第七話 昔日の光景
始めは四十人以上いたダルエニ率いる戦士団も、今、こうして戦場に残ったのはたった九人しかいない。しかもそのうちの一人は非戦闘員であり、主戦力となる団長本人と老戦士は負傷していた。
「だんちょ、これって天国への遠足かなにかですか?」
団長とそう体躯の変わらない女戦士が軽口を叩いた。背中にぶら下げる大槌はロラよりも重い。
「黙ってそのデカブツで魔女を叩き潰すことだけ考えろ」
「そうは言ってもさあ、死にに行くようなもんじゃん。まぁ、わたしは別に構わないんだけどね。戦うのが目的だし」
頭の後ろで腕を組み、女戦士は多くの仲間を奪った海を横目に見る。
「ふんっ、この場にいるのはお前さんやワシのような戦う以外脳のない者か、死に場所を探してる哀れ者くらいよ」
「じいちゃんはどっちもって感じ?」
「……」
「あ、あははは……ごめんって。ほら、逆にその歳であそこまで動けたんだから」
「おぬしという奴は…………」
「つまりは、ここにいる全員、自分含めて失うものが何もない奴らだということである」
片目を包帯で覆った戦士が言った。それを食い気味に女戦士が否定する。
「それは違くない?だってだんちょたちは……」
「愉快な無駄話はこれで終わりだ」
だんちょ様の声に全員が口を閉じた。見上げれば、エルの言った通り場違いに立派な構造物が我が物顔で建っており、まだ数十から百年は保ちそうな佇まいだった。
団長が振り返り全員の意思を目で確認し、両開きの扉を大きく開け放った。
三階建てで中央の奥に広いホールは天井まで吹き抜けている。その天井はほとんどが崩れ地面に粉々になって転がっていた。屋内はそのおかげで外より少し暗い程度だった。鉄の塊を担いでいた戦士が準備していた光石をそっぽに投げ捨てた。硬い音がホール全体を反響する。反応はない。
ホールから左右には階段が一組ずつと扉がいくつか並んでいるだけであり、ちょうど団長が踏みつぶした受付の残骸以外に目を引く物はない。その、奥に灯る赤い二つの光以外。
「来るぞ!エル、お前は――」
暗闇から突然いくつもの歪な足音が現れた。屋根のない場所まで迫ったところで足音の正体が分かる。
「っ!死体が少ないと思ったよ!」
女戦士が歯ぎしりをした。計十体に及ぶ魔女の奴隷の大群だ。見るだけで戦士たちの戦意を失墜させた例のグルーニィオリジナルの動く死体人形。凶暴性を剥き出しにし、気色の悪い血管の触手を伸ばして突進してくる。
「チッ!エル、離れるんじゃねえぞ」
「ええ、私が貴方様から離れることなどございません」
エルを背中に、団長は大鉈を構えた。
二体のウイブが団長に向かって触手を放つ。エルは団長のわずかな予備動作から次の動きを予測し、大きな背中に飛びついた。それと同時に団長はすれすれまで迫ってきていた触手を横にステップして躱し、半ばアンティークになりかけの、無駄に凝った螺鈿細工の地面が割れるほど強く蹴った。巨体が女一人背負ったまま宙を浮く。的外れな地面に突き刺さった触手の上に着地し、その上を駆ける。別の個体が団長に狙いを定めるが、包帯を巻いた隻眼の戦士が背後から曲刀で斬りつけそれを阻んだ。無駄に頑丈な触手を走り抜け、団長はあっという間に自身の間合いにまで迫った。感情を失った女の顔が団長を見上げる。
「ポリカ、あの世で会おう」
大鉈がアーチ状の顎ごと首を斬り裂いた。感傷に浸る間もなく、細長い腕を振り回すウイブからバックステップで距離を開け、触手を伸ばしてきたと同時に高く跳躍した。
エルが次の行動を察知し、さらに強く団長に抱きついた。恥を捨て両足を団長の腹の前で絡めて密着する。
両手で大鉈を高く振り上げ、空中で体を折り曲げ縦に回転し、大鉈をウイブの頭に振り落とす。仲間の顔をした肉人形は真っ二つに割れて地面に転がった。
エルがするりと地面に降り立ち、手帳とペンを取り出した。
「ギルベルト様、どうか安らかに」
祈りを捧げ、紙にペンを走らせる。エルの手帳には事細かに戦いの様や、一人一人の死に際が記されていた。そこに今、二人の戦士が眠りについたことと、ダルエニや隻眼の戦士の雄姿が書き足されていく。
エルのペンは止まらない。団長がエルの周りの安全を確保したことで、彼女は戦場で繰り広げられる乱流を物語として紡ぎあげてゆく。体の大きな女戦士が大槌で敵を叩き潰し、老戦士が八つ裂きにし、全員似たような顔の四人組の戦士が二人一組で各個撃破していく。エルはそれらを感嘆符や情景を交え、彼らの英雄譚として記す。
やがて最後の一体が地にひれ伏し、咀嚼音と紙の擦れる音以外が聞こえなくなった。戦いの余波で天井がさらに崩れたおかげで、ここの主の姿が闇の中にうっすらと浮かび上がっていた。
出血は止まり、傷がふさがっている。新しく腕が生えるなんてことがなかったことが救いだろうか。
「あいつ人喰うと回復でもすんの?傷ふさがってるよ」
「魔女ってのは何でもありか。くそったれめ」
ホールの最奥で人肉を貪っていたグルーニィが機械人形のごとく不自然な動きで団長たちの方に首を回した。筋肉か脂肪か定かではないが、死体の脇腹から飛び出た肉を喰らっていた。その肉を啜り飲み込み、仕留めた獲物を横取りされるまいと威嚇する狼のように、目線を離さず姿勢を低くして数歩下がる。魔女が何か囁いた。すると、さっきまで貪られていた死体が周りの死体を吸収し始めた。文化が文化を併せるように、彼らの体は一つになり、やがて区別がつかなくなる。
そうして出来上がったのは、顎が特徴の木偶の坊とは似つかないものだった。
黒とも灰とも言える体に赤い筋、先の鋭い円柱型の肉塊が空中に現れた。赤目に黒い瞳が一つ、大きなそれが額に収まっている。肉塊は先端を団長たちに向けた。浮いているように見えていたそれはよく見ると、蛇のように細長い体のあらゆる所から伸縮する手足を伸ばし、地面や壁、吹き抜けた二階の回廊をつかみ支えられていた。
「品のない化け物め」
化け物は、今にも崩れそうな壁や柱を伝いつつ、玩具たちへ一直線に動き出した。さながらつかまり立ちを覚えた赤子だ。そして、子どもの成長は早く、四肢、ではなく、十肢で進めるようになり、伸縮の長さを変えて上下左右軌道をずらすことを覚え、最後に走るという概念を学んだ。
「こ、こやつ!?今までの傀儡とは別物じゃ!」
「エル!お前は入り口まで下がってろ!」
戦力外のエルは団長の指示に従うしかない。縦横無尽に空中を駆ける化け物を注視する戦士たちから背を向け、エルは彼らの勝利を祈りながら小走りに外へと走っていった。
そのとき、両開きの扉の間に人影が現れた。その顔つきを確認した瞬間、エルは満足げに微笑み道を譲った。
真新しくちょうどいい大きさのマントコートは、首元から膝上まで覆う大きさだが、見た目より生地は薄く、その分軽い。全体が黒を基調に、襟や縁に金の刺繍が施され、袖やスカート状になっている部分から垣間見える裏地には紫紺の布地が併せられている。
魔女の外套は雨風を防ぐためのものではなく、日光を防ぐためのものであり、光を飲み込むその外套は良く闇に溶け込む。
新調したブーツのつま先を鳴らし、レザーの手袋を引っ張る。
視線の先では、体のあらゆるところから自由に手足を生やして伸ばす化け物が、水を得た魚の如く宙を泳いでいる。その速度からしてカジキマグロとでも例えようか、巨体が動くたびに風を切る音が廃墟の中を化け物と並走していた。鋭い鼻先は容易く人も物も貫くだろう。
遠巻きであるというのもあるが、装備の微細な調整をしながらもロラの眼はその動きを完璧に追い、更には先を予測していた。そして、その先にいる赤髪の魔女にも目がいく。途端に目つきを鋭くする。
コツコツコツとブーツがリズムを奏で、その拍子は段々と速く強くなる。
遊泳に満足したウイブが途端に攻め気を出し、体表にイボのような膨らみをいくつも作った。イボはある程度の大きさまで膨らむと形を変え、鋭い棘の形を成していった。そして、破裂音とともにその棘が一斉に放たれる。
団長たちは弾くなり避けるなりで凌いだ。しかし、内の一つが団長の頭上を通り抜けた。脳裏に浮かぶのはエルの姿だ。眼は驚くほどしっかり弾道を追えている。だのに肝心の体は反応についていけていなかった。
団長の眼球に映るエルへの凶弾は、戦士たちの間を抜け、そして、突然現れた漆黒の霧に当たると、まるで解けるように弾け散った。
「団長!」
ほんのわずかなよそ見から団長が視線を戻せば、すでに次弾が発射されていた。さらにウイブの体表ではその次の弾が生成されているところだった。
団長は受け止めるために構える。そして微量な魔法の力で強化された肉の弾をなんとか防いだ。
その直後、鮮やかな黄金が団長たちの間を抜けた。
黄金は黒を纏う鞭を振るい、的確に自分とエルの分の弾を消し飛ばした。
次の弾が来る。これ以上魔法の力を受けた弾を防げば武器が保たないと判断した団長は避ける判断を下した。
一方で、誰よりも前に出ていたロラは、目と鼻の先にあった弾を刺剣に変形させたツヴァイの剣身に当て、弾の軌道をわずかに逸らさせた。遥か後方に向けられた弾を警戒したが、それは接近してきた脅威であるロラに標的を変えていた。この時、全ての棘の弾が的を一人に絞っていた。
