第五話 対話
まっしろでおっきな建物だなと、初めにロラはそう思った。太陽が燦々と見下ろしているせいで中庭には出れないようだ。夕方か夜に動けばいいが、人間との共存を優先しているようで人間の生活時間に征戦魔女は合わせているみたいだった。
(ここ知ってる。魔女隊の本拠地だ。なら……これは記憶?)
ロラは今自分が見ている光景から現状を理解する。使命を託されたときと同じように、セレネの視点で昔日の日々を見せられているようだ。
「セレネ様、そういうことなので、グルーニィの晴れ着姿楽しみにしててくださいね。きっと驚かれますから」
真っ赤な整えられた髪と真面目そうで優しそうな顔、ロラにとって、とても見慣れた顔。
(あっ!ジャブ…………グルーニィの部下で使徒の一人だったひとだ。たしか……バリスとグルーニィの三人ですごく仲が良かったはず。ごめんね、あなたのこと、まだ詳しくは思い出せてないんだ。…………でもこのひとの目、モリーやグルーニィと同じだ。あなたもグルーニィたちと同じくらいたいせつなひとだったんだろうね)
ロラがおぼろげな記憶を手繰り寄せていると、ロラの口が勝手に話し始めた。
「ああ、そうしておくとしよう。だがそれにはまず戦争で勝たなければいけないけれどね。それに……これは彼女へのサプライズだろう?もう行った方がいい、彼女が来た」
長い廊下の先で扉の一つがバンッと開き、その彼女が出てきた。
「セレネー!約束してた演習場行こうぜー!二人っきりで話したいことがあるんだ!」
グルーニィが走ってこちらまでやって来た。すっかりアレンジされて着こなされた贖罪者の衣装がふわふわと揺れていた。
「グゥ、走ると危ないよ」
「ご、ごめん。ジャブもセレネに用があったのか?」
「まあね、でも終わったから、僕はもう行くよ」
ほぼ背丈の変わらないグルーニィの頭を叩くように優しく撫で、ジャブはその場を後にした。昔は喧嘩ばかりの三人であったが、今では使徒の二人はグルーニィを妹のように想い、グルーニィ自身も二人を兄として見てるようだった。
「じゃあグゥ、行こうか。相談でもお願いでも、何でも話すといい」
そうしてロラたちは屋内の大きな演習場を貸し切って二人だけでやって来た。屋内と言っても、広い荒野に大きな屋根をいくつもの柱で支えただけのものであったが。
「それじゃあセレネ、これからオレの魔法をセレネにだけ教えるぞ!」
「なに?」
今まではすごく落ち着いていた声色が、ロラよりもテトの方が近いのではと思える雰囲気がその一瞬、少しだけロラに変わりないようなものになった。
「なんだセレネ?できるできないは置いといて、好きな奴に自分の魔法を教えるくらいそんな珍しくないんじゃないか?」
「あ、ああそうだね、汎用魔法があるくらいだし、魔法は受け継がれていくものだ。ただ少し予想できていなかったから驚いただけさ。だがグゥ、それならべつに貸切らなくてもよかったんじゃないか?」
「いいや!オレはな、セレネにしか教えたくないんだ!この一生でセレネにだけ、セレネにしか教えたくない!」
「次の代には?」
「それは……わかんない」
「そうか。まぁそんなことは気にしなくてもいいか」
ロラの体はそう言ってとても嬉しそうに口を歪めた。
「それじゃあ教えておくれ、君の魔法を。この目で、しっかりと記憶しておこう」
「――――、――ラ、――きろ、ロラ、起きるんだ」
ロラはまだ眠りたいと訴える瞼をなんとかこじ開けた。真っ赤な両目の霊猫が目の前に陣取り、後ろではノエルが荷物を整理しながら横目でこちらを見ていた。
「ん〜……」
「おはよう。さあ起きるんだ、近くに小川があるから顔を洗いにいけ」
「おはようございます。ぼくもご一緒していいですか?水を汲みに行きたいので」
「ん〜おはよ〜」
なんとか身体を起こしてロラは今日という日を受け入れた。背中と尻尾を追いかけて小川に向かうなかでロラは思う。
(あれは夢……?寝ながらまだ観てなかった記憶を観てたのかな?…………グルーニィ、きっと無事だよね?)
