引いては満つ
汐彦の過去。
数年に一度、寒波が村を襲う。
雪の神が荒れるせいだという言い伝えがあり、その年は寒波を鎮めるために生贄を捧げる掟がある。
大事な大事な神への捧げ物は、村で一番美しい者が選ばれるのだった。
そしてある年、大寒波が訪れた。
生贄には、畏れ多くも私が選ばれた。
私は目も開けられない猛吹雪のなか外を歩かされ、祭壇へ上り、棺に身を収めると、人の手によって蓋がされた。
極寒に置かれ、身体の震えは止まらない。
……死の恐怖もあるのかもしれない。
己の身ひとつで村が救われるなら……
そう思った。
それしか考えないようにしていた。
真っ暗で、冷えきった暗闇では、時の流れは何十倍も遅く感じた。
そのせいで、自分が救うはずの村にも憎しみが湧いてくることに気づいてしまった。自分が本当は生きたいのだと知ってしまった。
こんなに色々考えてしまうなら……こんなに怖くて苦しいなら
いっそ殺して葬ってくれればよかったのに。
身も心も冷えていく。
すると、自分の浅い呼吸以外に、厚い棺に遮られながら人の声のようなものが耳に入った。
とうとう幻覚が現れでもしたか、外が何やら騒がしい気がする、など悠長に思っていると、
突然、ガタガタと棺の蓋が揺れ、理解が追いつく前に蓋が開けられ、真っ白な雪が吹き込んできた。
それと同時に、美しい黒髪と月のような瞳を持つ男が視界の中心にあった。
「もう大丈夫だ」
その男はがしりと私を抱きしめ、温めてくれているようだった。
緊張の糸が一気に切れたのか、私の記憶はそこまでしかない。
後から聞かされた話によると、寒波の発生は雪神の荒御魂ではなく、氷の下神が広範囲から寒さを集めて氷を作っていたことが原因だったらしい。
私の村はその寒波のちょうど通り道だったそうだ。
……しかし、やはり神の行いとなれば、人はこの先もこの寒波を耐え凌ぐしかないのではないか。
そう諦めていた矢先、その男が神に上奏すると言ったらしい。
人は神の下にある種族、そんなことできるわけがない、怒りを買いさらに被害が大きくなったらどうするつもりかと村人たちから猛反対を受けた。
ところが、男は聞く耳を持たず、神事を通して氷の下神に寒波を遠慮いただくよう申し上げた。
その神事の舞は、とてもとても美しいもので、神が上奏を受諾するのも頷けるものだったそうだ。
それ以来、村が寒波に見舞われることはなくなった。
私はというと、助け出してくれた人の元に弟子として迎え入れられた。
そこでは、“汐彦”という名を賜った。
海の汐のように、たとえ干いても満ちてほしい、
そう思いを込めたのだという。