「……」
鞭が二回、左右に大きく薙いだ。黒い霧と肉塊が舞う。
一拍置いて、再び鞭が薙いだ。霧と共に赤い炎が鞭の軌跡を追い、それはロラに向けて伸びていた手足を焼いた。たまらず化け物は体勢を崩す。
怯んで動きを止めたウイブの頭目がけてロラは跳躍し、鞭の先に巻いていた炎響を振り投げた。
炎響が単眼の上の脳天(と思われる所)に浅く刺さり、さらに、瞬時に刺剣に変えると、瞬く間にその周囲を穴だらけにした。最後に刺さった炎響の柄の底に着地すると、それを深く刺さるように踏みつけつつ後方へ飛んだ。ついでに炎響に巻き付けた鞭を引き、内側から爆発させる。
吹き飛んできた小刀をキャッチしたロラは一つ息を吐いた。荒れた息を整える意半分、苛立ち半分だ。
「しぶといなぁ」
半眼にして睨む先には、爆発によって体の一部を消し飛ばされながらも体勢を立て直す化け物の姿があった。体表の肉が焼け落ち、中の骨格が露出している。それでもなお、残った八肢を使い再び宙を泳ごうと体を浮かせた。
「畳み掛けろ!」
そう叫んで無防備なウイブに斬りかかった団長を皮切りに、戦士たちが仕掛ける。
まず、四人組の一人が指の間一つ一つに球型の爆弾を挟み、狂喜しながらそれらを放り投げた。硝煙が晴れきる前にもう一人が鉄製の拳を振りかぶりながら突っ込んで行ったと思えば、爆音の直後、後ろに吹っ飛んでいった。そして残る二人は柱の陰でせっせこせっせこと鉄塊を広げ何やら組み立てている。
次に動いたのは老戦士と隻眼の戦士だった。度重なる爆撃を喰らってなお、宙空に這い上がろうとするウイブの細い手足を瞬く間に切り落としていった。時にそれらを踏み台にして吹き抜けの天井近くまで飛び上がり、そして全ての手足を切り離したのだった。
「……いない…………」
ロラは独り、地に落ちゆくウイブの、その後ろを見ていた。目を凝らし、柱やガラクタの陰と視線を滑らせていく。しかし、轟音を伴いながら地に落ちた化け物にそれを遮られてしまった。
「っ!」
「「ファイアーー!!」」
突然、後方から飛んできた砲弾がロラの頭上を掠めていった。耳をつんざく音に、もう手遅れだと分かっていても耳を塞ぎ、飛んできた方を睨む。そこでは小型の大砲の傍で狂喜する戦士が二人、始めの二人といい、顔の似たこの四人は敵にも周りにも遠慮がないようだ。
ロラは苛立たしげに息を吐いた。なによりも、顎の下でか細い悲鳴が聞こえたからだ。
顔を前に向け、憤りの矛先をこの面倒を起こしている相手へと差し替えた。
「テト、一気に行くよ!」
「っ……ああ、耐えてみせるさ!」
奥歯を最大限噛み締め、五秒間の猫の加護を受けたロラの体は、一蹴りでウイブの眼前まで跳んだ。体を捻らせ、後ろ蹴りをお見舞いする。損傷の酷い骨格がそれにより砕けた。
大きく仰け反ったその腹に向かって、大柄の二人が得物を振りかぶって突っ込んでいく。
「だんちょーーー!!」
「吹っ飛びやがれ!!!」
大鉈と大槌の特大の振りが、ウイブの腹を抉り、その巨体を吹き飛ばした。肉を焼かれ、骨格を粉々に砕かれたそれは中身を撒き散らしながら対岸の壁に激突し、さらにそれを破壊して、そこでやっと止まった。もう、その化け物はピクリとも動かない。
「ふぅ……テト、大丈夫?」
「問題ない。ただ、今ので霊猫が一匹消えかけている。猫の足取りはお前の体を頑丈にするわけではないから、体を張った攻撃をする際は加減に気をつけるんだ」
魔法によって筋肉に強化を得たとしても、体が強化された自分の力に耐えられるかは別だった。
「うん、わかったよ」
ロラはそれをよく実感した。霊猫が肩代わりしてくれたおかげでそこまでではないが、蹴りを入れた右脚にじんわりと疼痛がしていた。その詳細な在処を確かめようとしていたとき、爆弾魔の一人が叫んだ。
「魔女だ!アイツ逃げてるぞ!」
指さす先には今さっき大穴が開いた壁とその瓦礫に埋もれるウイブの死骸、そして、そこから奥へと真っ直ぐ伸びるメインストリートを走るグルーニィの姿があった。彼女は尻尾を巻いて逃げていたのだ。
ロラ含めて戦士たちも外へ飛び出していった。
「三手に分かれるぞ!奴が魔法を撃つ素振りを見せたらすぐに逃げろ。じじい!仕留めんのはあんただ、いけるな」
「任された。今度こそ、奴の首を掻き切ってやろう」
四人兄弟、団長と女戦士にエルとロラ、そして老戦士と隻眼の戦士の三つに別れようと、走りながらそう目で示し合わせた瞬間、独り言のように猫が口を開いた。
「この……この霧はいつから…………」
その場の誰もが、ついテトを見た。その眼は焦点が合っておらず、受け入れ難い光景から目を逸らそうと震えている。
それもそのはずだった。
極々薄いが、赤い靄のようなものが辺り一帯を覆っていた。元々薄暗かったのもあるが、よく目を凝らさなければ認識するのは不可能なほど薄かった。塵や砂煙の一粒よりも細かな血の霧、されど、誰もが己の窮地を察した。
ロラは脳の片隅に思い出す、自分がテトに語ったグルーニィの魔法を。彼女は、どれだけわずかでも、自分の血を操ることができるのだということを。
「メイ!ジュン!」
「む、無理ですよ団長!小型といえど大砲はそうポンポン撃てませんよ!それにあんな動かれちゃ」
団長は四人がかりで鉄の塊を担いで走る彼らに希望を見出すが、それは一つ返事で潰えてしまう。
「クソッ!奴の魔法が発動しないのをお祈りしながら追いつけってことか!」
そうは言っても距離があり、グルーニィは女性にしては背が高く足も長く、その分走るのも速かった。徐々に距離を詰められてはいても、走り始めのハンデが大きすぎた。
「あいつ、魔女のくせに無駄に体力持ちやがって……」
グルーニィもこちらに気づいたようで、何度か振り返っている。その口は魔法を詠唱しているようで、頻りに動いていた。
(この距離じゃわたしの魔法も届かないし、テトの力はまだ使えない。どうする?詠唱はきっともう……)
ロラが睨んだ瞬間、グルーニィが立ち止まりこちらを向いた。両腕を広げ、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「死ね!」
隻眼の戦士が罵声を叫びながらククリナイフを投げた。どう考えても届かないというのに。
「嗚呼、主よ!」
遅れてきたエルが天を見上げ、見えない何かに希う。無意味なことだ。
しかし、その直後、天上から燦々とした天の陽光が赤髪の魔女を照らした。まるでその願いに応えるが如く、雲の切れ間から、地上と地下を隔てる地面の裂け目から、生命の光が刺し貫いたのだった。
グルーニィは帽子をかぶっておらず、服も外套でなく、ドレスで肌を多少露出していたのでその影響をもろに受けた。
「ギャアア゛!?」
悲鳴を上げ身を縮め、詠唱を中断したグルーニィが転げまわる。この間に四人兄弟は大砲の組み立てを始め、団長たちは一気に距離を詰めていく。たがグルーニィもただ転がるだけではなく、その惨めな動きで日陰へと逃れていった。そして、その口は詠唱を再開する。
全員が血相を変えた。
「ロラ!魔法の再使用は可能だ!…………ロラ?」
「大砲!」
「あと七秒!」
「脆弱デ」
「霧が……輝いて……!」
「アデリア、ワシを投げろ!」
「アーノルドじゃないんだから!無理だよ!」
「軟弱デ」
「兄貴火薬は!?」
「しまった!さっきんとこに置いてきちまった!」
「ロラ息を整えるんだ」
「愚鈍デ」
「何やってんだよ兄ちゃん!?」
「クソッ!ここに銃さえありゃあ!」
「オレに歯向かう野良犬達ヨ」
「っ!全員……遠すぎる。これじゃあ本当にロラしか救えない」
「主よ!どうか…………どうか…………」
地面にへたり込んでいたグルーニィがのそのそと立ち上がった。強大な魔法の力に耐えきれなくなった血管が破裂し、血の涙を流させる。
「オレに跪イテ、そして、死――」
「シネェェェェェェェェェェェ!!!!!!」
突如として、横からグルーニィの首を折れた直剣が貫いた。
「カァァ、アガァ゛!?」
驚き見開かれたグルーニィの眼球は、自分の真横にある真っ暗な路地裏と、そこから飛び出してきた少年を映していた。頭部の右半分に酷い火傷を負い、焦げて黒く固まった血が全身に張り付いている。それのほとんどは他人のものであり、彼を生かした者のものだった。
少年は持ち手を捻る。首を横から貫いていた剣は刃を傾け、前方に肉を裂いていき喉に致命傷を与える。グルーニィの操る血液の防壁は死に瀕した少年の力と拮抗し、それ以上の刃の進行を防いだ。しかし喉に流れ込んだ自らの血で溺れかけ、ゴポゴポと赤い泡を口の端に作る。
「団長ぉぉぉ!!構わず撃ってくれぇぇ!!!」
少年クレマンスは叫んだ。彼の体はなぜ生きているのかと疑問に思うほどボロボロだった。二班の狙撃手に庇われたことで、即死から致命傷に済んだのだった。
「っ……!」
団長の目が数瞬泳いだ。ごくわずかに迷い、そして決断する。
「メイ!」
「撃てます!」
「やれ!」
「—ファイアァァッ!」
十三個に及ぶ魔石が散弾として砲口から吐き出される。エルの隣を通り過ぎ、跪いて肩で息をするロラの頭上を飛び越え、戦士たちの間をすり抜ける。
