11.その末路は幸せだろう part2
その唇から漏れた言には、きっと形象も質量もあった。
〈“一二三四五——〉
掌が合わせられたまま、右手指五本が順繰りに折られる。
〈——六七八九十”〉
反対の手指も絡ませるように、親指から畳まれる。
〈開 宝〉
指を組み、脇を締め、
ただでさえ肌着が締めつける胸部を、二の腕が横からまろやかに潰し、
瞼を閉じて仰け反って、
祈り手が慎ましく掲げられ。
祝うように。
誘うように。
〈略式。其れで十分、此れで十全、そうでしょう?〉
彼女の首に掛かる、淡く儚い布。それが身を捩りだし、その先を、先を、先を、
——先は、どこだろう?
際限なく伸びている。ように見える。
注意して見なければ、即見失うように稀薄。だから、全体像を掴む前に、大きさや形が変わっても、気付けないようにできている。
ほとんど透明なそれが、広場一杯に、端から端へと届くまでに伸長し、
収縮した。
〈グゴガアアアアアアア!?〉
〈ガアアア?〉
〈ァァァァアアアアア!!〉
部屋の中央に、A型もG型もV型もそれ以外も、
老若強弱の区別なく、集め、固め、閉じられた。
〈貴女も、張り切っているのですか?“オロチ”?〉
少女が手袋を噛み、引き抜いていく。
中指に掛かっているアームカバーが、一部を隠しているものの、ゆで卵のようにつるりとした、灰色の肌が顕になり、右手の甲の黒い魔法陣が、下々の見るところとなる。
十字を孕んだ、八芒星。
墨めいて濃く、流れ、鼓動し、烙印のように、生々しく刻まれて。
左の甲には、あれは、何の紋様だろう。
横倒しの線の中央から、垂直の線が下に——少女から見れば、上側に伸びる。
同じように、焼け跡のような黒さ。
左手がどのように動いても、図形は変わらぬ方向を指す。
肉の池に浮かぶ、方位磁石みたいに。
それらが日の目を見て、
とん、と、彼女が雲を蹴り、俺から目を外さず跳んで、
A型に、後ろ手で触れた。
〈ゴォォォォオオオオオオ!!?〉
効力は、劇的だった。
いや、効き目と言うか、霊験?奇跡?神秘?なんと言えばいいのだろう。
彼女の手が接触している部分から、A型がグズグズに溶け崩れ出したのだ。
〈オゴ、オゴ、オゴアアアア!?〉
モンスターの女王は、このダンジョンの母にして第二位の戦力は、即座に弾かれたように離れ、マグマ溜まりを機関銃めいて吐きかける。パニクった新兵を思わせる乱射、狂乱、そして恐慌。
緋の飛沫を頭上にして、少女は汗一つ浮かべて見せず、すると雨天を抜けてしまう。A型の巨大な頭部に、その媚態を沿わせ、添い寝の如く、嫋やかに密着。
〈まだ御満足頂けないと?欲張りさんですね〉
着物の袖が上がり、腕の覆いがハラリと落ちて、より広く直に触れる為、麗人は醜獣に撓垂れ掛かる。
もう少女は触れるどころか、抱き着いて、肌を合わせていた。
大きな抱き枕を抱える体勢。
細やかな指が、頬を撫で擦る。
〈オ、オ、ア、オ、ア、〉
腐敗の炎で焼き滅ぼされる、そんな壊れ方だった。
皮膚が割れ、中の肉が流れ出し、黒く澱んだ火勢が強まり、頭の先から形を失う。
〈ア、ハ……、ア…〉
少女の指先が女王の顎の端を這い、鱗も硬皮も柔々《やわやわ》と緩む。
幾色の絵筆を洗った水のように、クレヨンで殴り塗った子どもの絵みたいに、
ベタ塗りの如く濃い赤黒で、陽炎の如く曖昧で漫ろ。
固形物みたいな不定物質。
流体ですらなく、反応や現象に近い。
〈ふぅぅぅぅぅぅ………〉
耳らしき器官の横で、そよそよと息遣い。
ピクリ、ピクリと巨体が痙攣し、とくり、とくりと命を吐いて、
変わり果てたその骨肉は、ただ重力に負けて、デロデロと垂れ落ちる。
悪夢みたいな光景だ。
なのに、俺には、
〈ガ、アア、ア、オ、オッ、〉
プシュプシュと卵を無作為に排出するA型が、
ぶるぶると己を抱いて後ろ脚を内股に折る母体が、
〈オオウ、オウ、オウッ、オ、オぅ……!〉
良がっている、ように見えた。
悦んでいる、と分かって震えた。
〈ちゃんと、屈辱、感じられてますか?〉
「くやしい」、
「いらだたしい」、
「うらめしい」、
一言一句、静かに深く、
可憐な口で流し込む。
〈オ、アアアアァァァァァァ…ァ………〉
〈それとももう、嬉しいだけですか?〉
〈ア、ア、ア、ア、ア、あ、あ、あ、〉
〈木偶の坊な愚鈍では——〉
——「キモチイイ」しか、分かりませんか?
