149.け、煙たい部屋ですね…
「思ったより、元気そーじゃねーか」
「何をどう想定してたらそう見えるんだよ。死んでるとでも思ってたか?」
「当然、社交辞令ってヤツだ。ガキ相手に大人げねー事やってるウド野郎をヒニクってんだよ」
「そうかよ」
乗研竜二は、喫煙所の灰皿で、紙巻き煙草を押し消して、新しく咥えた一本に火を付け、
「おい、気が利かねーな?俺のにもくれよ、火」
「わざと無視したに決まってんだろうが。俺はテメエのママじゃねえんだよ」
そう言いながら彼女に、有名ブランドのライターを投げ渡した。
「銘柄は相変わらずだってのに、これは良いの使ってんのかよ」、そう言いながら、
入学時からの腐れ縁である、吾妻漆は苦笑した。
「うるせえな。取締役様がどうしてまた、わざわざ学び舎なんぞにお越し下さったんだよ?暇なのか?母校を懐かしむような性格じゃねえだろ」
「見物だよ。あの、パラパラスケベとか言ー」
「パラスケヴィ・エカト?」
「それだ。ダンジョンの名前と混ざった」
「『スケベ』なんていう名前のダンジョンは無えよ」
「『パラパラ』の方だ。『スケベ』は『スケベ』だろーがよ」
「だから間違ってんだよ。仮にも女子に『スケベ』だとか言うなよ。今だと問題になんぞ?」
「仮にも女子“が”『スケベ』って言ってる事にプレミアを感じろよ」
「『女子』って歳かガサツ女」
「『高校生』って歳でもねーだろサバ読み野郎」
ここまで挨拶のようなものであり、
それが済むと、途端に会話が止まってしまった。
憎まれ口なら100も1000も出て来るが、
言いたい事は年月を経て、それ以上に積もっている。
だけど地層みたいに、新たに降って来る言葉に埋もれ、
内奥に何があったか、分からなくなっていく。
何かデカい天変地異でも起きて、断層が露出でもしない限り、見つける事は困難に思えた。
「……すんのか?」
くゆる煙を見上げながら、吾妻が辛うじて発掘できたのは、その問いだった。
「……何をだよ、客体が無えんだよ」
「卒業だよ。それ以外に、お前がやらなきゃいけねー事なんて、無ーだろーが」
「とっとと卒業しろよ」、そう言って乗研の安銘柄を、一本箱から失敬する吾妻。
外行き用の葉巻とは違う、粗製濫造が肺を雑に燻す。
「マッジー…。お前、この味から成長しねーなー」
「良いだろうがよ。俺の勝手だ」
「どっちが?」
「どっちもだ。卒業だとか言って、社会に加わんのも俺が俺の意思で決める。ついでに言やあ、酒と煙草なんて、化学薬品の刺激がウケてるだけで、どいつもこいつもマズい事には変わらねえだろうが」
「そうかねー?」
「ああ、変わらねえさ。何も変わらねえ。テメエのケツくらいテメエで拭くさ」
「んじゃー、なんでまた、大会に出たりなんかした?しかもKポジだぞKポジ。社会復帰の意思の無ーヤツのやる事とは思えねーよ」
「どう思おうが、それこそテメエの勝手だがな」
彼はそこで、ニコチン巻き寿司をもう一度口にして、白い毒を吐く。
吾妻はその間、何を言うでもなく、次の言葉を慎重に待った。