着弾を目の前にして、白目を剥きかけていたグルーニィの眼球が焦点を合わせた。彼女の返り血を全身に浴びていた少年を瞬時に絶命させ、己はひらりと身を躱した。十三人の魔女の亡骸はグルーニィを通り過ぎ、少し離れた地面を抉り建物をいくつも倒壊させた。
戦争の英雄は、まだ、死なない。
勇敢な少年の命を犠牲にした千載一遇のチャンスを逃し、そして立ち上がる真の英雄を前に、ついに団長は誰にも聞こえない小さな声で「ここまでか」と、弱音を吐いた。しかし周りの戦士はそれ以上の弱音をそれ以上の声で口にし、感情を露わにし、それでも誰も、走る脚を止めなかった。
あれもこれも、なにをしても、彼女は死なない。死なない…………が、それはたしかに傷を負い、今回ばかりはかなり効いている。なにせ生物としても、魔女としても生命線である喉を傷つけられたのだ。首に刺さった直剣を引き抜き、血反吐を吐き捨てたグルーニィが魔法を唱えようとして激痛に顔をしかめ喉を抑える。血の霧の魔法は完全に中断され、霧自体が霧散していた。
多くの屍を足蹴に逃げることなど戦士らにはできず、そもそもここに降りてきた者たちにその気は一寸もなかった。攻めるのみだ。そしてダメージが蓄積して勝機が見えたのなら、攻めて攻めて攻めるのみだ。
「よわ……イ、ぐゼに…………。オ゛レよりも……ヨワイグぜに…………!」
先頭の老戦士が日向に差し掛かるところで血の壁がいくつも立ち上がり行く手を阻んだ。団長と女戦士が膂力任せにそれを打ち砕いていく。
「オレハ、強イ……オレより……強いノは……セレネじか…………認めない!――――飢えヲ知っテいるカ?チの…………ウエヲ知ってイるか?強者へノ飢エをシッているか?」
血の魔女が囁き、その声は、こもる感情はしだいに大きくなる。
「あいつ……いったい何を」
猫の耳はその囁き声をかろうじて拾っていた。団長たちからずいぶん距離を離されて立ち往生していたテトは、その要因を見上げた。
「ロラ、呼吸は落ち着いたか?」
ロラは自分の体力の貧弱さを忘れて盛大に動き回った結果、全滅の危機に瀕した瞬間も、こうして現れたチャンスも、必死に呼吸するので精一杯の、一人だけ戦う相手が違うマヌケになってしまっていた。
「ハァ……ハァ…………っ、もう少し……待って……」
これでも落ち着いてきたほうである、呼吸さえ怪しかったのだから。
「ロラ、そのまま復帰することに専念しつつ分かれば教えてくれ。グルーニィが何か言っている。だが、魔法とは違うんだ」
話しながら、テトの耳は血の魔女の声を拾い続ける。
「腹ヲ空かせタノラ……イヌ、こぼレる血を……抱ク凡夫、嗚呼…………目障りダ」
瀕死の魔女は肘までしかない右腕を掲げ、左手を少年の亡骸に添える。
「オレを…………満たすコトのできナい矮小なモノたち。引き裂かレ、貪ラレルだけの弱者。スベテ…………すべて、引きサき!踏みツブし!ムさぼり喰らッテやる!」
エルが団長の方へ走って行く。止めるべきかと口を開きかけるが、テトは全身の毛が逆立つ嫌な気配の裏付けをロラに求めた。
「何か…………意味ありげな言葉を紡いでいるんだ」
「ことば?」
「ああ。恨み?それともただの狂言か?分からない、ただ、強い感情のこもった…………そう、まるで呪詛だ」
「じゅそ……呪詛って…………。あっ!」
ロラの大きな声にテトが驚いて尻尾の毛を太くする。
「な、何か分かったのか」
「呪詛詠唱だ」
「じゅそえいしょう?」
「すごくつよい魔法!早く止めないと」
そう言うがロラの体はまだ小休止を必要とし、焦る彼女の意思に反して動こうとしなかった。テトもまた、それを止めた。
「ダメだ」
「なっ……なんで…………!」
「もう…………終わる」
テトはロラの肩に飛び乗った。耳をそばだて、全身の毛を逆立てて警戒している。
「弱者ドも、コノ飢えヲ……知ってイルカ?――――次ハ、お前たちの番ダ」
赤く熟した瞳が大きく見開かれる。
「飢えろ」
どこからともなく、醜く、おどろおどろしい音が鳴り響く。それは地上から、地下のスラム街から、背後の役場と血の海から生じた。
最後の血の壁が破壊され、老戦士が破片を浴びるのも構わずに飛び込んだ。破片に遮られた視界が開けると、目の前に高く、地上よりもさらに高く立ち昇る血の滝があった。それは、血の魔女に致命傷を与えた少年の口から伸びている。少年の亡骸は血の魔女に向かって膝立ちになり、両手を掲げ、その口から自身の血と、声にならない声をあげていた。その仕草もその不気味な声も、まるで自身を殺した魔女を称えるような、そんなように見える。
老戦士は目を見開くが、決して勢いは殺さなかった。もう目の前なのだ、次こそ、と。しかし、襟首をつかまれ後ろに引っ張られた。振り返り、強烈な感情を団長に向ける間もなく、雨が降り始めた。
雨はグルーニィを囲むように降り始め、瞬く間に全方位に広がっていく。雨に打たれた少年の亡骸はその衝撃で体を暴れさせ、原形を無くしていく。
「やっっばあぁぁぁ!!」
「馬鹿野郎屋内に入るな!!!!」
団長が言い終わった直後、屋根のある建物に避難した女戦士の体を雨が貫いた。動きを止めた大きな体を長槍の雨が弄び踊らさせる。出来上がったばかりの亡骸は、雨に打たれながら少年と同じように血の魔女を称え、己の血を献上し始めた。
グルーニィが殺した者たちの血は彼女を称える賛歌と共に都市の上空へ立ち昇り、長槍となって降り注ぐ。血の雨は地上の街を破壊し、地面を貫き、地下のスラムに突き刺さる。突き刺さった雨は形状を崩し、上空に還り、そしてまた降り注ぐ。犠牲者が増えればその分雨量は多くなる。この雨は、枯れることを知らない。
「クソッ!」
団長たちは地上を見上げ、必死に降り注ぐ雨を避けていた。じりじりとグルーニィから距離を離されてしまっているが、打開策が浮かばないようだ。一度弾こうとした大鉈には穴が開き、かすめた左肩には深い傷がついている。
「ダルエニ様!」
すぐ後ろで聞きなれた声が聞こえ、団長は一瞬目をやる。上着の端を雨に貫かれて身動きが取れないエルがいた。血の壁に苦戦している間に走ってきたようで、ずいぶん近くまで来ていたようだ。
団長は得物を振りかぶり、斜め上にフルスイングした。突き刺さっていた雨とエルの頭上に振ってきていた雨を同時に粉砕し、武器を投げ捨てて代わりに無力な吟遊者を抱きかかえた。大鉈は今ので完全に砕け使い物にならなくなってしまったのだ。
「ハァ…………フゥ…………」
大雨の中、やっとロラは立ち上がった。彼女の周囲では建物も大砲も見境なく串刺しにされ原形を無くしていく。動かない彼女がそうならないのは、死に物狂いで迎撃してくれている猫のおかげだ。もう何度か弱音を吐いており、そろそろ恨み言に代わりそうだ。
「ロラ!この調子だと長くは持たないぞ!」
「ねぇ、グルーニィの様子分かる?」
「っ……、なにか……喋っている?」
「やっぱり。たぶん、この魔法は詠唱し続けないといけないのかも」
「どうする気だ」
「そりゃあ――」
ロラは首の後ろに手を伸ばした。楕円のそれを摘み上げる。
「テト、もうしばらく上をお願いできる?」
テトは全てを察し、迎撃を継続しながら高く飛び上がった。
「それしかないんだろう。やってくれ」
摘まんだそれを空気を含ませるように素早く振り、魔女の帽子が出来上がった。魔女はそれを目深に被った。目線ぎりぎりまで深く。テトがその上に着地し、ロラを雨から守る。
血で汚れた黒いブーツに灰のズボン、レザーの手袋とマントコート、そして魔女の三角帽子に杖。やっと、ロラは魔女としての装いを整えた。刺剣を握りしめて最後の深呼吸をする。
「ロラ、先に言っておく。私は十中八九途中で気を失うだろう。だが私のことは気にするな。私の魔法を酷使しろ。そのかわり魔女を倒し、必ず生きて帰るんだ」
「わかった、テトの頼みなら。――――準備はいい?振り落とされないでね」
「ああ、頼んだぞ」
ロラは歩き出した。逃げ惑う爆弾魔兄弟を通り越し、歩幅を広げる。隻眼の戦士と老戦士を過ぎて小走りになり、ペンを走らせるエルとそれを抱えつつ勝機を見出そうと忙しなく視線を動かす団長を通り過ぎたところで走り出す。地上から降る雨に瓦礫に、そして陽光。それを前にロラはさらに速度を上げた。魔女にとってはおせっかいな太陽の下を走り抜ける。
「ウエろ…………称えろ…………。終わらヌ飢餓と――――っ!」
刺突はグルーニィが飛びのいたことで躱された。続けざまに変形し鞭を振るうと血の魔法で防がれた。構わずロラは鞭を振るい続ける。黒い霧を纏った鞭は次々と生成される壁や槍を焼き消し、じりじりとグルーニィを後退させる。
そのとき、鞭が槍に弾かれた。今までと違う、しっかりと形作られた物だ。ロラはとりあえず一仕事終えたと鼻を鳴らした。
「雨が止んだね」
「オ、オマ……エェェェ!!」
グルーニィは身を守るために詠唱を中断せざるを得なかった。それによって止まぬ雨が止んだのだった。
「血の槍!」
血混じりの咳を吐きながらグルーニィは応戦の姿勢を見せた。ロラは心の中で舌打ちする。
(逃げ腰でいてくれたら早く終わるのに……!)
