ひろき海
洋成の過去。
洋成の生まれは顛武の身内だったことから、幼い頃より顛武一門に加入していた。
これは、彼が少年だった頃。
次の演目で着る予定だった羽織を、兄弟子が誤って破ってしまった。
「やべっ、羽織破れた!」
「嘘だろ!?うーわ、派手にやったなお前……」
「頭領には言うべきだろうけど、どうするよ……」
兄弟子達は精一杯対処を考えたが、破れた羽織を修復する答えは見つからなかった。
「まぁ、こうなったら崇影様に借りるしか……」
「……それしかないよな……」
そして、どんどん空気が悪くなるのが分かった。
「俺、崇影様苦手……」
「実は俺も……いっつも機嫌悪そうだし……」
崇影は、見かける度に仏頂面だった。
それに、若くして大家の家督を継いだのだ、責任感も我々が思う以上のものであろう。稽古場での彼はいつも殺気立つ様子で、自ら声を掛けに行く弟子など周りにいなかった。
「おい洋成、お前が崇影様のとこに行って来いよ」
こういう時はことごとく、自分の運の悪さを思い知るのだった。
「えぇっ!?そんな、兄者……!」
「当たり前だろ、お前が格下なんだから」
「うぅ……」
目の前の兄弟子たちに逆らえず、洋成は渋々と崇影の部屋へ向かった。
「と、頭領。失礼致します」
「……あぁ」
低い返事が返ってきた。
洋成は恐る恐る襖を開けた。崇影は机に向かい何かを書き込んでいる様子で、此方を見ることはない。
「あっあのっ、申し訳ありません。実は羽織を破ってしまいまして……、次の演目に1枚お借りすることは可能でしょうか……」
(絶対、怒られるよなぁ)
ただでさえ高額な衣装を破り、加えて由緒正しい嫡男の羽織を借りようとするなど、図々しいにも程がある。
むしろ罵言だけで済むならありがたいくらいで、乱暴も覚悟の上である。一門の中で崇影が喧嘩早いというのは有名であった。これも下っ端の務め、仕方ないとぎゅっと目を瞑った。
「分かった。好きなもの選んでいけ」
はて、なんと言ったか?
「……え?」
拍子抜けした。待ち構えていた言葉はどこにも見当たらない。
洋成がぽかんとしていると、崇影はようやく振り返り
「何だ?」
と尋ねた。
「えっ…… あっ、いえ!ありがとうございます!!失礼致しました!」
鬼の居ぬ間に何とやら、そそくさとその場を後にしようとしたが、「おい」と呼び止める声が響いた。
「はいっ!?」
なんとも間抜けな声に自分でびっくりした。
それに構わず崇影は、
「これ持っていけ。俺、甘いの苦手」
と紙に包まれた砂糖菓子を手渡してきた。
「……あ、ありがとう……ございます……」
洋成が訳も分からず受け取ると、崇影は再び机に向かって筆を走らせた。
「どうだった?やっぱり怒られた?」
部屋に戻った途端に兄弟子達は駆け寄り尋ねた。
「……いえ、その、何も言われずお貸しくださいました……」
「ほんとかよ!?お前凄いな!?」
「あ、いえ、私は何も……」
歓喜する兄弟子たちを横に、手に握っていた砂糖菓子を眺めた。
噂ばかりに耳を傾け、実際の人物像を履き違えていたのかもしれないと、気付いたのはこの日だった。