197.シミ一つない、灰に尽きる
「“一二三四五——」
一本ずつ、親指から順繰りに、倒して行く少年。
〈——六七八九十”〉
黒い影が逆の手で、そこに指を絡め交わす。
〈開 宝〉
内に光も届かせぬ、球形の容器。
違う、あれは個体ではない。物質とは言えない。
何もかもを静かに止める、そういう事象だ。
深淵だ。
illモンスター、“羅刹”は、
それを見て、彼女が本物だと、生の体感を得た。
論の集合、理筋の積層、
それらに勝る、目前の現証。
負の価値の化身たる己。
それと同じに堕とす力。
彼は、彼女に、それを使ってみたかった。
この世の何より美しく、
あの世の何より恐ろしい。
そんな彼女を、汚し尽くしてみたかった。
帳が、上がる。
凶器的な顔つき、
狂気的な体付き、
驚異的な弓張月。
垂涎。
トロリ、
トロトロ、
劣情が、
寄せては返し、強まっていく。
あの、
眼窩を貫くような艶品を、
冠絶した肉の海を、
馨しき端麗を、
卑猥なる汚行で、染め塗りたい。
混ざり融け合い、穢れとして、
三千世界に、染み付きたい。
染み渡りたい。
彼は、彼女との逢瀬を、誰にも邪魔されたくなかったが故に、
“靏玉”を、この場から下がらせた。
あれも、極上の女だった。
しかし、これはどうだ。
目の前に確と立ち昇る、背後を色熱で歪め煽る程の、
たぽたぽと、脂肉が気化したような、蒸気、否、情気は。
どうして絶対零度の陶磁が、
誰も、彼もを、焦がすのか。
どうしたことか。
どうしてやろうか。
その気があるのだろう?
想わせぶっているのだろう?
だからそんなにも、甘い香りで、
喉を嚥ませ、腹を鳴らさせ、脳髄を擽って、
ネバつきぬるつく、
“恋”を喚ぶのだろう?
そう、彼は恋をしていた。
その姿を見る前、
存在を気取る前、
居所を定める前、
話を聞いた、その日から、
ずっと、ずっと、待っていた。
憐れなる、捨てられし者達よ。
汝の救い、此処に在り。
ゴミ箱の隅、
姥捨て山の麓、
処理場の裏にも、
幸福がある。
永きを耐え、
今、光が届く。
“羅刹”には、正常な言葉が無い。
詠唱を聞かせる事が出来ない。
だが、認識の共有は、必要ない。
彼は、そういった小細工の次元で、戦ってはいない。
少なくとも、この“怪塵塚”の中では、彼がルールだ。
交換レートでさえ、最終決定権は、彼が持つ。
だから、心の中だけで、詠み唱えた。
——“忘恩放蕩とは報復絶倒”。
彼の本体である、一塊。
それは代謝し、乃ち老廃を流し続ける。
塵も芥も、害悪な液汁も、彼にとっては身体の一部、大切な己自身。
故に、それを捨てれば捨てる程、
窟法に従い、より多くを得る事が出来る。
空間的キャパシティーが許す限り、幾らでも巨大化し続ける忌み子。
それが、“負債”の本領である。
粘性を持つ半固形の瘤が、岩となり、丘となり、やがては山よと堆く。
流量を増していく湧き水の如し。
ヘドロが幾本もの“腕”を固め作って、
それぞれに鉄や鉛の爪を持ち、
マニキュアのように有毒化合物が塗られ、
無念が血潮、
復讐が骨子、
不定形こそ確固たる在り様。
数十mへと熱り立つ毒液大百足。
ブラウン管が表面に浮き出て、そこから瞳が覘いている。
人や、動物の眼が、
花々の芯までが、
横倒しの画面に、映し出される。
縦2列に並んだそれらは、左右から閉じる個別の目蓋を持ち、
硫酸の涙を流していた。
口が無い?
そこにあるだろう?
全身だ。
水銀やカドミウムの唾を撒いて、
ダイオキシンの溜息を吐く、
彼を形成する全てが、
“口”なのだ。
〈“オロチ”、毎度の事ですが、お願いします〉
彼女の首に掛かっていた羽衣が、宿主の少年を守る為に、囲い隔てる。
〈“ハチ”、念の為、貴女もです〉
なまめかしく流れる頸を、隠していた枷が外れ、少年の頭上を旋回し始める。
それだけの、脱衣であっても、
彼女の香気は、より匂い立つ。
まだ、
まだまだ、
そこに在る極楽は、もっと圧倒的だと、
気が、
位格が、
教えてくれる。
耳打ってくれる。
これであの小僧は、内に居ながら、蚊帳の外だ。
元よりそいつは、眼中に無い。
“羅刹”は、彼女と二人きり。
思う存分、媾える。
少年を相手にした時のような、
絶やさぬようにする、加減など不要。
たわわな果実を搾った、極上の酒に、陶酔する。
誰にでもある、普遍にして不変の、情動だろう?