「血の蛇!」
グルーニィの足元の血だまりから五匹の血の蛇が現れ、ロラよりも太い胴体をしならせ強靭さを活かした攻撃を仕掛ける。そのうちの一体に鞭を振るうがこれまでと違い霧に触れてもすぐには焼ききれず、瞬殺できない。
(追い詰められて魔法が強くなってる、しぶといなぁ)
一体は霧によって傷ついているが他の蛇は健在だ。
(でも、当たらなければ大丈夫)
奥歯を噛み地を蹴る。ロラの周囲を囲むように展開していた蛇の突進を速さで躱し、グルーニィの正面に躍り出る。背後からくる大口を開けた蛇を避け、左右から挟み撃ちしてきた蛇を飛んで躱し、正面から来た蛇を刺剣でいなした。ロラは足元に影を見た。一瞬血の気が引く。
「猫の殴打!」
ロラには頼もしい猫様が憑いていた。頭上で蛇が盛大に砕け散る。
真っ白になりかけた気を引き締めなおして地を踏む。
「血の渦!」
新たな魔法、ロラの周りが真っ赤に染まった。血液の濁流がロラを中心に渦を巻き、前も後ろも行く手を阻んだ。
「ルド・ルル」
ただでさえ広くない渦の内部に、渦の壁から内側に向かって槍が生えた。さらに追いついてきた蛇が渦の外から噛みつこうと攻撃してくる。それらは渦も槍も関係なくすり抜けることができるようで、とてもしのぎ切れそうにない。そもそも渦は狭まってきており、初めから時間はなかった。
(魔法は…………だめ、今じゃない。確実なときじゃないと)
額に汗がにじむ。
「ロラ……上だ!」
辛そうなテトの声に、帽子を摘まみ上げて見上げると、確かにそこには高い天井が見えた。渦はそこまで高くはないようだ。
ロラは鞭の先を硬い地に突き立てとぐろを巻かせた。そしてグリップをぎりぎりまで地に近づけ刺剣に変形させる。一度やった、ツヴァイをバネとして利用し飛び上がる使い方だった。本来の用途とはかけ離れ、短期的な度重なる酷使によりツヴァイが悲鳴を上げる。パキッという音まで鳴らした。それでも、武器は主に従順に、限界が来るまでその身を扱わせる。
ロラは高く飛んだ。渦の頂上付近まで飛び、しかし届かない。
「霧の力を最大限に高める!やれ!!」
鞭に切り替え炎響を巻き付ける。体を丸め、ロラは縦に回転する。一層濃くなった黒い霧と炎の赤の車輪が血の赤を焼き裂き、ついに地面に到達したとき、血の渦を消し去った。余燼が残る中、背後から四匹の蛇が牙をむく。振り向くように大きく一回転薙ぐ、霧と炎が弘を描く。蛇たちは無形の血に還った。
限界の見えてきた血の魔女は、魔女の帽子を被った女が目の前に降り立ったことは認識できても、それ以外のことはできなかった。
(殺れる!)
黄金の瞳に血が混じる。刺剣の先端の魔石がいきいきと輝いた。
「望郷の光!」
屈曲する光線が剣先から放たれ、それは棒立ちするグルーニィの胸を貫いた。穴の開いたドレスに血が滲み広がってゆく。
形成途中だった槍や蛇が重力に負けて形を失い、血の魔女の周りに崩れ落ちた。
「はぁ……やっと……」
胸を貫かれたグルーニィは脱力し今にも倒れようとしていた。動かない彼女から視線を外そうとし、ふと足を止める。
「なんで……消えない……」
魔女は死ねば灰となって消える摂理だ。しかしこの魔女はふらふらと揺れるばかりで消える気配がない。
(なんで!?心臓を確実にやったはず……どうして……)
酷く困惑しつつもロラは得物を握り直した。
(そうだ……このヒトたしか、血で心臓の位置をずらし――)
「速い弾」
棺桶に片足を入れたグルーニィの放った魔法は完全にロラの不意をついた。刺剣のガードをすり抜け脇腹に直撃し、回転しながら半壊した建物の壁に打ちつけられた。
「あっ……あ゛がっっ!!」
一瞬飛んだ意識と視界を取り戻した瞬間、目に映るすべてが蛇の頭だった。数十匹の血の蛇が無防備なロラを不気味な双眸に映していた。そして、同時に裂けた口を開く。
「…………」
指が震えた。武器を握る指が、腕が震えた。脚が震えた。生きるための脚が、腰が震えた。鋭い蛇たちの息で窒息しそうになる。
蛇たちが体をしならせ、飛び掛かった。
絶句して硬直するロラの周りにありえない量の血飛沫が飛び散る。飛沫は水滴となり、滝となる。赤い滝を流す壁は、へたり込むロラの周りだけ灰色のままだった。
「ロラ…………ロラ!!」
テトの呼びかけにハッと意識が鮮明に蘇った。心臓が驚いているのをありありと感じる。
蛇はいない。代わりに真っ赤になった地面と壁、そして息も絶え絶えのテトがいる。
「ロラ!私はお前に色々と回りくどいことを言ってきたが、今は一度忘れてくれ。そしてとにかく今から言うことを聞いてくれ。――――生きて帰るんだ。魔女を倒し、戦士たちを助け、私の……魔女としての私の前に返ってくるんだ。私には…………お前が必要だ。私の体力など考えずに私の魔法を使い、欲や感情を解放して……生きるために暴れろ。いいな…………これは…………命令…………だ……………………」
鼻先をロラの鼻に押し付け、まくし立てるようにそこまで言ったテトは、眠るように意識を失った。
「…………」
膝の上で動かなくなった半透明の猫を優しく抱き上げる。
(あなたは…………そんなにわたしのことを……………………)
見開いた双眼に映る霊猫越しにテトを見る。彼女を抱きしめて、髪に顔を埋めて、匂いを嗅いで……………………ロラは笑った。
「テト…………わたしのたいせつ…………わたしの……………………トクベツ」
脱力したテトを一番安全な胸の間に入れる。何か、吹っ切れたような表情をロラはした。
「あなたの命令なら、いいよ。よろこんで」
吹っ飛んだ拍子に落ちた帽子を拾い上げ、今度は少し浅く被る。震えて力の入らなかった腕に血管が浮かぶ。地を踏むのを拒んだ足が石畳を割る。
「グルーニィ、わたしのたいせつだったひと。あなたはもういらない、テトとわたしの邪魔になるから。だからもう、これでいいかげん終わりにしよ」
ロラは空っぽな背中に向かってそう宣戦布告をした。
「セレネ……セレネ……」
虚ろな表情のグルーニィはトボトボと、役場の方へ歩き出した。その方向では戦士たちが血の大蛇と戦っていた。戦っているというより、実際は追いかけっこをしているというのが近いかもしれない。武器を持たない団長や爆弾魔を追いかける大蛇と、それを追いかける隻眼の戦士や老戦士の。
戦士たちに見向きもせず、グルーニィは走ってきた道を引き返していく。
「セレネ……オレ……オレ…………は、オレは、セレネとの約束、破るよ……。ここを出て……会いに……行くから」
その口調は次第にハッキリとしていった。悟りを開いたようにも見える。砕け、揺らぐ意識の中の、根底にある変わらない意思に突き動かされるような。
「胸が……痛い。頭が痛い。オレは…………ナニを…………」
誰に目を向けるでもなく、つい先ほどまでの恐ろしさはどこに消えたのか、逃げるような足取りでその場をあとにしようとしている。その背中を狙う者が一人、ガラ空きの背中に向けて魔法を放つ。数百年に及ぶ歴戦の魔女はその光線を振り返りもせずに相殺してみせた。
血の魔女が体の向きを変えた。血の魔女と金髪の魔女が向かい合う。陽の光が傍まで差し込んでいるからだろうか、グルーニィの眼にはわずかに光がある。
「オマエはなぜ、セレネと同じ顔をしている」
「ノスィト」
有無も言わさず魔法を唱える。相手もすぐさまそれに応じた。光線は滑らかな血の障壁を貫通できず、表面の水分を蒸発させた音だけが空虚に響いた。
(わたしの魔法、弱い。きっと記憶と一緒で何かが足りないんだ。…………記憶……?)