〈お、お、お、お、お、お、ぉ、ぉ、ぉ………〉
狂ったんだ。
滅びに屈服する快楽に、身を委ねたんだ。
〈………………………〉
やがてA型は、全身をヘドロに換えてしまった。
その成れ果ては、当然仔等へ向け零落する。
最後に産み落とされた卵からも、同じ泥沼が湧き溢れる。
小さき者共は免れる為、母から全力で離れようとし、見えぬ生地に阻まれる。
ヒラヒラと風に舞う首掛けが、頑丈な水槽と化していた。
満たすのは、火だ。それが違うなら、泥だ。
黒々と塗り埋める、不浄の燃焼。
地獄の釜で煮詰められる、亡者達の断末魔。いや、あれは嬌声なのか。
俺は見た。“終わり”へと殺到し、自ら進んで末路を辿った者達が、あの大勢の中に居た。
あれは、救いでもあったのだ。
これは浸され犯された者の、歓喜に咽び泣く遠吠えなのか。
単調な命に意識を芽生えさせ、生まれた事へ感謝させる、それくらいに暴力的な快感。
それが群団を蕩かし尽くして、床の染みへと変えてしまった。
嵐が去った後には、何一つ残っていなかった。
高純度魔力結晶体であるモンスターコアが、呑まれたか溶かされたか、跡形も無くて、
化かされた、そう言われた方が、納得いく。
莫大な命が、突拍子もなく、消失した。
それは、一つの法だった。
「彼女の素肌に触れてはいけない」。
戒めであり、絶対の掟。
論理も因果も無い。「そういうもの」なのだ。
神意とも言うべき法則は、生命の言い分など汲みやしない。
樹上の林檎は地に落ちて、
禁忌は破れば罰を呼ぶ。
それだけだ。
彼女は昇天を見届けた後、俺に向かって両手を伸ばす。手先は、首でも絞めるように、じわじわ丸められていく。
俺の体が動く。
違う、動けていない。
ずり落ちるみたいに彼女へと寄せられ、筋も臓も意思で動かせない。
じっと、見つめられる。
じぃっと、見つめ続ける。
ただ、じぃぃぃ、っと、俺の目を、覗き込む。
切なさと気恥ずかしさと後ろめたさを抱くも、吸い込まれるように、そこから目線を外せない。
彼女の顔貌を透かし見て、鼻梁が通った美しい造作だなんて、鑑賞に耽ってしまう。
彼女の両手が、触れる寸前で止まりながら、俺の頬を包み込む。
体温が伝わるくらいの隔たり、だけれど熱は奪われるだけ。
雪像のように、彼女は凍寒。
肌を撫で回す冷風に、ぞくぞくと背筋を感じさせる俺に、
〈少々痛みます。ご承知おき下さい〉
目と鼻の先で、佳人はそう言った。
射貫かれた。
そう思った。
網膜から頭の後ろまで、すーすーと風が通る感覚。それがあったから、思ったのだ。
前触れや音を伴わず、厚みや骨にもお構いなしで、
貫いたのだと。
彼女は、俺の右眼に触れた。
そこまでは理解できた。
そこまでは憶えていた。
そこから先は、
何一つも無い。
薄桃色の官能が、
俺の全身を塗り替えてしまった。