270.彼らを苦しめるのはいつだって………
ダンジョンが現れてから10分。
“逸失”が始まった。
人間が変異したG型やV型から逃げていた人々は、頭上を通過し退路に降り立った金色の長い毛を生やす丸い頭、F型の大群によって挟み撃ちされ、流れを堰き止められ、押し戻されることになった。
当然、後続にはそんな事は伝わらない。交通渋滞によって身動きが取れなくなり、車を捨てた者達も合わさった事で、密度は更に濃くなっていた。統率など取れる訳も無く、前が止まっても後ろは止まれない。後から後から少しでも先に進もうと体を捩じ込み、F型から逃げようとする流動と正面からぶつかる事になる。押し合い圧し合いは有る所で拮抗し、誰しもを阻む壁となった。
何か原因があるのではと冷静に足を止めた者は、地に引き倒され蹴りつけられ踏みつけにされる。押し合いに負けた者も同じ末路。退くも進も出来なくなったその頭の上から、F型の長毛が伸びて首に巻き付き吊り殺す。誰もがその場から動こうとして、誰も満足に動けない。モンスターが人を殺し、その余波で人が人に踏み殺される。
目の前の邪魔な誰かを罵って突き飛ばそうと、鬱憤と絶望を発散するべく泣き叫ぼうと、ガラスを割って階段を這い上って建物内に逃げ込もうと、結果は同じだ。笑いながら殺される。
死体は全て、群衆の中に投げ返される。それにぶつかって重傷を負う者も、身動きを邪魔され人混みに殺される者も、数多く見られた。F型達はそれを嗤っていた。恐れ、苦しみ抜いて死ぬ様を、楽しんでいるかのようだった。
その混乱が続いている中で、地を行く者達が追い着いてしまった。G型とV型を中心とした勢力が、蹂躙を始める事になったのだ。
その大口で食らい付かれると、痛みと共に全身が麻痺し、無抵抗のまま噛み砕かれる。その代わりに喰った側は、より速く動き、力を増して、周囲を薙ぎ払い、潰し殺すようになる。
酸鼻を極める中でも、一部の人間が助かる道を見つけ始めた。
地下だ。
ショッピングセンターや百貨店、それか地下鉄駅といった、入り口が狭く限られた場所なら、一時的に見逃される。それに気付けたか、運良くその場所に押し込まれた者達が居た。
彼らは我先にと中へ雪崩れ込み、その中で悪知恵が働く者が、あの手この手でシャッターを閉じて、それ以上の来客を締め出した。
乗研と吾妻は、後からその惨状に追い着いた。
まだ密集具合が控え目なモンスター達を処理し、出来るだけ多くの人間の死を防ぎ、デパート地下生鮮食品売り場のシャッターをこじ開けて、中に避難させた。
元々そこで息を潜めていた者達と、少しの間口論になったが、派手に動けば怪物達に発見される。互いに不満を抱えて押し黙るよりなかった。
彼らはそれから、救助を待つ事にした。
そんなものがいつ来るのか、そもそも来るかどうかすら分からないが。
この場に居る人間は、「ほとんど死んだも同然の」行方不明者扱いだ。後から瓦礫を掘り返し、死体を見つけて祈って終わり、そういう対象だ。せめて混雑し混戦した通信が回復して、ここに人が残っているのだと連絡出来なければ、優先して人員を回される望みは薄い。
いや、この規模のダンジョンの出現となると、出現地から近い人間は殆どが漏魔症に罹患する。人員と費用を湯水のように注いで、手に入るのが国庫を食い潰す嫌われ者の新入り達となると、救助隊派遣許可が下されるのは難しい。明胤生二人が居てようやく五分と言ったところだ。
二人。
彼らはまだモンタと逸れたっきりなのだ。
「大丈夫だ。あいつは簡単にくたばらねーよ」
隣で壁に寄りかかる乗研に、吾妻は言った。
「俺達3人でセットだ。俺が見込んだ男だぜ?やられたりしねーって」
すぐ前にある床を睨みつけながら、何度も何度もそう言い聞かせた。
