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9話 法医術士・マリアージュの誕生1



 ヴァイカス王国の王宮は広大で、王の御座所である本殿を中心に8棟の宮殿、8000以上の部屋があり、5000人以上の官吏・兵士・侍女が働いている。

 中には騎士団が集う大兵舎や、治癒士が祈りを捧げるための礼拝堂、国家最重要機密扱いの王立魔道研究所などがある。またそれらの施設と比べるとややランクが下がる医術院は、王宮内ではなく王宮のすぐ近くの区画に診療所が与えられていた。

 王太子の意向でその医術院に最近、分院が追加されている。

 その名もズバリ――【メメーリヤ分院】である。


「ぎゃあああああーーーーっっ!!」

「ひいぃぃぃぃっ!」

 

 医術院本院で細い悲鳴が響き渡ったのは、ある快晴の午後のことだった。メメーリヤ分院唯一の医術士・マリアージュが提出した実験報告書に、誰もが目を疑う。


「お、畏れながらマリアージュ様、この報告書は一体……」

「見たとおりですわ。レギウス主任。『遺体と蛆虫類の相互関係の考察』――ここに蛆の産卵から孵化まで平均でどれくらいかかるのか、詳細に記録しておりますわ」


 多くの医術士が青ざめる中、マリアージュは平然と言ってのけた。

 直属の上司のレギウスなどは、貧血を通り越して今にも卒倒しそうだ。


「変人……」

「狂人……」

「悪魔の仕業……」


 公爵令嬢に面と向かって逆らえないのか、多くの医術士達は部屋の隅でひそひそと陰口を叩いている。これを地獄耳のマリアージュが聞き逃すはずがない。


(全くどいつもこいつも、向上心のこの字もありませんわね! 昆虫学は法医学を学ぶ上で基礎中の基礎ですわよ!)


 マリアージュは不甲斐ない医術士達に立腹するが、蛆虫の研究が異世界の住人に容易く受け入れられるわけでないことも熟知している。大きなため息をついて、素早く踵を返した。


「とにかく私は私でちゃんと仕事をしていること、報告書からお分かりになりますわよね? ルーク殿下にも、しかとお伝え下さいませ!」

「か、畏まりました……」


 上司に実験報告書を提出して、マリアージュは足早にメメーリヤ分院に戻っていった。

 彼女が立ち去った後はまるで嵐の後の静けさ。医術士達は口々に噂し始める。


「なんであの女、蛆虫の研究なんかしてるんだよ……」

「死体を診察する特別な医術士――とかエフィム様が言っていたけれど……」

「知の女神・メメーリヤ様から授かった未知の知識だって言うのは本当? 見栄を張りたい公爵令嬢の嘘なんじゃないの?」


 マリアージュの虚言はあっさり見破られ、大勢の者に気味悪がられていた。特に神経質な性格で有名なレギウスは、ここ一か月ほどで白髪の量が倍に増えたそうだ。


「ルーク殿下もエフィム様も一体何を考えていらっしゃるんだ……。間に挟まれる私の気持ちも考えてくれぇぇぇっ!」


 レギウスの空しい叫びは、お目当ての人物の耳に入ることもなく、まっすぐ青空に吸い込まれていった。




           ×   ×   ×




「あああああああっ! まったく腹が立つ! なんで公爵令嬢の私が国家公務員の真似事なんかしてるんですの!?」


 一方、マリアージュはマリアージュで己の処遇を嘆いていた。

 ここはメメーリヤ分院の第一執務室。

 ドミストリ公爵家から連れてきたメイド達は主の声の大きさに驚き、一様にビクビクしている。


「お茶! おかわり!」

「は、はい、マリアージュお嬢様……」


 ソファに座ったままティーカップを差し出せば、メイドの一人が震える手で紅茶を注ぐ。その波紋に浮かび上がるのは、あの憎たらしい男のドヤ顔だ。


『知の女神・メメーリヤ様の祝福を有効活用しない手はないだろう? 君もそう思わないかい? マリアージュ』


 今思い出しても忌々しい。

 ローザ殺害事件が起きてから半月後、突然宮廷に呼び出されたマリアージュを待っていたのは―――王太子・ルークの鶴の一声だった。

 『王太子勅命』という強制力のある命令だったこと、マリアージュの父・ドミストリ公爵の承諾も事前に得ていたことなどが大きく影響し、マリアージュは正式に王宮付き医術士に任命されてしまったのだ。


――“公爵令嬢の私が、なぜ働かなければなりませんの?”


 マリアージュが勅命を辞退することは、おそらく可能だったろう。

 公爵令嬢が行儀見習い以外で、王宮勤めになる(ためし)など聞いたことがない。高位の女性に労働を強いるなど、貴族社会ではあり得ぬことだからだ。


 しかしマリアージュはルークを恨みつつ、医術士の任命には大人しく従った。

 理由は『科学捜査や法医学の必要性』を強く感じたからである。


(私だってぬくぬくニート生活が送れるならそうしたいわ。けれどこの国の科学捜査や医学は発展途上。今のままだとこの前の私みたいに冤罪で苦しむ人が必ず出てくる……)


 わがままな公爵令嬢としての意識と、前世の法医学者としての使命感。

 二つを天秤にかけた時、わずかながら後者に軍配が上がった。

 故にマリアージュはヴァイカス王国の医術士筆記試験を受け合格した後(この辺りは前世の医学知識で乗り切った)、正式に医術士の仲間入りを果たした。


 さらにメメーリヤ分院に配属されて、マリアージュが最初に着手したのは自分の法医学の知識を裏付けするためのデータの検証・および蓄積だった。

 先ほど医術院本院に提出した実験報告書がいい例だ。現代日本での蛆の湧き方と異世界での蛆の湧き方、これに相違がないのか比べる必要があった。


 前回、ローザ殺人事件の時は現代の法医学の知識で判断してしまったが、魔法がまかり通る異世界では蛆虫の湧き方一つ取っても異なる可能性がある。もしそうならば先入観は捨て、異世界の法則に乗っ取って、法医学の常識を再構築しなければならないのだ。


(とは言え、幸い現代日本の常識はこちらでも通用しそうね。気温18度前後で観察した結果、蛆の卵の植え付けから孵化までが約一日。蛹になるまでが一週間から十日。さらに成虫に成長するまでが二~三週間……。【CODE:アイリス】が現代日本を基にしたゲームで助かった……)


 マリアージュは実験報告書の複写(コピー)をめくりながら、静かに紅茶を啜る。

 と、背後のメイド達がドン引きして、後ずさる気配を感じた。


(この子達もあと数日で、ここを辞めそうね……)


 マリアージュは肩を落とし、それはそれで仕方ないと諦めの境地になる。

 今まで社交と美容にしか興味のなかった高飛車な公爵令嬢が、突然畑違いの世界に飛び込んだのだ。それに付き合わされる羽目になった家臣達の動揺も、当然大きい。


(実験用の動物の死骸と、蛆虫の苗床となる木箱を用意しろと命じたら、さすがのドミストリ家の家令も青ざめてたわね……。メイドの何人かはマジ泣きしてたし……)


 マリアージュはここ一カ月ほどで辞めていった家臣を指折り数え……。

 二本の手で足りなくなった時点で、思考することをやめた。




 この世界で、マリアージュの真意を理解し、味方してくれる者など一人もいない。

 ……そう、医術士の道を受け入れ、選んでしまったあの瞬間から――



 マリアージュの孤独な戦いが始まったのだ。






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