ロラはふと思い出した。今朝の夢、記憶とも考えられるあのセレネ目線で見た出来事を。
「アア、頭がイタイ。セレネ、どうしてオレをここに閉じ込めたんだ……」
「時間がない」そう呟いてグルーニィはまた、重症の体を引きずるように歩き出そうとする。その肩を、一線の血が貫いた。
小さく悲鳴を上げてグルーニィは振り返るが、そこには依然として自らの血の障壁が聳え立っていた。訝しげな表情を浮かべていると、また、一線の血が今度は頭を狙って飛んできた。グルーニィはそれを難なく避けるが、表情は酷く強張っていた。
グルーニィは血の障壁を崩した。ボタボタと音を立てて障壁を形成していたものがその場に落ちていく、その先で、陽の光に混じり黄金の輝きが瞬く。
「ノスィト」
「ベレット」
光線と黒い魔法の弾がぶつかり合い、光線は残像を残して消え、一方の弾は軌道を変えて遥か彼方に飛んで行った。
間髪入れず、魔法が唱えられる。
「血の槍」
「ッ――!?ルド・ルル!」
細く小枝のような赤い槍と、太く実物大の槍が空中で衝突する。しかし、二本はまるで、互いが存在しないかの如く互いをすり抜け合い、そのまま軌道を変えることも消滅することもなかった。
グルーニィは小枝を悪魔の血を纏った腕で払い除け、ロラは霧を纏った得物で消し飛ばした。狩人の鉄槌の効力は術者が意識を失ってもなお、最大限を維持している。
ロラは満足げにふふっ、と笑った。肩から指先にかけて流れ伝う血を掌に転がし遊ぶ。掌の中でそれは形を変え、槍や蛇と変化する。
「あなたの魔法、簡単だね」
笠の作る影の下で紅色に変色した瞳が妖艶に揺れる。
今朝見た記憶、グルーニィが自身の魔法を伝授する記憶。過去のセレネの目を通し、ロラはそれをモノにした。
「この魔法への理解はまだできてないから、さすがにあなたのようにはできないけどね」
グルーニィはただただあり得ないと驚愕し、恐怖していた。一度開きかけた口を閉じ、再度言葉を発するために開く。
「なぜ……なんで!なんでオマエがオレの魔法を!!!セレネにしか教えてないのに!!オマエは…………違う!違うッ!!」
グルーニィは髪をかき乱して苦し気に籠った声を傷ついた喉の奥から絞り出す。ロラはそんなグルーニィを新月のような、なんの明かりもない眼差しで見つめていた。肩からの出血は止まらない。ロラは指先を動かすなどして視線を逸らさずに、血の伝う左腕の感覚を確かめた。
(…………まだ、いける。でも早めに)
グルーニィが動く。二人は同時に魔法を繰り出した。血の魔法はそれ同士では干渉せず、一直線に術者へ飛ぶ。二人はそれぞれの方法でそれらを払いのける。
「ああ!セレネ!今、会いに行くから」
一瞬霧に視界を遮られた隙にグルーニィが路地へと逃げ込んで行くのをロラは目撃した。
「チッ……!諦めがわるいなぁ!」
苛立ちを隠さずにロラはその背中を追いかけた。雨の影響で路地というよりも、瓦礫の獣道だった。足元に気を使いつつ走る。瀕死の重傷だというのに、前を走る魔女はロラの速度とそう変わらない。
「魔女って…………あんな体強くないって…………」
早くも息切れし始めたロラは、ちょうど今グルーニィが通り過ぎたところに一本突き刺さる頑丈そうな柱を見つけた。柱を境目にその先はまだいくらか原形を留めた廃墟が立ち並んでいる。グルーニィはそのまま直進し狭い廃墟の隙間へと入っていく。ロラは廃墟に差し掛かったところで奥歯を噛み、壁に向かって斜め前に飛んだ。壁に足が着くと向かいの壁に飛び移る。走って、飛んで、三階の窓の近くで路地を横断するように掛けられた物干しに鞭を絡める。高所から振り子の要領でロラは弧を描いて宙を走る。最下点から昇り始めたところで鞭を解き刺剣に変形し、そのときには既にグルーニィの頭上にまで追いついていた。ほとんど追い越す勢いのまま、空中で魔法を唱える。
「ノスィト!」
連続で三つの光線が空気を焼く。しかしあろうことかグルーニィは壁に魔法で穴を開けて進行方向を大きく変えてしまった。
「なっ!っっっもうっ!!」
追い越すために慣性をつけたせいでロラは大きく通り過ぎてしまった。なんとか足を止め辺りを探ろうとするが、なにせ相手は逃げ腰でありそう簡単に居場所を知らせるようなことをするわけもない。さらには表の通りの爆発音やら怒号やらがうるさい。
ロラは視線を落とした。半透明の猫が苦しそうに息をしている。心なしか青白い体が少し薄くなっているようにも見える。だらんと脱力した前足や首を見ると余計不安に駆られる。
猫の頭を慎重に、優しく撫でる。深呼吸をして焦る気持ちを抑え付ける。ロラは深くゆっくりとまばたきをした。
(あのヒトは探しに行くって言ってた。探しに行くのなら、きっとここを出ようとするよね。それなら…………)
ロラは一つテトに謝って再び奥歯を噛み、一気に屋根上へと登った。そしてある算段の下、目的の方向へと屋根伝いに走って行った。
「ダルエニ様、御身体は」
「…………これでも”元”警察隊交友武闘大会の優勝者でな、それなりの怪我なんざ屁でもない」
「ええ……そうでしたね。それでも無理のし過ぎはなさらないように」
「残念ながら、無理をしすぎないと生き残れないんでな」
「刺しますよ、お静かに」
「…………」
丸腰のダルエニとエルは死の雨をなんとかかいくぐり役場跡まで戻ってきていた。スラム街の中心で堂々と威張り散らしていた豪奢な建物は見る影もなく、かろうじて面影を残す穴だらけの床以外は周りのボロ屋と遜色がなくなってしまっていた。そんな大量の石材の隙間に二人は身を寄せている。道中、ダルエニは雨に多少ながらうたれたことで手足にいくつか深い傷を負っていた。早めに縫わなければ危険な状態であり、エルが手帳やペンを入れていた鞄から応急道具を取り出して縫っていた。麻酔などなく、針が抜ける度にダルエニの眉が動く。
ダルエニは少しだけ体を傾けて外を覗く。蛇型の大きなウイブの死骸は雨のときに血を根こそぎ吸い出されたようで干からびていた。その奥では血の大蛇と生き残った戦士たちが死闘を繰り広げている。そして、肝心の魔女と金髪がいない。
(俺たちは甘かったみたいだ。正確な記録がないほど大昔の大英雄とやり合うには、戦力を温存しすぎた。郷里に引きこもってる奴らも引っ張り出さなきゃ今後はやっていけないだろうな。…………仲間を……死なせすぎた)
「ダルエニ様」
エルが不機嫌に抗議した。少し童顔で、しかし妖艶さを併せ持つ顔が不機嫌さを必死に表そうとして余計に幼く見える。
「今は治療されることに集中を」
「…………」
「彼らを信じましょう。きっともう犠牲者は増えません」
「…………」
「それに、血の魔女は猫の魔女様と、三人目の魔女様が倒してくださいますよ」
「…………」
若干不貞腐れた顔をした大男は体をもとに戻した。エルは手のかかるといったふうにため息をつく。
「…………あいつら事が済んだら問い詰めて――」
「あっ」
「ッッ!!??」
「だから静かにと」
呆れながらもエルは治療を続ける。深い傷を負った腕を縫いながら、時々愛おしそうに撫でながら。
ダルエニは諦めてされるがままになり、無造作に右手を胸ポケットに突っ込んだ。そこから銀色の金属を取り出す。丸く小さなロケットで、良く磨き上げられているが蓋には隠し切れない傷が多数刻まれていた。大きな手のひらに乗せた小さなロケット、それを眺めるダルエニは、戦士ではなくただのダルエニとなり、剣呑な表情もどこか柔らかくなった。
「彼女は…………あまりに早く貴方様が会いにくれば、きっと笑顔で迎えてはくれないかもしれませんよ」
開こうとした指が止まる。代わりに別れを告げるように表面を優しく撫で、もとのポケットにしまいなおした。
「ふう、終わりましたよ、さすがに私も慣れましたね」
エルは血の付いた針や手を拭った布切れを捨てると、さっさと手帳とペンを手に立ち上がった。
「手間をかけた」
「お互いさまです」
ぶかぶかの上着についた埃を丁寧にはらい、エルは目を細めて遠くを見る。もう五年になる彼女は手元を見ずともすらすらとペンを走らせる。初めのうちは簡単な手当てもろくにできなかったが、今では綺麗に傷を縫ってみせる。ダルエニは過去のエルと今のエルを瞳の中で比べ、決して喜ではない感情をうかべた。
そうやって静かにエルの横顔に感情の電波をぶつけていたダルエニは、ふと、彼女越しに見えるまだ形を残した家々の方に視線を向けた途端、跳ねるように立ち上がった。そして乱暴にエルの腕を引っ張ると、上から覆いかぶさるように倒れこんだ。何か言う間もなくエルの頭をダルエニの胸筋が覆い、直後砲弾が降ってきたのかと疑うほどの轟音が轟いた。役場の残骸がさらに細かくなり、小さな破片が大きな背中の傷を増やす。
「な、なにが」
「声を出すな!奴らの間になんざ入りたくねぇ」
轟音がしたのは役場跡の入り口付近だ。雨の難を逃れた方から役場跡の壁を突き破って入り口の扉に何かが吹き飛んできたのだ。ダルエニも飛んできたモノの正体を目視できたわけではないが、それしかないと判断していた。
二人が息を殺して見守るなか、足音が近づいてきた。不規則で音だけで満身創痍だというのがわかる足音だった。
やがて瀕死の血の魔女が現れた。二人のすぐ後ろだった。細かな瓦礫に埋もれてはいるが、今すぐバレてもおかしくない。
(今は……ダメだ、殺意を出すな。死にかけでもコイツは必ず気付く!)