乗研は何も言わなかった。掛ける言葉が見つからなかった。
「おい、あんたら」
そんな二人に声を掛けたのは、彼らがここまで引き連れた内の一人だった。
「ぁぁあんた達二人……、ddディーパー、だろ……?」
腰が引けながら、しかし切羽詰まった迫真さで、目を血走らせている。
「ち、ちょっと、ちょっとだけ、ちょっとでいいんだ、ちょっと、外行って、助けを呼んでくれねえか……?」
「……なんだと?」
乗研は耳を疑った。
「いや見て来てくれるだけで、チラッとこう、人が来てないか確認してくれるだけで良いんだよ!いやだってほら、折角防衛隊とか来ても、ここに人が居ないって思われたらさあ、なあ!?もったいないだろっ!」
「そ、そうだな」
「確かにそうね……」
「そうなったらまずいな!おい、君、見張っといてくれ!」
「……素人みてえだから、教えといてやるが」
声を荒立てないように喋るのに、随分苦労した事を覚えている。
「ここが危険に晒されるだけだ。俺達が出て来た所を見られて、ここの上を強引に破壊してでも入って来ようとする、なんて事になったら、テメエは責任取れんのかよ?」
「イヤデモっ、ちがくて、ほら、」
「ディーパーってこういう時の為に、魔法とか持ってるんでしょ?」
「やっつければいいんだ!そうだろ!」
「ほーう?この中のディーパーは本当に俺達だけか?」
言い争いの行く末を窺っていた幾人かが、気付かれないようサッと視線を逸らした。
「ここには大の大人がワンサカ居るけどな。見た所人命救助に動いたのは、俺達ガキ二人だけみてえだな?」
「だ、だからまたお願いしたいっていうか」
「で、この中にスッ惚けてる誰かさんに、同じ事言えんのか?」
「い、いるってわかんないじゃあないかっ!さっきから失礼だなあんたっ!」
「だったら、」
「確かめるか?」、
座っていた一人の手がピクリと動く。
他の人間の中にも、僅かに張り詰めた者が居た。
「順々に回って、魔力を漏らしてるかどうか、確認してみるか?」
「そ、そうすればっ!」
「そうすればここは安全じゃなくなる」
「は、はあっ!?」
空気が読めない奴等である。
「そこを追及して誰が戦うとかを、一旦有耶無耶にしてるから、今落ち着いてられるんだよ。どうやっても言い争いからのドツキ合いにしかなんねえから、そこはツッコまねえって暗黙の了解が通ってんだ」
藪をつつかないよう、敢えて声を上げない者達が居る。
ディーパーとしての義務を唱えれば、自分にも火の粉が降りかかるから。
不可侵を望む者達に対して、二人は既に譲歩している。
「自分がディーパーだって言い出す奴がいねえ以上、この中で唯一それが確定してる俺達の判断が、最も精通してる奴の意見になる。俺達の言い分を優先するから、戦闘員としての役は任せる、それで話はついてるんだよ。そこに再点火するんじゃねえ」
大人しく待つしかない。騒いだり動いたりは自殺行為なのだ。
二人で逃げるだけでも微妙なのに、この人数が死なないように守るとなると、乗研と吾妻が揃っていると言えど、不可能に近い。優先すべきは、見つからない事だ。
この上重ねて余計な心労を強いるなと、そう言っているのだが、
「そ、そんなのっ、ディーパーだけの都合じゃないかっ!」
彼らはそれに頷かなかった。
「……なにぃ?」
「戦うべきディーパーの中で勝手に決めて、それをこっちに押しつけるなよ!」
「そうよ!それを決めるのはあなた達じゃないわ!」
「待て!考えれば当然の話だ!電車が止まったら車掌に、山登ったりジャングルを観光する時はガイドに従うだろ!それと同じだ!」
「職務放棄してるじゃん!」
「そうだ!何もしてない奴らがいる!そんな奴と立て籠もってたら物資を無駄に減らすし、何より安心できない!ここから出て行かせるべきだ!」
