389.狂い始めた歯車
「………」
「………」
「………」
「………」
沈黙。
つむじから掌で押さえつけるような、質量を伴う静寂がその場に垂れこめる。
部屋の中で動いているのは、2mにも届く巨躯を持った、オーバーオールの女だけ。
彼女は今、主の命で掃除をしている。だから動く事を許されていた。
絨毯を取り換え、床を掃除するのは年少組の仕事。
彼女が担っているのは、そこに転がった汚れの元、赤黒い液を流す小さな肉塊を、ジッパーの袋に入れて運び出し、処理担当に引き渡す事だ。
この後、それが何の餌になるかは、豚の空腹度合いと、近隣ダンジョンの込み具合で決まる。
雁首揃えてそれを眺める男女は、この場の均衡を破る“声”を待ちわびながら、一方でそれが発されるのを恐れてもいた。
「騙してんだろ」
果たして、彼らに背を向け、革張りの回転椅子に座っていた男から、次に出たのがその言葉だった。
「お前ら、口裏合わせて、ありもしねえことをペラペラと……、そんなに俺の驚いた顔が見てえか?」
部下達は音が出ない程度に顔を動かし、見合う。
誰もが途方に暮れており、妙案も適切な返答も浮かばないようだ。
「それとも何か?俺の事が嫌いか?お前らをここまで育ててやった、その恩義に対する返答がこれかぁっ!?」
「ぼ、ボス…!ボス…!聞いてくれ…!」
このままでは、全員が死体袋に入る。
その恐怖にせっつかれた一人が、声を上げざるを得なかった。
「何だよ。聞いてるよ。聞いてやるよ。ああ聞いてやるとも。俺はお前らの親父なんだからよ。言い訳を耳に捩じ込まれるくらい苦じゃねえさ。聞くだけなら幾らでも付き合ってやる」
「ボス、信じられないかもしれない。いや、かもじゃねえ。俺らも信じられなかったから、気持ちは分かるんだ。でも、確かなんだよ。マッポも大慌てで、オウファン共は表からも分かるくらいモメてて、“ネズミ”からも同じ事言われて……!本当なんだ!本当にレイクサイドは」「レイクサイドの連中がぁ?幹部構成員も主要戦闘員も全部ぽっくりイッちまったって?」「ぽっくり、って言うか、殺されたって言うか」
「脳害の奴にンな事できるわきゃねえだろうがっ!!」
机の上にあった電話機が発言していた男の顔の横を過ぎる。
びくりと体を痙攣させたものの、彼はなんとか腰を抜かさずにいた。
「真面目な話してんだよ!分からねえかなっ!今そういうノリじゃねえんだよっ!」
「ボス!間違いないんだ!全員殺されたんだよ!レイクサイドの、あの日あのレストランに居た奴全員!」
ボスはサングラス越しに彼を睨みつけたが、その瞳がどこまでも切実だと10回目くらいになる確認をして、「有り得ねえ、クソが、なんでンな事になるんだよ、クソが」、と首を振りながら腰を下ろす。
「か、カエルが……」
別の女が、ついうっかり、といった様子で口に出し、そのまま止まれず先を続ける。
「カエルが、深化したんだよ…!あいつが…!だってあいつの死体は出てないんだ…!あいつが殺しに行って、あいつ以外が死んで…!じゃ、あいつだろっ!あいつしかいねえっ!」
「………そうかもな」
今度は視線を向ける事もなく、ボスは葉巻に集中するかのように深く息を吐く。
「ど、どうすんだよ、ボス…!?」
「どうするもこうするも……」
「か、カエル、アタイ達の事、どうするつもりだろうっ!?仕返しされるのかなあっ!?ボス、あいつアタイ達に、絶対攻撃してくるよっ!殺さなきゃ!あいつ生きてちゃいけないよっ!ねえっ!?備えないとおっ!」
「今テメエらが死ぬとかカエルが生きるとかトイレットペーパーの芯より要らねえ話題なんだよ黙ってろ!」
