276.そして誰もいなくなった
彼はあれから、ダンジョンに潜れていなかった。
選択教室内では元々腫れ物扱いだったから、それで特別問題は起こらなかった。
しかし10月には、全員参加の甲都遠征がある。
その時も不参加を貫くべきか、吾妻と共に挑戦するべきか、その問いは乗研を大いに悩ませた。
夜な夜なあの“声”に魘されながら、浅級にさえ及び腰になっている彼が、彼女の隣で戦っていいのか。負い目と劣等感があった。
吾妻漆は、あの時に深化していた。
遠山にもそれで勝ったらしい。
彼女は史上最年少、9文字詠唱を会得したチャンピオンとして認定される、その予定だという噂まで出ていた。
乗研は天才だった。
吾妻はその上を行っていた。
彼は勝手に彼女を対等な友と思い込んでいたが、そうではなかったと露呈した。
彼女は彼と違って、才能を満杯に容れられるだけの、大きな器を持っていた。
限界が見えている、真の強敵には敗北する彼と違い、彼女は勝利する側だ。
乗研は半端に優れているだけの、弱者だった。
今はまだ、向こうはそれに気付いていないようだった。
だが行動を共にしていれば、いつかバレる。
失望される。
そこまでの時間は、長ければ長い程、無駄なだけだ。
だから彼は、彼女を避けるようになっていた。
もう自分に関わらないで欲しかった。
それが彼女の為か、自分のプライドの為かすら、よく分からなかったが、
もう会いたくない、それだけはハッキリしていた。
「おいリュージ!観念しやがれ!やーっと見つけたぜー?」
しかしどうやら、彼は逃げる事でさえ、満足に熟せないようだった。
ある日、学園内でもほとんど人が来ない穴場で、隠れるように時間を潰していた乗研は、吾妻に正面から声を掛けられ、無言で去るわけにもいかなくなってしまった。
「……どうした、鬱陶しさが倍増してんぞ?」
「どーしたも何も、テメー最近全然顔見せねーじゃねーか!っつーか、見せねーよーにしてねーか?何逃げてんだよ」
「逃げてねえよ」
「嘘こけ」
「巡り合わせが悪かったんだろ?」
「有り得るかボケナス。あんだけツルんでたのによ」
「気分に任せてたら偶々近寄っただけだろ?いつもいつもベッタリとは限らねえだろうが。小坊の馴れ合いじゃねえんだ」
「……イヤーな言ー方じゃねーか。何かムカついてるっつーならそう言えよ」
「違えよ。偶然だっつってんだろ。俺が言ってるからそうなんだよ。そういう事にしとけ」
「何を怖がってやがんだよ?らしくもねーなー?」
耳が痛いとはこの事だった。
彼は何かが決定的になるのを避けて、彼女をなるたけ長く遠ざけようとしている。おっしゃる通りのご明察。ぐうともスンとも言えない図星。
形が決まらぬ焦りばかりが募って、彼はぶっきらぼうな応対をより強くする。
「……俺らしい、ってなんだよ」
「あん?」
「何でもねえ。モン坊の事があってから、テメエとは顔を合わせづらいだけだ」
「あー、モン坊、モン坊な……」
それは一つの反則だった。
その名前を出せば彼女は口を噤み、気まずい沈黙が場を押し固めて、時間がチャイムまで流してくれる。そういう打算10割で、死者を使った。
死者だ。
——ああ、
——モンタは、死んだんだ。
その時彼は、ずっと口の中で飲むも吐くも出来なかった物を、喉の中程まで下す事が出来た。彼はもういない。乗研が居て、吾妻が来て、しかし彼は現れない。
何かの間違いでも奇跡的妙手による偽装でもなく、
紋汰・プルミエルはどこからも居なくなった。
「ま、いーさ、そんな事よりさ、聞ーてくれよ」
「………あ?」
——今コイツ何て言った?