ダルエニは体の下に異変を感じた。見ればエルが震えている。華奢な腕を彼の体に回して稀に見る力で服をつかんでいた。もう片方の手は肩を抱いていたダルエニの手を探り当てると上から指を絡める。「も……もしものことがあれば、私のことは構わずにお逃げくださいね。ご存知のとおり、私は主に祈っているおかげか運がとても良いので……」と、あらぬことまで言ってしまうしまつだ。いつも含みのある笑みを見せ、悠々自適に振る舞う彼女にも、恐怖を感じる瞬間はあったのだ。そんな、ここまで取り乱しているエルをダルエニは見たことがなかったが、だからこそ平静を維持して囁いた。
「安心しろ、奴は別の奴にご執心だ。まぁ、そいつがさっきので生きていればだが」
視線の先で砂煙りが晴れていく。ダルエニも血の魔女もそれが完全に晴れるのを待っていた。
(あいつが魔女なら今ので間違いなく死んでいる。が、あいつには猫の魔女が憑いている。猫のことだ、さすがに何かしら対策を積んではいるだろう。――――問題は、あいつが完全に猫の首輪についているかだが……)
確実な死を前に、しかしダルエニはその先を憂慮していた。
やがて舞い上がっていた砂が地に落ちていくと、衝撃で枠から外れてくの字にひしゃげた役場の大扉と、その上に体を預けた魔女の姿が見えた。ぶつかった反動で大扉を歪ませるほどの衝撃は、歪みによってできたくの字のへこみに寝転がる魔女の体力を推し量るには十分だ。並みの戦士なら即死も免れないものだが、それがさらに脆い魔女だとしたら――――。ダルエニは次の手を即座に思案しはじめる。同時に、ほぼ諦めた魔女の安否をまだ、確実に確認するために目を凝らし続けた。そして、ほんの少しだけその瞳孔を開かせた。
脱力した肩から意識を朦朧とさせているのが分かるが、その目にはまだ光がある。金髪の魔女はまだ生きていた。それも予想していたよりかは生気があるように見える。
(魔女ってのは脆いはずなんじゃねぇのかよ)
ダルエニは心の中でつい悪態をついた。かたや歴戦の魔女に、かたや手厚いサポートを受けた魔女。どちらも常軌を逸した頑丈さをみせている。
「ここで…………殺さなければ…………。ゴホッ!ゴホッ!…………オマエは…………地の果てまで追ってくるんだろう…………!」
死に際の血の魔女がゆっくりと歩き出した。金髪の魔女は動かない。どうする――――とダルエニは頭を巡らせる。このままではトドメを刺されるだろう。そうすればこちらの少ない勝機がさらに減る。諦めかけた勝利の近道を前にダルエニは皺を深くした。しかし今、自分に持ち合わせはない。ダルエニが焦りだしたのに気が付いたエルが両手を大男の胸に当て、落ち着けと訴えかけた。
(焦ったら終わりだ。…………そうだ、冷静に。…………今何ができる?武器はない。魔女に有効打を与えられそうな金髪は伸びていていつ復帰するか分からねぇが、魔法を防ぐ手段のない俺よりも勝機がある。クソッ、とんだ隠し玉だな猫魔女さんよお。――――血の魔女は今、剣も爆弾も拳も効く。魔法の鎧が消えたことはクレマンスの坊主が命を懸けて証明してみせた。手元にあるのは自分の拳と力を加えれば崩れる細かな石ころ……………………やるしかねぇか)
ゆっくり、慎重に、気づかれないようにダルエニは身をよじり這い出る。背中から転げ落ちた石材をエルが寸でで受け止める。抜き足差し足で崩れた柱の陰へ陰へと渡りつなぎ、血の魔女のその背中と距離を詰める。緊張で握りしめた石が崩れないよう注意を払いつつ、音を立てないよう残りの神経を全て足に集中する。そうしていくらか距離を詰め、よりはっきりと金髪の魔女の姿が見えたとき、ダルエニはまた驚かされた。それだけではない、たしかに、恐怖を感じた。
薄く目を開けた金髪の魔女は笑っていた。口と目の端を吊り上げ、白い歯を剥き出しにして嗤う。嘲笑。優越。愉悦。自分が絶対的強者と信じてやまない魔女の、魔女が弱者やそうと信じてやまない人間に対してする表情。例にもれず、ロラもまた、魔女であった。
そして、この大陸において、健全な魔女のその表情を知っているのは団長、つまり、ダルエニ・アルトリウスが唯一であった。
(あのツラ…………!!間違いねぇ、猫なんかの生ぬるい奴じゃねぇ。アイツは――――正真正銘のくそったれな魔女だ!!!)
一瞬の恐怖が際限ない怒りの炉へと放り込まれ、無意識に握っていたロケットにさらに力が入る。そのロケットに、胸に刻まれた悔恨と怨嗟の炎が暴走しかけたが、ダルエニは視界に入る血の魔女を見て冷静さを取り戻した。血の魔女はダルエニと違い、ひどく恐怖し狼狽していた。あの、殺戮の悦に浸っていた魔女が。
血の魔女はぼろぼろの喉で魔法を唱えようとし、言い終わる前に全身をがたがた震わせて咳き込んだ。その隙に、くそったれな魔女が刺剣の先を赤く光らせ、くそったれな魔法を唱えた。
「血縁」
「ハァ…………ハァ…………」
くそったれな魔法を唱える数分前、ロラは屋根伝いに来た道を遡っていた。
(ここから出るならまずは昇るよね。だったら昇る場所があるはずだけど、このあたりに昇れそうな場所なんて見当たらない。なら、魔法を使って昇ろうとするはず)
目指すは血の海、彼女の独壇場だ。だがその前に。
(いた!)
ロラの予測は当たり、同じ方向に走るグルーニィを路地の隙間に見つけた。ロラは屋根から向かいの下階の窓に飛び込み、いくつかの家屋を駆け抜け、先手必勝といわんばかりにグルーニィの真上に飛び出した。
「ノスィト!」
「!?」
追いつかれると予想していなかったグルーニィは光線を足に受け、体勢を崩し派手に転がった。立ち上がろうとするそこにロラが追い打ちをかける。しかしグルーニィも黙っていない。狭い空間に魔法が飛び交い、鞭と刺剣の変形する音が鳴り響く。
「オマエ、しつこい!」
「黙って、はやく死んで!」
霧を纏った鞭が唸る。硬く硬く凝縮した血の手甲がそれをかろうじて防ぎ、そのまま己を武器と成す。
「血の爪!」
魔女にとっては捨て身に近い近距離の魔法。グルーニィはとっくに余裕をなくしている。
空気ごと切り裂く獣爪に似た爪が腕に痕をのこす。鮮血が飛び散り、彼女の血が傷口から入り込む。
「っ!アァッ!」
迷う余裕もなく炎響で即座に患部を入り込む血ごと焼いた。
「血の槍!」
焼き逃した血液が槍となり、ロラの左腕を貫通する。
「ッッッツツ!!!ぐゥゥゥッ!」
ついロラは怯んでしまった。グルーニィの瞳の赤い輝きが涙に反射する。
咄嗟に鞭を振った。確かな手ごたえが何度か、武器を通して感じた。うめき声も聞こえた。しかしその直後、鞭を握る方の肩に強い力が加わる。何が起きたか確認する間もなくロラは鞭に引っ張られて前へと体勢を崩した。溜まっていた涙がその場に残され視界が開けると、左手に悪魔の血で出来た手甲で霧を無理やり無効化したグルーニィが鞭をつかみ、ロラを力任せに手繰り寄せていた。――――武器を、杖を手放すわけにはいかない!いや、むしろ好奇。爆炎をお見舞いしてやれば終わるのだ。
ロラはグルーニィに引かれるがまま無防備なさまを晒した。血の魔女がつい先ほど左脚に開けられた穴から自らの血を巻き上げて右腕の切断面の先に凝縮させていく。左脚はみるみる痛たましく枯れ萎んでいった。一方でロラは炎響を引き抜きトリガーに指を掛けた。度を過ぎた酷使によりほとんどの刃は欠け、刃物としては使い物にならないが、名前に由来する仕掛けはまだ残っている――――――――はずだった。
カシュッ……という情けない音が微かに鳴る。申し訳程度の火花が散るが、それ以上のことは起きなかった。
(――!?あれ!?そうだ……火薬を――)
右腕に凝縮した血が渦を巻き、巌も砕く流れとなる。
「血の濁流!!」
(イタイ…………)
全身に力が入らない。全身が痛い。耳鳴りが五月蠅くて視界はぼやけている。指先が少し動いた。手を握ろうとしたらもう握っていた。貧弱な手は殊勝にも武器を握りしめていた。耳鳴りの中に自分の呼吸の音を見つけた。視界を覆う靄が消えていき視覚を得た。
胸に手をやると、自分のものとは違う柔らかい感触が触覚を刺激した。受けた魔法は腹に当たり、テトは何とか消えずに済んだようだった。
(まだ生きてる…………。ぎりぎりで魔法を間に挟んだのもあるけど、テトのおかげ。…………でも、たぶん今ので霊猫はみんな消えちゃったかな…………)
重力にまかせ頭をだらんと後ろに倒す。全身がうだり、まるで干し草の上で両手を広げて寝転がっているような格好をする。意識はあるが、どこかねむたい。
(あそこ……)
寝ぼけ眼の先には赤一色があった。多くの者の命を飲み込んだ血の海だ。
血の海に向かって一筋の赤い筋が地を這っていた。ロラはその源を目線で辿ってゆく。
キーンと鳴る耳障りな幻聴が治まると、鼓膜をゆらす声が届いた。どんなものかと思えば、その声はここで殺すなどと言っている。逃げるなら早く逃げればいいものを。
(…………)
依然と赤い筋を辿る。それは露出した岩肌や石段を巡り、上へ上へと遡る。どんどんとロラに近づいていく。時に滝を作り、時に途切れかけた形跡を辿り、そして、うだる自分の真下が源泉であることを確信する。