「そもそも職務とか義務とかいうがな、ディーパーだから有事に戦わなきゃいけねえ法はねえ!警察でもそれを頼めるか怪しい状況で、魔法を持つだけの一市民にそれを押し付ける道理はねえんだ!善意の協力なんだぜこりゃあ!」
「ふざけるな人殺し!」
乗研の脳裏に、丸い頭を踏み壊した感触が甦り、
「いや、俺は、ひとを、」
彼は反論に詰まってしまった。
「お前達ディーパーなんて、戦争以外じゃダンジョン関係じゃないと役に立たないじゃないかっ!」
「それで偶に魔力とか使って私達一般人を傷つけて!それを我慢してたって言うのに守ってもくれないって言うの!?」
「じゃあ何の為に居るんだよ!」
「そうだよ!危ないだけじゃないか!」
「あんたらはつべこべ言わずにモンスターを殺すべきなんじゃないのかああああ!?」
「見てこい!行って、ここに助けを連れて来い!」
「お、おい……」
体の震えを必死に押さえながら、どうにかして説き伏せようと言葉を探す。
このまま大声を出し続けるのはマズい。外に漏れたらここは全滅だ。
それを分かって貰えない。どうしてだ?彼らがディーパーだから?ダンジョンの事はディーパーに聞いてくれっていうのが、そんなに変な意見なのか?分からない。あれは人間だった。殺しちゃいけなかったのか?でも殺さないと、死んでた。乗研も、吾妻も、民間人も、みんな死んで欲しくなかったから。だけど人を殺すのは罪で、彼らは喜んでいなくて、乗研は普通は出来ない事をやらないと褒めて貰えなくて——
「おい、テメーら」
低空スレスレの呟きと共に、ヴァーミリオンが一歩前に出た。
「クズ共、うるせーぞ……!」
魔力の流れが生まれ、あと一言で発動出来る段階まで、安全装置を外し、撃鉄を下ろす所まで、踏み込む。
「リュージ、今口を閉じねーヤツは、うるせー口は、他のヤツにも危ねーから取り上げた方がいーよな?」
心底まで冷えた空気が落ちて来る、そんな声。
「このままじゃ、外から来客が来て、よけーに死ぬ。その前に、間引くか?その方が良いよな?」
乗研は、何も言えない。
舌は震えるばかりで、思ったように動いてくれない。
「な、なんだよ!殺すのか!」
「やっぱり野蛮で凶暴なんだ!ディーパーって!」
「やめなさいよ!」
「う、うるせえ!やれるもんならやってみろ!どうせローマンになってお先真っ暗なんだ!どうせ死ぬんだ!こっちの方がお前が罪に問われて痛快だ!」
「ヒハハハハハハハハッッッッ!」
「うるせーって、言ってんだろーが……!」
「待て」と言いたいのに、喉の途中で掻き消される。
あの笑い声が、上塗ってしまう。
ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ
吾妻が口を開き、息を取り込んで、
ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ
魔力が魔法の形を結ぼうとして、
ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ
彼女の言葉が人をゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ
ガシャリ、
シャッターが鳴った。
二人は弾かれるように体の向きを入れ替え、他の人間はパニックになりながら奥へ逃げ出す。
下ろし戸をガラガラキィキィ持ち上げたのは、
「!!乗研!吾妻!」
「……と、遠山?」
遠山喜三郎。
明胤学園中等部主任のグランドマスター。
それが、
「ど、どうしてここに?」
「それは此方が申し候うこと。何故に斯様な場所に居るのだ?」
招かれざる客は、しかし悪くないチョイスと言えた。