耳を疑った乗研は、つい無関心を装っていた顔を上げ、マジマジと吾妻を仰ぎ見てしまった。それを「釣れた」と判断した吾妻は、嬉々として先を続けようとする。
「テメー言ってただろ?政府から目を付けられてウンヌンって。あれさ」「アヅマ」
呼ばれた彼女の眉間が険しくなる。その姓を嫌っている事は、とうの昔に伝えておいた筈の基本事項だったからだ。
「……ミスったのか?………おい。忘れちまったか?ご自慢の記憶力はどーした?優、等、生」
「んだよ、偉そうに。将来の取締役殿は随分と高圧的態度が板についておやがりだ」
「テメー……、耳掃除はしっかりしとけよ?大事な話、全部聞けてねーみたいだなあ…?」
「聞いたさ。家柄も財産もとことん利用する癖に、“アヅマ”で一括りにされたくねえ、だと?笑えるぜオイ。甘えた半端モンもいい加減にしろ」
「だから…!そんな事言えた義理じゃねーのは分かって…!だけどお前には…!お前にだけは…!」
イヤだ厭だ。
食道の真ん中に倦んだようにへばりついた物を、あの手この手で取り出そうとして、吐き戻せるのはイガイガした言葉。
スッキリなんてするわけもなく、出しただけ逆に重くなるのに、それでも排出を止められない。
「どうしたよ。話があったんだろ?とっとと言えよ。モン坊より大事な話なんだろ?さぞや面白いんだろうな?」
「何でモン坊より大事って事になんだよ…!?ぁあ!?ざけてんじゃねーぞ繊細ゴリラ!」
「ゴリラは元々繊細だ浅学スケバン気取り。テメエにとっちゃ、嫁だか婿だかそういう人の付き合いも所詮道具か?壊れちまったらあっさりポイかよ?」
「だから…!なんでそーなんだよ!モン坊が死んじまった事と、俺が目出度い話持って来た事になんの関係があんだよ!嬉しいなら嬉しいでいーだろ!?」
「俺のどこら辺を見て嬉しがりそうに思えるんだって聞いてんだよ!」
「は、んなもん、だって、お前が言ったんだろーが!」
「何を!」
「国が採らざるを得ねーくれー強くなるってよ!」
そうなった。その通りになった。
「俺に勧誘が来た。ケッコー段違いにキナ臭ー所からだ」
「………………テメエを、雇うって?」
「そーだよ。部外者には詳しく言えねー、っつーか、こんな事言っちまうのもホントなら禁止なんだろーが、だがよー、これはゼッコーのチャンスって奴だぜ?」
「ぜっ、こう……?」
「そーだろーが!俺が向こーに掛け合って、テメーと二人1セットで入り込む!それが出来んだろ!俺達二人で、なんか色々変えられる立場になって、偉くなるんだろ!?」
「そーだろリュージ!」、
単純な喜一色に染まる吾妻を、乗研は理解出来ない化け物のように見ていた。
吾妻は強くなったのだ。 乗研と違って。
吾妻は前を向いているのだ。 乗研と違って。
吾妻は失う悲しみに打ち克ったのだ。 乗研と違って。
吾妻は国に選ばれたのだ。 乗研と違って。
吾妻は本気で達するつもりなのだ。 乗研と違って。
対等?理解者?どの面が言っている?
他から異端視されているだけで、彼は彼女の足下にも及ばない俗物だ。
彼はまた偉くなりたかっただけだ、褒められたかっただけだったのに。
失望されるより、喜ばれる事の方が多かったあの頃へ、戻りたかった。
愛されていたのに、分かり易い証明を欲しがる。
乗研は才能を持って生まれて、けれど弱さも一緒に付いて来た。
吾妻と違って。
決定的だ。
そう思った。
「なー!リュージ!俺達さ!」
「消えろ、アヅマ」
この先彼は、治るかも分からないトラウマと、延々揉み合って引きずるように生きるのだ。フラッグを相手にするどころか、ダンジョンに入れるかも分からない。誰かを守る、誰かの為になる、そういう行為の全てに反吐が出てしまう。彼を守る者にも、彼に守られる者にも、いつ敵になるかと恐怖してしまう。
ディーパーとしての復帰に何年掛かるか、それが可能なのか分からない。それは巻き込まれた結果ではなく、全てが彼の自業自得だ。
稀代の才能が世を良くする流れの中で、乗研は川底の岩と同じだ。ほとんど影響力は無いのに、完全に削られるまで微妙に突っ掛かる。時が作る奔流を、誰の気にも留まらないくらい、小さく地味に遅らせる。
彼女が出来損ないの「天才」を推薦して、それが求心力や言動の説得力に瑕を付けたら?そいつに歩調を合わせようとして、小股でチマチマ行く無駄な時間が生まれてしまったら?
彼女の負担となる。彼にはその想像だけで、耐えられなかった。
「お願いだから、もう俺に話し掛けないでくれ」
両手で爪を立てる程に、強く己の顔を掴み、乗研は単なる問答無用を、拒絶を示し続けた。
「………………………………あっそ」
根負けしたように、失望したように、冷たく小さく打ち切りを宣言して、
「一生そこで震えてろ、ビビリなガキがよ」
思ったより静かな足音で、そこから去った。
それ以来、彼は一人で逃げ続けている。