見上げた空は暗く、鈍重な雲が覆っているのであった。
「第七班全員到着しました」
「よし、全員無事に地獄の門に来たわけだ…………いちゃいけねぇ奴らもいるがな」
廃都市セェリドのはずれに場違いに大きな教会があった。そこにロラとテトを含めた四十一人と一匹、そして裏手に四十頭以上の馬が集っていた。馬の中には荷車を牽いた馬もいる。割れたステンドグラスがほとんど砂状になり、腐って自重で崩れた長椅子が列をなしている。その上を無遠慮に踏みながらダルエニが静かに怒鳴り声をあげた。
「フェリ、ニコリ、クレマンス、なぜついてきた。お前らのようなガキが来るところじゃねぇ!相手はただの能無しじゃねぇんだ、魔女だ!それもたった十数日のうちにベテランの戦士を何人も殺せるような正真正銘の化け物だ」
ダルエニが飛ばす唾の先には十代後半の少年二人と少女一人、一人を除いて気の強そうな、言い換えれば自惚れた若者たちだ。団長の般若のような面容にひるむことなく少年クレマンスが答える。
「親父を殺した魔女の住処が分かったって聞いたら行くしかないだろ。それに俺たちは三人だけで野良の魔女を倒したことだってある、最低限の実力はあるはずだ。……少しでも、少しでもいいから奴にかましてやりたいんだ!」
「あたしも!あのヘリトラほどじゃないけど団長だってあたしの実力を認めてたはずだよ。世界の敵とも言える魔女を殺せるんなら、あたしはなんだってやれる」
少女ニコリも自身の実力を信じ、実際その若さで大人たちが舌を巻く功績を成してきた。だからこそダルエニの言葉を受け入れられず、ダルエニは彼らを今回の狩りに組み込ませたくなかった。
「お前らの実力は知っている、教官からの悔しそうな言葉もよく聞く。クレマンスは何者にも怯まない精神力とそれに見合った実力を、ニコリは戦場全体を常に見渡せる指揮能力を、フェリは相手を見くびらない慎重さと勘の良さを持っている。だかな、お前たちは若すぎる」
「若いからってなんだ!俺たちはもう一人前だろっ!」
「そういう意味で言ってるんじゃねぇ、俺は――」
「まあまあダルエニよ、若いのにも花を持たせてもいいであろう?」
割って入ったのは、しわしわの顔とそれに似合わぬ肉体を持つ老人だった。戦士は基本三十代を過ぎれば戦士を辞め次代の戦士を育成する教官や郷里のための職に就く。だが一部の超戦力や戦闘狂はこうして老いぼれても前線に残り続けていた。老人も例の如く、戦いに狂った男だった。
「勘違いをするな、若者に死んで欲しくなどない。ワシはな、敵の正面に立ち攻撃することだけが戦いではないと言っているのだよ」
老人の言葉にダルエニは眉根を上げた。意味を理解したらしく納得したように鼻を鳴らし、悩むように無い天井を見上げ、仕方なさそうに息を吐いた。
「お前らはここに留守番する気はないんだな」
肯定するように二人は頷くが、ただ一人委縮していた少年フェリが恐る恐る大男を見上げた。
「フェリ、お前はなぜここに来た」
「ぼ、僕は二人が心配で……でも、二人には申し訳ないけど僕たちはやっぱりここに残った方がいいと思う」
「「フェリ!」」
――――戦士たちのやり取りを耳に流しながらテトはガラスのない吹きさらしの窓の外を見ていた。昼前だというのに夜とさして変わらない明るさだ。
近くをうろついていたウイブの成れ果てがそこらに転がっている。見たことのない個体が多く、それは魔女が活発である証拠だ。それを遺された守護者たちの伝記によりテトは知っていた。もちろん魔女と永く争っている戦士たちも知っているだろうが。
テトは郷里の戦士が嫌いだ。無謀に挑む戦いが嫌いだ。こんなことをして何の意味があるのだと常々に思う。大人しく粛々と暮らしていけばいいのにと思う。ウイブに慈悲の心などなく、それを生み出した魔女には猶更そんなものはない。慈しみを忘れた化け物は永い年月で更なる化け物へと進化し、そんなものに戦士たちは進んで挑んでいく。一つ魔法を唱えれば簡単に死んでしまうのに。仲間の、友人の、家族の、そして自分の死体を積み上げ、それでもなお今日もまた屍の山を踏み越えて進み続けている。いつかこの大陸から悪を根絶できると信じて、いつか英雄として未来の人々に称えられると信じて。この大陸が平和になるなんてことはテトにとってはおとぎ話のような話だ。そんなおとぎ話に戦士たちは大事な大事な命を懸け、家族や大事な人といる時間すら置き去りにして進み続ける。――――だから、テトは戦士が嫌いだ。