その瞬間、ロラは勝利を確信した。そして、自分は今この場を支配する力を得たのだという確信が、彼女の奥底に確かにある魔女の本質を目覚めさせる。それは抑えようのない優越感や自尊心であり、それが満たされる快楽によって彼女の表情を魔女の恍惚としたものへと豹変させる。
「フ……ヒヒッ……ハハッ……!」
それは魔女の本能だ。欲を力として行使する魔女はまた、欲に弱く、忠実なのだ。
頭を起こしたロラは指先をくるくると回し、海に自分の血を攪拌させる。その頃にはグルーニィも目の前の恐ろしい笑みをした魔女が何をやらかそうとしているか理解したのだろう、もともと辛そうだった顔がみるみる青くなっていくではないか。その様子に、愉快愉快とロラの口角と目尻が歪んでいった。
その快感に身を任せたまま、トクベツなヒトのためにさっさと邪魔者を消そうとロラは杖を振った。グルーニィが阻止しようとするが、傷を負った喉は言うことを利かず、それが彼女の命運を決めた。
「血縁」
自分の血に触れた死者を弄んだ挙句使役する魔法。血の海から一斉に魂なき骸たちが赤い滝を作りながら立ち上がった。とてもお粗末な出来であり、もともとの死体に若干の色を加えただけの、動く死体の群だった。だがそれで十分だ、グルーニィは満足に魔法が使えないほど弱り、また、数が数だった。
「ルド・――ルル!」
死体にこびり付いているのはロラの血だけではない。槍が体表を貫き、何体かが串刺しになって立ち止まった。しかし、あとからあとから亡者の群れがそれを追い越し、串刺しになっていた者たちも己を貫く槍をへし折って再び群れに合流していく。
「あ……い、いやだ……いやだ!」
グルーニィは背を向けて走り出した、物陰に隠れる団長にも気が付かず、隠れそびれたエルに目もくれずに。その後ろを死者たちが追う。彼らもまた、団長たちはいないものとして通り過ぎる。
グルーニィの姿が見えなくなり、ロラはのそりと体を起こした。ビリビリッと布の裂ける音に振り返ると、背中から糸を引く血と、血がべっとり付いた小さな突起。そして、赤みを帯びた薄灰色の羽の一部が破れた服の隙間から顔を覗かせていた。
「うあぁ…………」
魔女にとっては最大の恥部が露出してしまったことにロラは顔をしかめた。先ほどまでの異様な雰囲気はグルーニィが見えなくなってから跡形もなく消えていた。
(さっきのあの気持ちいい感覚、もうないけどなんだったんだろう。……まぁ、いっか)
普段の様相に戻ったロラが、さてどう隠そうかと四苦八苦していると、血の海の方から瞬きが見えた。
「っ!?」
槍が四体の死者を貫通し、勢いを衰えさせつつもなおこちらに迫った。ロラは丁度よく目の前を横切ろうとした亡者の腕を掴み、自分の前に突き出した。どす黒い鉄錆の臭いと、わずかに残る甘い香りが顔にかかった。血の槍はその亡者を半分貫いて、そこで止まっていた。「ふうっ……」となんとか凌いだことに安堵し、そこでロラはふと、肉壁になった亡者の真っ赤に染まり濡れそぼった髪の中に、綺麗な白を見つけた。
「…………あ、ノエル」
頭の半分にはまだ原形があった。未知に煌めいていた目に光はなく、仰向けに倒れて遥か上にある地上を虚ろに見つめていた。ただロラの魔法によって動かされていただけの抜け殻である。ただその抜け殻も、今の一撃で動かなくなってしまった。
「ノエル…………やっぱりあなたはいいひとだね。こんなになってもわたしのためになってくれるなんて。…………嗚呼、でも、もう動かないんだ」
ロラはヨロヨロと立ち上がった。そして、まるで気にせずに弄んだ友人の亡骸を踏みつぶした。
「バイバイ、ノエル」
友人への親愛の感情をその場に置き去りにし、魔女は狩場に歩き出した。
グルーニィは逃げる。逃げなければ死んでしまう。
「し、死にたく……ない…………セレネに…………」
グルーニィは昇る。魔法で創りあげた大きな血の螺旋階段を。
「オレは…………オレは…………?なんで?」
使い物にならなくなった左脚を引きずりながら、螺旋階段を這い上がる。
グルーニィは階段の下を見た。セレネの顔、セレネの髪、セレネの体、セレネの声、セレネの匂いをして、セレネにしか教えていない自分の魔法を操る化け物がいた。駆けあがってきている。得体の知れない存在に彼女は震え上がることしかできない。
灯台下暗し。化け物に気を取られ、真後ろまで死者が迫ってきていることに今やっと気づいた。だが、逃げなければいけないのに、その死者の姿を見たグルーニィは凍り付いた。
「バ……リス…………ジャブ…………」
紅の鬣を甲冑の頭頂部に立たせた鎧が二体、他の死者同様おぼつかない足取りで階段を一段ずつ上っている。彼らが手にする大きなランスに、グルーニィは腹を押さえた。
「ご……ごめん…………オレ…………そんな……なんでオレ……オマエらにあんな…………!」
両足の隙間に突き刺さったランスに恐れ慄き、女は醜く四肢を振って逃げ出した。
「あれ!?なんでオレアイツらに攻撃されて…………いや、なんでオレアイツらにあんなこと…………?」
魔女は戦争に敗れ、それを境に狂った。内に眠る欲に抗えなくなった。現状、その原因は不明であり、贖罪者であるグルーニィも同様であった。
「決戦だってのにセレネに言われて二人に連れられてここにきて…………でも、とにかくセレネに会いたくて…………でも、腹が減って減って仕方がなくなって…………」
地上が近い。オレンジ色の陽の光が皮膚を焼き激痛が襲う。地下から甲高い口笛の音が響く。何だか知らないが構わない。故郷を足元に、女は地獄から最後の一回りに差し掛かる。
「腹が減って…………減ッテ…………イッパイ食ベテシアワセでェ…………っ!?ちがっ、オレは!?」
「ノスィト!」
一周下に化け物が迫っていた。セレネの声で、知らない魔法を使ってくる。
「――――いやだ!――――いやだいやだいやだ!!」
女は力を振り絞って走り出した。数段上り、倒れる。それでも這いながら走った。
「いやだ…………やだ、やだやだやだやだ死にたくない!セレネ!セレネ助けて!!!」
夕焼けの光条が緋色の瞳を焼く。耐えがたい苦痛に悲鳴を上げ、それでもついに、地上に指先が触れた。
地獄から這い上がり切った…………。臭気を消し飛ばす新鮮な風が傷ついた喉を冷やした。
女は立ち上がった。早くここから離れなければ。――――そうだ、先に階段を崩さないといけない。じゃないと地獄の化け物が…………。
「あ……」
胸を矢が貫いていた。正面の、たしかセレネに連れられて初めて地上に出てきたときに行ったパン屋さんだ。そこの三階の窓から人間の男が矢を撃ってきたんだ。おかしい、あそこはパン屋に乞食して住み着いていた魔女の部屋のはずだ。男を連れ込んだ?まさか人間に惚れたのか?
右脚の膝裏から矢が刺さった。お皿型の骨の一部が飛び出した。この骨の名前はセレネに教わってないから分からない。血を止めたかったけど、魔法をうまく使えない。これじゃあ戦力外だ。二人に守られるのは嫌だ、弱いのに、それでも自分を盾にしてでも守ろうとしてくるのが耐えられなかった。
気配がして通りの方を向いた。ボロボロの男が気弱そうな男の子に支えられて立っていた。手には古い造りのクロスボウが握られていた。
バリスが言うには子どもを怖がらせるなと、ジャブには怪我人がいたら周りの大人に助けを呼ぶようにと教わった。言うことをしっかりやればみんな褒めてくれる。褒められれば、二人もセレネから褒められる。誰か、近くに頼れそうな大人は…………。
「落ちろ、邪悪な魔女め!」
男がそう言って放った矢が首に刺さった。痛い。息ができない。体が言うことを利かない。たたらを踏んで踏み外した。落ちる。魔法ももう、維持できない。
女は落ちる。螺旋階段も下から崩れていった。焼けた水晶体に黄金が映る。化け物は瓦解する階段を器用に渡ってトドメを刺しに来る。
(――――だめだ、こいつをセレネのところに行かせちゃいけない!)
その一瞬に、グルーニィは全ての力を込めた。
「速い弾!!」
高性能の割に扱いやすい汎用魔法。誰でも知ってる。でもこいつは撃たれ慣れてないというのは分かっている。
「っ!?」
案の定、化け物は反応できなかった。基本魔女は高慢で優勢になると油断しやすいから、それもあったのかもしれない。奇妙に変形する武器を咄嗟に振ったみたいだが、その一部を砕いて手に魔法が当たった。バキッと、ここで暮らしていたときは日常的によく聞いていた音がした。悲鳴を上げることはなかったが、指が変な方向に曲がり、伴って武器を手放した。
(もう一発、もう一発当てればせめて相打ちに…………)
「オマエはここで――――!?」
化け物は靴に手を伸ばすと小型のナイフを取り出した。刃先から柄の底を含めて手のひらで覆えそうなほど小さくて、でも、人を殺すには十分な得物だった。
(――――まだ…………隠し持っていたなんて…………。だめだ、間に合わない!)