段々と語気が強くなり、最終的に灰皿を投げつけ、パニックになる部下を黙らせる。
彼が考えているのは、カエルの消息や戦闘能力ではない。
彼自身はカエルを精神的に支配出来る自信があり、殺される事はない為、深化して急成長を遂げたと言うのならむしろ大歓迎だ。案山子状態の役立たずを1ダースくらい、ご褒美に殺させてやってもいい。
彼が苛ついているのはそこではない。
レイクサイドが事実上無力化され、下手をすれば解体となる可能性だ。
彼の求めるものは、戦乱だ。
それも出来るだけ大きく、何が何だか誰にも分からないくらいの物だ。
ルデトロワ内外の各組織、その中心人物に死ぬこと見え見えの鉄砲玉を配っていたのも、出来るだけ広くを戦争に巻き込む為だ。
“自由”はいずれ滅ぼされる。
それを抱いた開拓者ごと。
そう予見した彼は、その前に大きな花火を打ち上げ、あわよくば国家の統制力を緩ませ、全土のダンジョン管理に混乱を生じさせ、ディーパーの有難みを理解する国を取り戻そうとしていた。
この彼なりの新規巻き直し計画は、国が提供する安全が、疑われれば疑われる程に上手くいく。
その為の、無秩序な戦線拡大である。
あちこちで強盗や放火、抗争を激化させ、州や国に対処させる。
一番楽な鎮圧方法は、街ごと消し飛ばす事。
だが、今はそうできない。
ルデトロワ市内に、全世界から金の卵を搔き集めている所だからだ。
戦闘の余波によって意図せず巻き込んでしまったり、「暴徒鎮圧にカモフラージュして生徒に危害を加えようというのでは?」という疑いから政情不安を生んだり、そういった恐れがあるので、クリスティアは物々しい戦力を用意出来ない。
恐らく、警察の数を増やすのが精々。
世界大会の警備も合わせて、節操なく動員する事になる。
その中に、彼らと繋がる内通者を忍んでいる。
そいつの役目は一つ。
選手や観客の誰かを、特に国外からやって来た、白肌以外の者を、出来るだけ多く警官として殺す事。
州の、国家の治安維持機構が、他国に住む無辜の民や、将来の戦力を失わせる。
即国際問題化。
対外関係を悪化させた現政権は、一時的に揺らぐ。
その隙に次の手を打つ。
何故警官がそのような凶行に走ったのか?
その理由を求めるイナゴ共に、一つの答えをくれてやるのだ。
ヘイトクライム。
「相手があの人種だったから殺した」、白肌であるネズミにそう演出させ、大々的にリークさせる。
クリスティアは多民族国家だ。殺された人間と同じ人種は、高確率でどこかに居る。
何なら肌の色を動機にして、もっと大きく括ってもいい。社会に不満を感じているコミュニティを狙い、それを発散する大義名分を与える。
弱い者の味方になりたい奴らも、そういうのを見下していたい奴らも、この国には事欠かない。国内で暴動とも言える衝突を引き起こす。
言うまでも無い事だが、ディーパーへの反感も高まるだろう。排斥運動が激化する。
それで良い。押さえつける力が粗雑で強いものであればあるほど、解放された時に莫大なエネルギーを破裂させる事が出来る。
馬鹿な民衆が安全圏を気取る上位のディーパーまでを敵視して、自分達を守ってくれる筈のそれらといがみ合う、そんな都合の良い副作用だって期待できる。
何より、時代に置いて行かれる事を一度は受け入れたディーパー達に、次の戦場を与える事が出来る。
警察の信用は地に墜ち、だから下手に悪党を捕まえられなくなる。
もし捕えた者に、「ヘイトだ」と叫ばれ、それが拡散されたら、組織としてだけでなく、個人すら総叩きに遭う。それはネット上だけでなく、物理的な意味でもそうなるかもしれない。警察が信頼されない社会とは、そういうものだ。
では誰が頼られるのか?