茶化せば茶化すほど、彼の本心から、遠のいて行きそうだったから。
かつてなら、こんな時にも遠慮なく、馬鹿な軽口を叩き合えたと言うのに、
大人になったせいか、暫く会わなかったせいか、
随分臆病になったものだと、そう自嘲する。
「まだ、ケツを拭けてねえって、そう思った」
「そいつはなんともフケツ、って?」
「下らねえよ」
「全くだ」
白けたギャグ一つで、少しでも空気が弛緩したのは、
誰かが安心したからか。
「ま、世の中にゃケツを拭けねえ、拭かねえ奴らも居る。オムツを履いて、垂れ流したそばから、キモチワリイってそこらに捨てる。そうと知って、自分で拭かねえと決めてんのに、キレイ好きみてーな顔をしてる分、要介護のボケとは比べモンにならねえレベルで、最低な連中だ」
乗研は彼らが憎かったのだと、自分の気持ちをそう解釈していた。
「だろーよ?他人に上手くケツを拭かせたり、オムツをこっそりそこらの家に不法投棄したり、そーゆーのが得意な奴が、上に行きやすいのが社会ってヤツだ」
それだけではないと、何となく察していた吾妻は、それは言わずに相槌を打つ。
「って事は、お前もそうか?」
「俺はそーゆークソ共を蹴り払える器用さがあるってだけだ。こう見えても潔癖症だしな」
「お前が?そいつは今世紀最大の大爆笑だぜ」
「それに、俺に向かってクソなんて投げつけた日にゃ、最悪おっ死ぬって、それが分からねー奴はいねーからな」
不良やヤクザ者の、嗅がせる為の暴力の匂いではない。
抑えていても溢れ出す、それだけで鼻を潰す、破壊の香味。
彼女が言う「殺す」という文句は、物理攻撃とほぼ同格だ。
「ま、テメエはそうだろうがな」
人間が動物である限り、生命である限り、絶対強者の彼女に、おいそれと勝負を挑めない。
敵として会いたくないだろうし、居るだけで商売敵を委縮させる、お守りみたいにすらなれる。
ただ、
「どんだけ強くても、そうじゃねえ奴が居るって、分かったのさ」
「何だそりゃ?」
「前までは、強い奴は、テメエみてえに、勝手に上に行くと思ってたんだよ」
だが、世は残酷な実力主義、ではない。
より容赦の無い、運否天賦の世界だ。
乗研には、分かった事がある。
「あるところによ、クソの不法投棄所として人気なスポットがあって、一度そこに入っちまえば、抜け出すなんてほぼ出来ねえ」
「そうか?出来ねーイメージがあるだけだろ」
「その『イメージ』のせいで、実際に抜けても、抜けてない事にされる。どこまでもクソが付いて回るんだよ。クソ塗れだって言われりゃあ、クソが見えなくても汚く見えちまうし、そうでもねえのに臭え奴だって気がしちまう」
「それでも、本当に強ー奴は、這い上がって来るぜ?」
「その『本当に』の範囲が、偶々狭まっちまった、より高尚な物を求められる世界に来ちまった、そういうツイてないだけの奴だって居るだろうが。……いや、居たんだよ」
吾妻は乗研が、誰の話をしているか、何となく分かって来た。
「まあそーゆー不幸もあるだろうな。残念な話だが、機会均等なんて土台無理な話だぜ?
