249. これは戦いなんだ、蹂躙じゃない
「あら、ワタクシの事は、お気になさらず。お姉様のお邪魔をするつもりは、毛頭ありませんの」
この戦いにおける台風の目、世界の中心とすら言える存在を目前にして、且つ敵がそれを破壊する一歩手前に来ている。
そこまでの状況で、手を出さないという言葉が、信用されるわけがない。
にも拘らず、当然の摂理のように言い切った、日傘を差すゴシック装いの女。
“北狄”はそいつの事を、不快に思う。
彼女が操る瘴気、乃ち致死性の呪毒を持つ数百数千のノミ型モンスターの集合。鼠が媒介する寄生生物。その中に入った者は、シュレッダーに吸われた紙のように、繊維も鎧も魔法もビリビリに散らされ、体液という体液を吸い取られ、代わりに呪いを流される。
特にこの“酷史廟”の中でなら、ローカルの影響が濃くなって、彼女の眷属達は更に精強になる。相手の攻撃への耐性も、与える呪いの重篤さも、同じイリーガル相手でも「致死」と言い切れるレベル。
だが、その女は違った。
家の一つ、その上に立ち、平気な顔で成り行きを見物していた。
そう、「見物」だ。まるで物見遊山だった。
“北狄”は幾らかの量の瘴気を集中させ、それをボールのように肢で投げるも、
「あなた、耳が遠いんですの?再度申し上げますの」
眷属達は、そのドレスに触れた途端に、破壊されてしまう。
「無駄ですの。ワタクシは今、あなたと戦うつもりはありませんの。あなたでは殺せず、あなたにとって害は無く、あなたにとって真の脅威を履き違えておいでですの。お姉様を前にしながら、まるで意味ナシなワタクシへの攻撃にかまけているなんて、あまりにも残念な審美眼ですの」
「まあ、どちらにせよ、勝敗は見えておりますけれども」、
熱、か?
煌びやかに見える服飾は、巌のように硬い上に、その内から極まった高温も伝わってくる。まるで血流の代わりに、マグマが満ちているかのように。
「一つ、アドバイスですの」
「ガントレット」とすら呼べる、ゴツゴツと鋭角型のグローブで、鋭い人差し指を立てて言う。
「ワタクシに目移りしているのは、勿体ない事ですの。お姉様を、全身全霊、鱗の継ぎ目一つに至るまで全てで受け止め、感浸する事をお薦め致しますの」
「全生命全存在、須らくそうするべきでしょう?」、
煙に巻いているのか、本当に話が通じないだけか。
心理戦において経験不足な“北狄”には、そのどちらなのかが分からない。
こんな時、あの人ならどうするだろうか?
彼女は家族の顔を思い出す。兄達と、そして長姉と。
失う事が本質である彼女が、生まれて初めて手に入れた物を、
〈守る……!〉
一際小さい個体を数百程生み出して、その整った顔にぶつける。
「お前、本当にオツムが足りていないんですのね?」
結果は同じだ。その女のどこか、何かに触れただけで、眷属は全滅してしまう。
〈それなら……!〉
前肢の先端が別れ、槍衾となる。
斧槍も含めた戦乱の記憶。何又にも分岐し、その数を増していく金属の矛先を見て、
「人のお話はしっかり聞きなさいな……」
女はただ呆れたように、眉を顰めるだけ。
〈それなら、直接…!〉
一本ずつがバラバラに制御され、正確に相手を貫き倒す軍列によって、鉄の雨を降らせる、
直前、
〈!?〉
「ああっ♡」
気配がそこまで香って来た。
〈来る…?遅かったけど、やっと……〉
「来るんですのね♡♡!来ましたのね♡♡♡♡!!!」
寒気。
恐ろしい。どこか心地良いのがまた、余計に。
けれど、恐怖とは未知から来る物だ。
彼女はそれが何か、知っている。
“姉”から聞いたから、そいつの基となる概念を知っている。確かに強い。諸悪の根源と言っていい。けれど「知っている」のだ。理解しているのなら、戦える。
消せるとは思っていない。
ただ、こちら側に出て来ないよう、追い出す事なら出来る筈だ。
〈Vと、F………あれらを超える方法なら、ある……!〉
瘴気の向こう、何千本もの微細な指を持つ彼女の掌が包んだ、人間風情による儚い抵抗の中で——
「“一二三四五——」
少年が右手を、親指から一本ずつ折り畳んでいき、
〈——六七八九十”〉
朗々と詠み合わせるように、声と左手が重ね絡められていく。
〈開 宝〉
一寸たりとも一息ぽっちも逃さない、停止の境界。
それは何一つも外に出さず、何であっても内に入れず、
結果的に黒い球に、或いは虚ろな穴のように見えた。