法に縛られない暴力。
人を守る戦士。
ディーパーだ。
それが共同体の中心となり、社会の中核となる。
実力のあるディーパーが正義で、それに使われる者として、それ以外が居る。
誰もが自衛と野望からディーパーになりたがり、戦闘能力こそが人間の価値を決める。
世界に自由が、甦る。
そうなれば、彼はどこででもやっていける。
また一から組織を作り直す事だって出来る。
だから今の家族など、惜しくも何ともない。
方々に喧嘩を売り、一斉に反撃され大規模攻撃を受けたとしても、彼なら生き残れる。生き延びれば、再起が出来る。契約や法の鎖など、混乱に乗じて壊してしまえばいい。死んだように見せかけても良い。
この街から自由になれれば、
その時にはもう、この国はディーパーのものだ。
革命。
彼はまさにそれを成そうとしていた。
彼が恐れるのは、無風だ。
何も起きない事。人死にが抑えられコケて終わる事。
俗な言い方をすれば、「興行の爆死」。
今、それに最も近い状況だ。
ヘッドが獲られた、くらいなら良い。
獲れなくても、そもそも獲ろうとした、その事実があれば良い。
暴力組織は、恐れられなくなったら終わりだ。
周囲から真っ先に次の標的扱いされ、彼らが結託して分割するという、最悪の事態を招いてしまう。
だから、殴られたら殴り返す。
ほぼ必ずそうなる。
が、例外はこんな所にもある。
「勝てるわけがない」、心の底からそう感じてしまった時、彼らは鈍る。
恭順を示し傘下に入るか、他と結託して死に物狂いで潰すか、幾つかの選択で迷い、周辺と小突き合い探り合い、調整しながら立ち回りを決めようとする。
脊髄反射的に殴り返そうとする狂犬は、そこにはもう居ない。
時間を掛けるとどうなるか?
世界大会が終わる。
最大の機が、流れてしまう。
今だ。
今、大事件が起きなければならないのだ。
今、爆発しないと、噴火まで持っていけないのだ。
だと言うのに湖面は凪ぎ、通りは深々《しんしん》と冷え込んでいた。
血に飢えた獣達は、形も知らぬ化け物に恐れをなし、尻尾を巻いてガタガタ震えていた。
やり過ぎたのだ。
それ程の殺戮だったのだ。
一つも反応が帰ってこない。
その事実が、レイクサイドに起きた惨劇、それが実話である事を意味していた。
——怖え、だとかナマ言ってんなら、
出来るだけ争いたくないと言うのなら、
「おい」
今度はどんな罰が下るのか、その場の全員が佇まいを正す。
「カエルを探せ」
コートの内に手を入れながら、そこに下されたのは、シンプルな指令だった。
「今日中、必ずだ。見つからなけりゃ、お前らの四肢のどれかから肉を落として、綺麗になるまで磨いてやる」
彼らが我先にと部屋を出た後、彼は部屋の隅に目を遣りながら、引き出しから箱を取り出す。
「見てろよクソが、見てろよゴミが…!」
それを開き、中に入っていたアンプルと注射器を取り出し、
吸い出したその中身を、袖を捲って静脈に注入。
「あの公衆便器みてえな色の中で、ふんぞり返ってるカマ野郎共を、ケツから蹴り上げて追い出してやる……!」
「そうだろうが…!はぐらかすな…!言えよ…!そうだろ…!」、
彼の長年の得物である、冷たい大口径合金を右手で撫でながら、返事が聞こえるわけがない問いを繰り返す。
判定の手でズボンのベルトを緩めながら、目線の先に転がっていた物を、自分の方へ蹴手繰る、
「腐れ老害どもぉぉぉ…!色無し下等民族どもがぁぁぁ…!」
僅かに胡乱な意識で、恨み言を繰り返すのだった。
「血の一滴までぇぇええぇ…!絶やしてやるぅぅうぅうぅうう…!」