何せ俺達、一回数億、掛ける事のヤッた回数、全滅を繰り返した先に内一つが選ばれて、それでよーやくスタートだ。今の丹本じゃ、腹から這い出さえすれば、ある程度は安定軌道に乗れるが、それだって絶対じゃねー。況して中世にでも産まれてみやがれ。おぎゃーおぎゃーつって5年持ちゃー上出来よ。大抵はそこに行き着かねー。
命ってのは不平等なもんだぜ」
「そりゃそうだ。それはどうしようもねえし、俺がケツを拭こうが拭くまいが変わらねえ。もっと別の奴に、そいつ自身のケツを拭かせねえといけねえし、俺がそいつらに、拭く事を強制出来るとも思わねえ」
彼は、弱いから。
「だがな、」
本当は彼自身だって、
知らない振りをしながら、
捨てていたのだ。
「俺は、クソを押し付けるのは、強え奴とか数の多い奴等の特権だって思ってた。それに抵抗出来る奴が上がって行って、それ以外はただクソを受けるしかねえ、って。だが違え。弱え奴が偶々、強え奴の為に用意された、高い所に立っちまったから、クソが他人の頭に降ってきちまうんだ。
自分で自分のクソを見るのも耐えられず、出したそばから見えない所に投げ込もうとする奴らが、
他人にクソを被らせる罪悪感からも逃げたくて、心が痛まない投棄所を欲しがってる奴らが、
世の形を決めちまっているから、だからそんな事になる」
「別に今のままでいいや」、彼らはそう思っている。
糞尿を被った側としては、彼らを追い落として、同じ目に合わせ、その快感から、構図を維持しようとする。
「あとは、テメエより下には誰も居ねえと、そう決めて掛かってる奴等も、遠慮無くやりがちだ。弱えから、テメエが他所様を傷つけ、追い詰めるなんて、出来ねえと思ってる奴等はな」
無自覚無神経な迫害者達。
世は彼らが大半を占める。
「クソ製造機なんてなあ、最悪だぜ。クソそのものの方が、流れて終わりな分まだ始末が良い」
「それを変えてやろーって、急に思い立ちやがったのか?」
「馬鹿言ってんじゃねえよ。それを変えられるような、高い所に行くには、俺は弱過ぎんだよ。雑魚だザコ。んな奴が張り切ってそこに立った所で、肥溜めの水位が高くなるのが関の山だぜ」
けれど彼は今、魔法という才能によって、偶々少しだけ高い所に居て、
更に下の誰かに、汚物を喰らわせているのだと、そう気付いた。
「俺が下に行くのは、出来ねえ。魔法能力と、それを管理する国が、それを許さねえ。だったらせめて、ここから下にクソを寄越さねえような、しっかりテメエの手を使って、正しく便器に流す、そういう当たり前だけでも、やろうと思った、ってだけだ」
あの少年。
大勢が生み出した負の堆積物に、生き埋めにされかけて、それでも掘り上がり、顔を出して、息を継ぐ事が出来ている、本物の強者。
鼻から口から、酸鼻と醜悪と暗澹を注がれて、それに噎び泣き、絶望し、
心を砕かれながら、天に向かって昇るという、類稀なる偉業を続ける者。
彼が溺れそうになっている様は、乗研には腹立たしく思えた。
それは彼を沈めようとする者達への怒りで、
言い換えれば自分への憤懣だった。
「俺が不貞腐れて、奴がその割を食う、ってのが、みっともなさ過ぎて、情けなくなった。言っちまえばそれで全部だよ」
「ほーん……?」
吾妻の中での、件の少年の経済的価値が、何度目かの上方修正を受けた。
「あいつ、そんなにヤベーのか?」
「少なくとも、俺よりは強えぜ?もしかしたら、テメエより、かもな?」
「おいおい、こちとらチャンピオン様だぞ?」
「知ってるよ、成金暴力女」
「成金なのは親父だよ」
「今日来たのも、その親父殿のご命令か?」
「半分はな。パラパラ漫画とやらは、元々目を付けていたし、どー引っこ抜いてやろーかと、そう思ってたんだがよ」
「思わぬメッケもんだ」、彼女の眼光が強くなる。
「客寄せパンダだって聞いてたんだがな?」
「同じ熊でも、グリズリーだぞ?あいつ。あれで釣られる客なんて、それこそテメエみてえなジャンキーだけだ」
「なあ、特指の奴等に、次の試合であいつを使うよう、言ってくれねーかな?」
「俺が言うまでもなく、そうなるだろうな。口では言わんが、あの教室に、奴の強さを認めねえ節穴は、所属してねえ」
「パラスケヴィ・エカトVSカミザススム、俺イチオシのベストバウトが来るぞ」、
彼は灰皿で紙の火を押し消して、
立ち上がってブースの扉に手を掛ける。
「就職先が決まったら、俺に言えよ?」
だらんと上を向いたままの吾妻から言われ、
「まだ就職出来るかも分かってねえだろうが、せっかち唯我独尊女が」
数秒止まってそれだけ言って、乗研は出て行った。
「声が弾んでんのバレバレなんだよ、金メッキ留年野郎」




