「ぼ、ぼ、ボスが…?ほ、ほんとう……?」
「何で俺がそんな嘘つくんだよ!本当だ!また一緒に、“家族として”!楽しくやろうぜ!」
特に「家族」を、心を許せる身内である事を強調しながら、彼は媚びた。どう聞いても上から目線の見下し対応だったが、彼なりに精一杯カエルの機嫌を取っていた。
カエルはそれを聞いて、瞳に乱反射を宿して喜んだ。
自分には家があるのだと、居場所は失われていないのだと、それを確かめる事が出来た。
孤独なんかじゃない。捨てられてなんかいない。
まだ誤魔化せる。
まだ愛されてる。
まだ家族を失っていない。
「さ、行こうぜ!やってやりましたって、ボスにドンと報告してやれ!」
肩を組んで歩き出す男に、
「や、やった、って……?」
何か話の噛み合わなさを覚え、認識を合わせようと問う
「あ、あの!」
前に、
「すいません、そこのお方」
彼らの後ろから、一人の女が息を切らしてヨロヨロ歩み寄っていた。
「あの…!」
二人は振り返り、
「な、なんで……!」
カエルが何事か焦り出した。
「ああ、やっぱり」
彼女は安堵の笑みを浮かべ、
「良かった、いつの間にか、居なくなってしまわれたから」背後からその首に毛深い剛腕が回った。
「ま、ままって、待ってアニキ!」
強化された肉体で、常人には追えないスピードで背後を取った男は、女の意識を絞め落としながら、不思議そうに聞く。
「カエル、こいつたぶん、お前について何か見ちまってる。ローマンだろ?こいつらなら一人二人殺しても騒ぎになんねえよ。一応やっとこうぜ?」
「そ、そそそ、そのしと、ひと、みてな、見えない…!」
「見えない?メクラかよ?なんで知ってんだ?」
「そ、それは、そ……」
「まあ別にいいか。見えてないなら、ウチのローマン共のアソコ係にしても、変に逃げたりしねえだろ。このままついでに持って帰ろう。あいつらたまにオモチャやっとかねえと、いっちょまえにサボりやがるからな」
「あ、いや、え……」
「なんだカエル?お前まさか、使いたいのか?やめといた方がいいぞ?ローマンとヤると変な病気にかかるだろ?お前なら焦らなくても、そのうち女にモテるさ」
男は彼女を肩に担いで、そのまま西へ、彼らのホームへ足を向ける。
ディーパーに連れ去られるローマン。この場を他のローマンが偶然目撃したとして、助けの手を伸べる事も、通報する事もしないだろう。事を悪くするだけというのが分かっているからだ。
彼女を助けられるのは、カエルだけだった。
今持っている、仮初の優位性、それを使えば、彼女をこの場に放置させる事くらいなら出来た。
「おいどうした!幾らローマン共の町だって言っても、あんま見られんのはマズいだろ。サツもヨソの組織も、お前を草の根分けて探してんだ。急ごうぜ?」
「う、うん………」
だが、彼は自らの力を、理解出来ていなかった。
この時この場限定の切り札を、持っていると気付けていなかった。
「い、い、行こう、アニキ……!」
何より、彼女は知り合って間もない、ほぼ知らない無関係の人間だ。
彼が家族に戻れる、迎え入れてくれる家に帰れる。
その喜びを無に帰す恐れを冒してまで、彼女の助命に尽力する意味が無かった。
二人は急ぎ足で、ダンジョンの街、ルデトロワに帰って行く。
道中、互いに相手が上位だと怯え、
逆撫でしないように最低限の言葉だけを交わし、
認識の行き違いを、
正さないまま。




