387.それは何も決めてくれない part1
「なぜ、と申されますと?」
女は頭を気持ち上に向けた後、不思議そうに首を傾げた。
目が見えていなくても、考える時には目が泳ぐような動きになるのだと、彼はそんな愚にも付かない気付きを得た。
とコココココ、
茶色い液体が、二つのマグカップに注がれる。
それから彼女が両手で、それをのゼタ盆を運ぼうとしていたのを、何も言わずに奪い取る。
「あ……」
今しがた淹れられた紅茶が2杯。
その準備をしている時から、後ろから見ていた彼は、いつ器が引っ繰り返されたり茶が溢されたりするのか、気が気じゃなかった。
これからそれを持ちながら、フラフラ歩いてくるのを座って見ていたら、余計に気疲れしそうで、だから小さな丸テーブルまで、自分で運ぶ事にしたのだ。
「お優しいのですね」
「お、俺の飲みモン、ぶちまけられたら、メンドーなんだよ…」
温かく笑う白い顔に背を向けた彼は、わざと音が出るように二つのカップを置いて、自らもどっかりと無遠慮に座る。
すぐ後ろまで近付いた時、彼女は気付いていないようだった。
作業に集中していたからだろうか?
初対面の時に見せた鋭さに、彼はまだ納得が行っていない。
「づっ…!っつ…ッ!」
「あら、」
熱々の紅茶を一なめ二なめした所で、対面からのとぼけた声に顔を上げる。
頬に人差し指を当てた彼女は、
「そういえば、何の話だったでしょうか?」
のんびりと頭を巻き戻し、
「そう、『なぜ』、でしたわ」
ペタリと、音が鳴らないくらい柔らかく、両手を合わせ、
「お答えしましょう。私が、神を信じる者だからです」
その十指を祈るように組んだ。
「カミ、神、カミサマ…!カミサマ、って、なんだよ…!」
彼は相手に見えていない事も忘れて、それに首を振る。
「カミサマが、俺を助けたって、そ、そ、そう言いたいのかよっ!」
半ば激昂しかける彼の声を、彼女はじんわりと受け入れる。
「そうとも、言えるかもしれません」
「そんな、の、うそ、嘘だよ。分かるだろ?なあっ!わ、わわ分かって言ってんだろ?」
そんなに優しい奴が居るなら、世の中こんな事になっていない。
それは彼女のような者が、一番よく分かってる筈だ。
「カミサマは、かっ、かっ、カミサマはさあっ!人間を、人間と、人間じゃないヤツに、分けたんだよ!殺して、殺して良いヤツと、そ、そうじゃないヤツを、区別してさあっ!殺したんだっ!いっぱい!い、い、いっぱいだ!いっぱい、なんだぞ!」
そしてその賠償は果たされず、今も彼らは支配される側だ。
ボスが何度も言っていた。
神っていうのは、白肌の借金ばっかり大目に見る、贔屓野郎だって。
誰にでも愛を注ぐなんて、嘘だって。
「あんたも、あんたもカミサマの使い走りなら、まず、まず考えた筈だっ!『こいつは救われるヤツか、殺されるヤツか』って!どうして、どうして見えもしないで、俺を救われる側だって、そう思ったんだっ!お、お、俺はっ!俺はさァっ!そこ、聞いてんだぜっ!そこをっ!」
神では説明できない。
彼はそう断じた。
はっきりそれを確信しながら、それでも全身を汗が伝って、狭い部屋が波打ってより窮屈になるような、悪夢めいた光景を見た。
彼は恐れていた。
自分の身内で言い合うのでなく、外の誰かから、より詳しい人間からはっきりと、「お前は要らない」と言い切られるのを。
彼に、覚悟などなかった。
確定させたくなかったから、口を開かれる前に殴って黙らせたかった。黙らせてくれる人に付き従った。
彼が最も恐ろしいのは、自分が人間でないと、認めてしまう事だった。
「いいえ?」
彼女はそれを、正面から否定した。
「神は、分けてなどいらっしゃいません」
「は、はあ?」
「神は、人に区別など、いいえ、命に区別など——」
——設けてはいらっしゃいません
「え、は…?い、いや、い、は、う……うそ、うそだ」
それは、違う。
救世教の本を、嘘が書かれる本を読まない彼でも、ボスから聞いている。
「う、うううう、うそ、う、う、うめ、『うめよ』……ナントカ、だろっ!人に、そう言ったんだっ!人以外を、チクショーを、人が増えるための、餌扱いしてんだろっ!?」
「それは、何方が仰ったのですか?」
「いや、だからっ!カミサマがっ!」
「本当に?」
「本当って、だって、だだって、本にっ!“セイナル”本に書いてあるって!」
「それは、嘘ですよ」
「うっ、うそって!うそ、いや、そう、うそ……、うそ…?」
そう、嘘だ。
彼は嘘だと思っている。