化け物の魔法も、男の矢も心臓を狙っていた。でもそこに心臓はない。人と戦うときは血流を操って心臓を上の方にずらしているから。でも、化け物はそれを見破ったようだった。
心臓を刺されたのが分かる。毒まで入ってるのが全身で分かる。
グルーニィの濁った瞳が黄金を反射し輝いているように見える。実際、グルーニィは霞んでいく光の中にセレネを見た気がしていた。母に飢えた子どもは、ただただそれの名前を口にする。
「あ……ああ…………セレ…………ネ……………………」
大きな大きな血飛沫が地下スラムの中心に舞った。目の前で見ていたダルエニもエルも、戦士たちもそれを頭から浴びた。しかし、誰も慌てることはなかった。血の小雨が止むとほぼ同時に、魔法で蒸発も浸透もしなかった大量の血液たちが霧散していった。エルが今さっき血だらけになった手帳が綺麗になっていく様子に少し驚いていた。
主を失った血が全て消え、海のあった窪みにはわかるだけで数十人分の死体と、その中心に佇む人影と一人分の人骨が残った。
人影は上質な装いをしているが、頭には魔女の帽子を被り、背中には醜い悪魔の羽を広げていた。
「化け物め…………」
ダルエニはそう呟き、中心に向かって歩き出した。
さんざん暴れまわった血の魔女は、心臓を一突きするとあっという間に骨と魔石になった。魔女というものは死ぬと余韻を残す間もなく消えるのだ。まるで世界に疎まれているかのようだ。
「ロラ…………」
「――!?テト、大丈夫!?」
ロラは拾い上げた魔石を無造作に落として、テトを胸からつかみ上げて腕に抱いた。
「こちらの台詞だ。ちょうど、トドメを刺すところで目が覚めたが、何か大きな怪我は――」
ロラの目つきが変わった。だが、誰よりも速く動いている者がいた。
「やめろ」
「こやつは魔女じゃ!しかもワシらを騙して潜り込んできおった!」
無防備なロラの首を狙ったかぎ爪は、ダルエニの体が間に入り込むことで止まっていた。
「たしかに、金髪は魔女で、こいつらは俺らにそれを黙っていた。だが、まず第一に、こいつらは黙っていただけで嘘をついていたわけじゃねぇ」
「屁理屈などいらん!明らかに意図してやったことであろう!」
老戦士は目を血走らせている。長い戦いからまだ冷静さを取り戻せていない。
「どうせ開口一番に『魔女です』なんて自己紹介したら殺されると踏んだんだろう。ご明察だな、確実に手を出されただろうな」
「お前たち…………」
テトはか細い声で若干の失望を吐く。
「んな嫌な顔すんな、いまお前らのために間に立ってやってるだろう」
「なぜ魔女の味方なぞ」
「理由第二だ。…………不甲斐ないが、こいつらがいなけりゃ血の魔女の討伐、ましてや俺たちが生き残ることも難しかっただろう。そこに異論は」
ダルエニの言葉に、さすがの老戦士も口をつぐんだ。彼は決して、自惚れていたわけではない。寧ろ若芽を目の前で摘まれたことに自分の弱さを実感しているようだった。
「…………ない」
老戦士は腕を下ろし、武器を落とした。そしてロラたちに向き直った。
「猫の魔女、そして金髪の魔女…………すまなかった」
短く、簡潔な謝罪だが、テトはひどく驚いていた。
「わ、私は別に……慣れているから問題ない」
「テトがいいならわたしも」
二人の返事に対し、小さな声で礼を言う老戦士だが、その声には隠しきれない憤りがあった。力の足りなかったことを認める清さと、魔女という存在そのものを忌避する感情のせめぎ合いを慮ったダルエニとテトは、それに目を瞑った。
「だがまぁ、判断は正しかったとはいえ黙っていたことを黙認するつもりはなかったがな。しかし、今こうしてお前らを庇った。これはお前らへの貸しだ」
「『そして、その貸しはグルーニィを狩ったことでチャラにしてやろう』、そう言いたいんだな」
「ああ、利口な猫チャンだ」
ダルエニは半眼にして機嫌を悪そうにする猫にしたり顔をする。だが、テトはすぐに表情をあらためてロラに目を合わせた。
「ロラ、グルーニィの魔石だが、ダルエニたちに貸してもいいだろうか?」
テトの発言に、ダルエニの眉がわずかに動いた。この大男はできることが多いが、ポーカーフェイスもその一つだった。
「待てお前」
「早まるな、了承を得てからだ。それで?ロラ、どうだろうか」
「別に……もう死んでるし、ワルイヒトだったしいいよ」
テトとしては期待した返答だったが、思うこともあり一瞬言葉を詰まらせた。
「……ありがとう。――――と、そういうことだ」
「おい、勝手に話を進めるな」
「お前なら分かっているだろう。今回お前たちは過去に類を見ない損害を受けた。二百と少しの幽居の籠ですら一枚岩ではないんだ、お前たちの里は三枚も四枚もあるだろう」
ダルエニは露骨に嫌な顔をした。いい感じに懸念していたところを突かれたのだろう。しばらくその顔のまま損得勘定を頭の中で打ち、やがて降参といわんばかりに手を挙げた。
「その倍はある。…………ちっ!舌の回る猫だ」
「魔女の施しを受けるのかい団長?」
そう口を挟んだのは隻眼の戦士だった。片腕を負傷したようだがすでに包帯を巻かれており、グルーニィが死ぬより早く彼女の創り上げた大蛇を倒していたのが想像できる。
「残念だがな。住処で大手を振って歩くには、確かな証拠品が必要だ」
「なら、貸し一つだな」
「……うっせ。おい金髪」
ダルエニがロラに向かって手を差し出した。ロラは足元の赤い石を拾い上げると、目を細くして大男を睨んだ。
「あなたはいやなひと…………?」
「ああ?」
ロラの問いにダルエニは訳が分からないといった表情をする。
「はっ!てめぇにとっちゃ知らんが、最低でもお前の飼い主にとっちゃ俺は無価値ではないだろうな」
「…………」
テトは肯定も否定もしない。少しばかり考えるようなそぶりを見せたロラは、結局魔石をねだる大きな手に向けて放り投げた。
「あんがとよ。ところで、お前はいい加減そのきったねぇ羽をしまいやがれ」
「?」
テトは体ごと後ろを見ると猫らしい素早さで顔をそむけた。羽を剥き出しにしていたことをロラはすっかり忘れていたのだった。
「!?!?」
ロラは今までにない速さで後ずさりしてしゃがみこみ、顔も耳も赤く染めて小さくなってしまった。テトもどうにかしようと慌てているが、羽を見てもいいのかと逡巡して右往左往するばかりだ。
「あなたいやなひと!」
「へいへい。…………金髪、お前が今踏んでんのもこっちに寄こせ」
羞恥に顔を染めて子犬のように唸るロラが下を見ると、帽子があった。拾い上げるとそれはグルーニィの帽子であり、贖罪者を印す徽章もかろうじてついていた。ロラはそれをしゃがんだまま思いっきりダルエニに投げつけるが、もちろんしっかりと受け止められた。
「はぁ、ひとまず、『おつかれさま』でいいか?これ以上ここで時間を無駄にしても皆体力がもたないだろう」
「言われなくてもそうする気だ。――――よしお前ら、日が沈むまで生存者の捜索をしたら昨日の教会まで撤退だ。明日郷里へと戻り、本格的な捜索と遺品の回収は帰還後俺と別の団がやる」
戦士たちが帰り支度を始めた。ロラたちもやっと、帰る頃合いだ。
「ロラ、私たちも帰るとしよう。バライジの診療所にヘリトラとクレアに待機してもらっている。お前をそこにとばすから――」
「――っと、忘れるところだった。おい猫!ちょっとツラ貸せ」
「なんだ?まだなにか無駄口を叩きたいのか」
「いいからさっさと来い。金髪、お前はだめだ」
テトをぎゅっと抱きしめていたロラがダルエニを睨んだ。ダルエニも睨み返した。
「ロラ大丈夫だ、すぐに戻る」
そう言うと抱擁が緩み、テトは滑り降りた。その間にダルエニはエルから手帳とペンを借りていた。
ダルエニはここに乗れと自分の肩を叩き、渋い顔をしつつテトはゴツい肩によじ登った。入念に爪を立てて。
ダルエニは手帳の空きページにスラスラと一言書いた。それを、テトだけに見えるように見せる。テトはピンと耳を立てて少し驚いたような顔をした。
「ダルエニこれは…………」
「覚えたな、なら今日はこれで本当にお開きだ。さっさと帰ってよーく考えるこったな」
手帳からそのページを破り取り、細切れになるまで破り捨てる。エルが「もったいない」と見つめるのも無視して。
首根っこをつままれてロラのほうに放り投げられたテトは、しかし他のことに気を取られて怒る様子は見られなかった。
ダルエニたちが地下と地上を繋ぐロープに向けて各々歩き出した。ロラはその背中を見届けると、また癖で耽っている猫に声をかけた。
「テト?なにか変なこと言われたの?」
「…………あっ!?ああいや、なんでもないさ。すまないお前も疲れているだろうに。――――では、私たちも帰るとしよう。お前は診療所に、ステラはルーメンの馬屋に送る」
「うん」
「いろいろと話したいことは多いが、ひとまず――――ロラ、お疲れさま」