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沈黙

作者: 杜若表六

 ……かれらは老人だつた。併し老人につきもののあの饐えた、いはゆる生きものの加齢の匂ひは発しない。かれらからは歳月をへた家具のやうないい匂ひがした。かれらは仕事のあひだにいつも古いレコオドを聴いてゐる。くすんだ蓄音機からはかなしい、むかしの、殺戮のあとの哀歌がきこえる。かれらの仕事は殺戮だつた。それは剣や銃でするのではなく、ペンでするのだつた。かれらは山づみの紙にせつせと署名をした、なにものかの死刑執行の許可をあたへるために。かれらの意志はひとつだから、そこに会話はなかつた。かれらはひつきりなしに角ばつた字で名をいれ、印を捺した、さうやつてなにものかに引導をわたした。かれらはたしかに老ひていたが活き活きしてゐた、部屋には死の影すらない。レコオドからはヴィオラのきえいりさうな声が洩れてゐる。

「この男は」とひとりがいつた。「若くして太陽の運行に疑問をもち、日輪を憎悪して、たうたう空気銃でおてんたう様を撃ち落さうとしたらしい。まこと誉むべき愚かさだ」

「大したものだね」とほかのだれかがいつた。「けつして、自らのアイデアと行動の凡庸さに思ひいたらないで、生を濫費するその過剰さは、ただちに死に値ひする」

「さうだ。われわれの無慈悲さが、かれの愚かさをさうごんな高みにのぼらせるのだ」

 押し殺すやうなすすり泣きのやうな嗤いのなかで、弦楽の調べがにわかに弱まつた。音楽は終はらうとしてゐる。音はきえいり、死んで、かれらには無音の、沈黙の時間が期待された。

 かれらの仕事はもうすでに形骸となつてゐて、刑は署名と関係なくたんたんと執行される。かれらは古いからくりのやうに、かれら自体がひと群れの蟻のやうに、白い紙に黒い滲みを残してゐる。

 かれらの熱心さの背後には、夥しい屍で築かれた死の伽藍がぴかぴかかがやいて伸長してゐる幻がある。さういふ黒々した夢がかれらの統治する社会をささへており、かれらの支配する子らをやしなうてゐる。かれらは子らの幸福だけを願つてゐる。かれらは自分たちが不死であると知つてゐる。ちやうど、子である音楽はやがて死ぬけれども、それでも親であるレコオドは失はれないやうに。

 老人たちの手がはたと止まつた。だれかが窓のむかうで叫んだやうな気がした。犬だかなにか獣のやうな叫びだつた。

「音楽が終わつたわい」とひとりがいつた。

「さうか、それで外からうるさい声がしたのか」とだれかがこたへた。

「子らがじやれてゐるのだろう。五月蠅い」とほかのだれかがいつた。

「ぢや、もういちど」

 ひそかな嗤い。レコオドの針がはじめに戻された。にわかに部屋に音楽が蘇つた。

 殺戮をなげき、殺戮をかき消す、静かな哀歌がきこえる。……

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