だがそれを、神を信じる側の人間から言われた事で、指摘の方向があべこべになってしまった。
「いや、だって、カミサマは、居るんだろ…?」
「私は、そう信じています」
「でも、嘘、なのか?」
「嘘、ですと誤解を生むかもしれませんので、方便、と言った方が宜しいでしょうか?」
「ホウ、ベン…?」
彼の語彙では追いつけない。
「まず、神は御姿を持ちません」
女は、そんな迷える仔羊を見て、順を追って説明する事にした。
「御顔も、御名も、無いのです」
「な、い……?」
「はい、ありません。何故なら、神は人間が知覚出来ないような、より高位の、途轍もなくかけ離れた、理解不能なものだからです」
確かに、理解不能である。
彼は聞いていて、分からないという事しか分からない。
「いや、でも、カミサマを見たって……」
「神の声や、天使の姿を見る事は、あるかもしれません。つまり、神は間接的にしか、私達とやり取りしません。神の御姿を直接拝見させて頂く事は、私達には叶いません」
「でも、カミサマは、人と似てる、って……!」
「それは誰が言いましたか?」
「それは、」
人間だ。
教えは、人間が作った。
「神は、その気配のみを、この世に残します。私達はそれを見つけ出して、『これは神の御意思だろう』、『あれは神からの御言伝だろう』、と、そう“解釈”します。『解釈』です。解明ではなく、『飽くまで今の所、こう考えられる』、でしかありません」
人が特別に見えるから、「神は人を特別な者として作った」と語る。
地が世界の中心に見えるから、「神は地を固定し天を回した」と語る。
この世に光があるから、「神はかつて光あれと命じた」と語る。
「『光あれ』、神はそれでよしとされました。ですが、それはどういう『よし』なのでしょう。生まれた『光』は、彼の御方の思い描いた通りの『光』でしょうか?それとも、神は『それでも良い』と許されたのでしょうか?」
「それでも良い」。
全て計算通り、緻密に作ろうとするのでなく、生まれるに任せてそこに在る事を許す。
最も基礎的な一節だけでも、そこには無限の可能性が、寛容さが用意されている。
「私達は、世のあらゆる所から、神を感じ取ります。けれど、それは神が『そうあって欲しい』とお命じになったのか、『そうあっても良い』とお許しになったのか、どちらであるかによって、意味が大変異なります」
「か、カミサマの声って、声、が、聞こえたって……」
「日々を送る中で、見出される奇跡の数々。
私達が言葉を持ち、今こうして出会っている事。
私達の住むこの星に、命という物が生み出され、それを解き明かす知性が現れた事。
私達の宇宙に、光という奇妙なものが、存在しているという事。
それらは当たり前にそこにあって、でも本当は尊い偶然で、まるで誰かにそう作られたかのようで」
その奇跡達に、神が宿る。
「『神の御声を聞いた』と言うのは、それらの気付きを分かりやすく教える為の方便で、嘘なのです。神がこの世界を御作りになられた。けれど、それぞれの被造物に、どのような意味を持たせていらっしゃるのか、また、いらっしゃらないのか。そこは、人が後から勝手に愚考するしかありません」
だから、「地は平らで天が動くと考えていたが、実際は丸く、回っている」、そういう勘違いも起こり得る。
それは、神の意図の読み違い、人の思考の浅さの露呈。
神の教えが間違っていたのではない。人の理解のし方が誤っていた。
聖典を冷笑する際に、よく引用される地動説は、必ずしも神の否定とは成り得ない。
神に近付き、その声をより深く聞こうという、信仰的修道とすら言える。
「そ、そんなの、カミサマなんてっ、カミサマなんてェっ……!居ても居なくても、かららっ!変わらないっ!いやっ!居ない!居るって思う、理由がっ!こんきょ、そうだ!根拠が無いっ!」
「ええ、だからこそ、私は神を信じるのです」
立証するのではない。
居ると決め込んで願うのではない。
縋って当てにするのではない。
知っているわけでも、解っているわけでもなく、
「し、しししん、じ、て、」
信じて、
「信じて、何が、変わるんだっ…!」
居ないのに。
何も分からないなら、手を加えるわけでも無いなら、居ないのと同じなのに。
誰も、何も、助けられないのに。
救われる事なんて、ないのに。
「優しく、在れます」
「やさ、しく…?」
「世の中を、少しだけ、柔らかく出来ます」
「や、わ、ら……????」
どろどろ
もこもこ
彼の理解は、また後方に離された。




