8月25日 慰霊碑前にて part1
「虫?」
「そうだ……虫だ、ロクさん……!虫が這いまわってやがるんだ!顔の中を、虫が」
ダンボールハウスの中に横たわり、老いた男は苦しげに答えた。
「あの女と、会ってからだ。あの、赤いエナメルの……。それで、みんな、おかしくなっちまった……!」
「エナメルの、女、だって?」
「そうだ…!そうだ…!あの女は、突然現れた…!何の前触れもなく、突然…!」
顔を掻き毟ろうとする腕を押さえつけながら、「ロク」と呼ばれた、矮躯にみすぼらしい格好の男は、耳を傾け続ける。
「そいつは何を、何をしたんだ?」
「何も?何もないさ!何もしてない!ただ、ナンタラ言って、ジッパーを下げた!ライダーだかキャットだか言う、あの服だよ…!映画とかでよく見る、それの、赤いやつだった…!」
「それで、どうなった?」
「良い匂いが、した……いや、誓って言うが、嗅ごうとしたわけじゃ、ねえ…!確かに、中々見ねえ別嬪で、そりゃ、もよおしは、したさ…!したけどよ…!鈍するたあ言ってもよお……!」
「分かってる。分かってるともさ。あんたは、理性的な人間だ。初対面の相手を無遠慮に嗅いだり、そんな事はしない」
「そう、そうだ……!そうなんだ…!……ウウウウウ……!」
手足は小刻みに震えているのに、肌は鉄板の如く熱され、汗は後から後から、刺し傷から流れ出る血液のように、止まらない。
話す言葉にとりとめが無くなり、今にも暴れ出したいという衝動が、ジタバタと内骨格を足場に跳ね回っていた。
「みんな……!みんなあれで、ダメになっちまった……!みんな気分が良くなって……!あの女から、離れられなくなっちまって…!それで……!」
「何を、要求された……?」
「写真を、見せられた……!」
「写真?」
「子供だ……!まだ、中学生くらいの……!新聞とかで、見た事ある……!あの顔…!思い出せねえ…!どこで見たのか、思い出せねえんだよぉお……!」
「分かった。分かったから。それはいい。それは良いとして、女だ。女は一人だったのか?」
「いや……いや違う……!でっけえのと、ちっこいのと……二人……」
「そいつらも、女か?」
「違う、ちがうちがう!男だ!男だった!スーツって言うか、あの高そうな、格好で…!」
「丹本人か?」
「たぶん、違う……、ぅぅぅぅぅ……外国人に、見えて……」
外国人が三人。
ビジネススーツ姿らしい男二人と、キャットスーツの女一人。
それが有名人の少年を、探している?
そして、彼が目の当たりにした、異様な状況。
それは恐らく、魔法だ。
魔力のダンジョン外使用という、重罪だ。
そしてこの症状から、その効果は、想像が正しければ、
なんて事だ、それは脳を破壊する。
この男はもう二度と、元に戻れない。
「みんな、携帯、持たされてよ……!見つけたら、『ご褒美』、くれる、って言って……、でもみんな、『また会える』、それしか頭になかった……!」
「それで、見つかったのか?」
「ぁぁぁぁああ……!きのう、この近くで……!」
この近く。この短期間で。
こんな事を全国各地で続けていたら、何らかのニュースになっているだろう。
それが無いという事は、ここが開始点、もしくは初期だ。
ある程度心当たりがあり、総仕上げとして、この地のホームレスのコミュニティを掌握し、忠実な使い走りにしたか。
ロクは奥歯を噛み削る。
「そいつら、名前は?呼び合ってなかったか?」
「ママ…」
「なに、ママ?母親がどうした?」
「そう呼んでたんだ……!まままままま、ママ……、それと、ディーズ…とか……あああああああ!アア!アア!」
「大丈夫、大丈夫だ!ここにあんたの敵はいない…!虫もいないよ……!」
「取ってくれ!とってくれよ!アアアアアアア!!」
それ以降は会話が成立せず、男の体力が尽きるまで、暴れないよう満身の力で押さえるしかなかった。