“北狄”はその包装を解こうとして、彼女の持つ戦力を押し固めるかのように投入し、しかし中を覗き見る事も叶わなかった。
彼女では、禁を破る段階にすら、到れない。
そして黒は晴れ、悪気は散らされ、
〈偖、始めますか〉
居る筈のない者が居た。
在る筈のない者が在った。
柔らかさ、後ろめたさ、儚さ、雅さ、凶々《まがまが》しさ、鋭さ、麗しさ、不滅さ。
事象として成立し得る、限界ギリギリの極致まで、それらの概念を過積載。
見る者を犯す美暴。
聞く者を覗く稟声。
嗅ぐ者を剥く芳恍。
そして触れ、味わった者達は、自己も固形も存在も手放す程、この世ならざる快楽を得るだろう。ここまで離れても、それが分かる。分かるのに、求めてしまう。世に残るという彼らの衝動と、真逆の末期を欲してしまう。
その倒錯に、より魅せられる。
少女の姿のそれの前では、あらゆる憂懼が多幸へと、化学変化を起こしてしまう。
彼女の瞳に照らされながら、自らが失われていく。
それが最良のイメージになる。
その前に立てば逃げられない。どれだけ敵視しても、誘惑には勝てない。
最高にして最悪。極上にして悪辣。
恐竜のような巨体の中に、死病を孕む小虫共を満載した彼女でも、辺獄を生み出し窟法という細工を施したとしても、
勝てるわけがない。
勝てるわけがないのだ!
「来たぁ♡来た来た来たキタキタキタキタキタキタキタきたあああああ♡♡♡♡♡♡!!!」
傘を持つ右腕で胸を抱いて、左腕でスカートの上から下腹部を押さえ、喜声を上げながら身をくねらせる女。
ほとんど露出していない頬でも、紅潮しているのがありありと分かった。
「お姉様!最果ての神格!お会いしたかった!おお…!おお!ワタクシの滅び!ワタクシの終わり!ワタクシの行く先!」
やかましい興奮ぶりに対して、しかしさっきまであれだけ女を警戒していた“北狄”は、もうそちらに注意を遣る事は出来なくなった。
全細胞が、あれほど憎かったモノクロオムに、恋していた。
見ているだけで、焦げ付いて絶滅してしまうくらい、夢中だった。
〈あれ、もう屈従を選ぶのですか?〉
挑発的な声と物言いに、ハッとする。
〈私としては、もう少し、持ち堪えて頂きたいのですが〉
〈……し…心配、いらない……!〉
いけない。
今完全に、眠りに落ちるように己を差し出す所だった。邪念も雑念も水飴のように溶け、ただ気の赴くままに俎板に横たわる所だった。
〈私は、私は…あなたに、勝つ…!〉
例え倒せずとも、殺せずとも、勝利する事は出来る。
〈あなたの防御の弱点は………、……??〉
“可惜夜”が顕現してから、10秒?20秒?実は数分経っていただろうか?
散々に遅れて、彼女は漸くその事実に気付いた。
〈……?…カミザススム……、守らない、の……?〉
そいつの持ち駒は、何故か無関係な二人を守り、宿主を放置している。
これでは、あべこべだ。
何がしたいのか分からない。彼の命を守る為に、現れたのではなかったのか。
〈……なに…?……?…どうして、そいつの命を、捨てるの……?〉
理解に苦しむ。無意味を通り越して損にしかならない。
合理性の観点からは論外。即殺されるだけなのだから、精神論が介入する暇すら無い。殺したいのか?彼女がその気なら、もっと速くて簡単なやり方があるのに?
〈苦しめたいの……?苦しんで、死んで欲しい…?〉
導き出された解答はそれだ。
少年が何かそいつの癇に障って、罰を受けているとしか思えない。
〈私が?ススムくんに?………あれ〉
消去法で唯一生き残った可能性を聞かされた彼女は、一度眉根を寄せた後に、何か本気で驚いたように橙を見開き、こくりと流れる喉を控えめに震わせ、
〈くふっ、くっくっくっく………〉
〈なに……?〉
〈失礼。少し、困ってしまって〉
〈困、る……?〉
〈半分程、正解なのですが、〉
苦笑している。
呆れて、いるのか?
〈不正解部分が、思っていた以上に、誤り過ぎているようでして〉
「愕いてしまっただけです」、
袖の陰の蠱しの微笑みは、新鮮な味感に舌鼓を打っているように。
〈他に、じゃあ、他に…どう、どう説明する…!〉
〈そうですね、貴女に言って聞かせるなら〉
改めるべき認識とは、
〈貴女が仕損じる、私はそちらに賭けています〉
そういう遊びだ。
そういう趣向だ。
それはどうやら、大穴なれど成立するオッズ。
〈勝つのは私です〉
完膚なきまでに。