娼婦が持つ軟質な、ゲル状にすら思える乳房を、
痛みなど気遣わず、満身を籠めて握り掴むように、
彼は彼女を包み、その身で押し潰そうとして、
彼女は、
“可惜夜”は、
右手の手袋を咥えて外し、
親指のみを曲げ、
〈四。…いいえ〉
次に小指を畳み、
〈三本で、いいでしょう〉
手首を返し、顔に近付け、
〈少々卑しい行いですが、貴方には、丁度良いでしょう?〉
人差し指を、覆布の向こうの口に、含み挿れた。
その様もまた、異質だった。
水音も、吐息も、ほんの少し、香辛料のように、効かせるだけ。
幼稚さや、下品さは、感じられない。
風趣に富んで、官能的に見え、
掠り傷程の失望もさせない。
爪の先から、関節を順に、根元まで、
窄まった口に、挿し入れて、
丁寧に
丹念に、
しゃぶり、
舐め上げ、
クリームソースのように唾液を垂らし掛け、
舌を巻き付け、撫でるように、仕上げをして、
べったりと無色透明にコーティングされた、踊る灰蛇が一疋、のたくっていた。
汚濁の一滴にまで、そのあられもない淫景を、焼き付けようと、
彼が止まってしまった、その間にも、
“作業”は進み、
3本ともが、生命からの注視を放さぬ、劇物となった。
それを見れば、何者であっても、接触を夢見て、愛撫を渇望するだろう。
これからそれに撫で下ろされ、搔き混ぜられる。
その予想すら、快楽に変換されるだろう。
彼もまた、例外では無かった。
指先が向けられ、彼女の小首が右に傾げられ、
ヴェールの向こうから、狙いを付けるように、橙の上目遣いに射され、
その時が来たと、腰の奥から身震いして、
〈弾きなさい?“ヤツカ”〉
醜怪な怒張は、千々に裂けた。
——?………?????
奪われて、いる。
端から刻々と、
恨みの熱も、
つらみの圧も、
“滅亡”に吸われ、
簒奪されて、
そのスピードが、
巨大化を遥かに上回っている!
〈貴方が、決めた事ですよ?〉
彼女は、蟻の巣を水で沈めるような、
楽しげな一方、何処か冷たい眼差しで、
〈「棄てた者には、与えられる」、貴方の、法です〉
それだけ告げた。
彼は、理解した。
彼女は、吐き棄てた。
世のどんな宝石にも勝る、価値と煌めきを持つ玉露。
それを放棄し、“羅刹”に与えた。
彼女は、彼に、“去ね”と命じた。
彼と、彼の法は、
それに、満足してしまった。
その程度では足りないと、法外な相場を適用すれば、それで良かったのに、
彼女が飛ばした、一掬いもない体液に、
己の身代を遥かに超える、それだけの値を付けてしまったのだ。
彼女の言い値を、受け入れてしまったのだ。
猫をも殺す小判。
豚すら惑わす真珠。
棄てられ、埋められ、怒った彼が、彼らが、
懊悩を忘れ、存続を諦めて、その命を聞いても良いと、思ってしまった。
“窟法”が、内包している存在に首を垂れ、判断に迎合し、
破産に構わず、貢ぎ込んだのだった。
彼は、
しかし、達していないと、そう思った。
欲を満たされ、より強い欲を得て、
絶頂を求める執念だけで、
破滅しながら彼女を襲い、
彼女の、左耳より下がる、
白絹を割るように、髪の間から現れた、
台形の耳飾り。
〈“ベー”?〉
そこには、目を血走らせ、手を出せば届く禁断の果実に、群がらんとする亡者の群れが映っており、そのあまりの醜さで、鏡面が汚され、
〈しっかり見ていなさい?〉
彼女は中指で、その像を拭った。
“羅刹”が、水気を失ったように固まり、先端からボロボロと崩れ落ちた。
追えど伸ばせど、指は短くなり、
彼女と彼の距離が、どんどんと遠くなる。
彼は今や、液でも泥でもなく、灰だった。
吹けば飛ぶような、灰塵の集積だった。
〈品性下劣、汚穢で不潔〉
唾には浄めの効果がある。
〈不浄を魂に生まれ持った、その末路がこれですか〉
それで少々濯がれただけで、彼は“自己”を失いかけていた。
〈貴方のような者がのさばる、それは不快ですが、しかし摂理でもあります〉
彼はまだ、上から圧し掛かる事で、彼女と通じようとして、
〈然れども、指一本、毛筋の先ほども、私への接触を、許す気はありません〉
遂に、態度に留まらず、言葉までをも以て、拒絶された。
〈“自我”を組む事も能わぬ、文字通り唾棄すべき方と、契りを結んでしまう程、安い女ではありませんよ?〉
「お忘れ勿きよう」、そう言った彼女は、
薬指から、最後の一射を済ませる。
“羅刹”の体だった、石灰の如き砂粒共は、
ぶわり、と巻き上がり、
塩のような結晶となって、のろのろと地を目指し、
二度と積もる事は無かった。
“可惜夜”は、少年の目玉に戻り、
直後、雨のような蝉の音が降り注いだ。
入道雲が伸びる、青い空の下、
季節外れの雪が、降ったみたいだった。