「ノエル、大丈夫かな」
ロラの声にテトは顔を向けた。こちらとは反対の壁際に小さく手を振るノエルの姿があった。少し緊張しているかの笑顔が固い。
「そういえばノエルもエルも戦えそうにないよね、テトは吟遊者?って言ってたけどそれって何?」
テトは今更かと半眼になりかけたが、ちゃんとこの無垢な娘に話してあげられなかった自分にも非はあるのかもしれないと考え直した。
「ああ、そういえば説明してなかったな」
テトは伏せていた体を立たせてロラの方に向きなおした。
「英雄の郷里の戦士たちは英雄として語り継がれるために戦っている。だが、語り継ぐには記録している者が必要だろう?それが吟遊者だ。彼らは戦場で武器の代わりにペンと貴重な紙を持ち、誰が、どんな相手に、どんなふうに勝ったか。そして、どんなふうに死んだか。それを記録し、郷里の記録庫に保管するとともに喧伝する。それが彼らの仕事だ」
「へー」
「もっとましな反応はできないのか」
「なんか大変そうだね」
「…………はぁ、まあ、そうだな」
実際、ろくに自分の身も守れない人間を戦場に連れ立つのは危険極まりなく事故もあるだろう。一応護身術程度に武を窘めてはいるだろうし雑魚の一匹や二匹は問題ない。だが、そんな優しい戦場は新人の初陣くらいなもんだ。ほとんどの場合戦士の助けがなければ吟遊者に為す術はない。はっきり言ってしまえばお荷物だ。それでも戦士同様、彼らもおとぎ話の吟遊詩人になるのを夢見て歩みを止めないのだ。
「戦士の人は吟遊者になれないの?」
「目がいい、記憶力が優れている、表現力がある、文字が書ける等吟遊者になるには条件があるらしい。それでもお前の言うとおり戦士並みの強さをもった者もいただろうが、優秀であればそれだけ戦場に出る。この場にいないということはそういうことだ。今いるのはノエルとエルを含めて…………十人程度だな」
テトが話終えたところで教会内も静かになった。
「作戦の内容は以上だ。大体は短期間の内だったが何度も議論し説明もしてきたからもう頭に染み込んだだろう。追加されたガキどもの世話は二班に任せる。後はその通りにこなしてそれが通じなかったら次を、それでもだめなら次へ次へと、だが最終的には総力戦だ。奴含め贖罪者の記録は少ない。一つの魔法で俺たちがひねり出した戦い方が全て踏みにじられる可能性も大いにある。その場合、各々任せる。生きて殺せ。――――もう覚悟は決まったか」
テトは自分で話を聴かせながら聞いていたが、どうやら聴いていた方は他のことは聞いていなかったようで、戦士たちの纏う空気がピリピリと変化していたことにもやっと気づいたようだった。
「テ、テト、作戦って……」
「……」
教会の大扉がダルエニの手によって開かれた。
街の方から風が吹き込み、その中には確かに鉄臭い濃い血の臭いが混じっている。本能を刺激するその臭いが心臓の鼓動を速める。
「斥候が帰ってこない。想定していたよりもさらに状況が悪いようだな。だが、慌てるな。冷静に、自分のできることをやれ。それがやがて、俺たちを勝利に、英雄に導いてくれる。ここ十数日のうちに血の魔女の活動が今までになく活発化し、その間ですでに十五人が奴に殺された。これを放置すれば英雄への路は確実に絶たれ、仲間の無念を飲み込んだ腰抜けのモグラになっちまう。それどころか郷里で待つやつらの未来も危うい」
団長サマの声はいつになく真面目であり、テトのぶらぶら揺れるしっぽに気が逸れていたロラでさえ自然と視線を彼に集中させていた。
「奴の尻尾をつかんだレイス班の七人も吟遊者一人を除いて帰ってきた者はいない。ならば俺たちで奴を屠るしかない。今まで魔女に殺され傀儡と成り果てた仲間たち。なんの罪もなくただ理不尽に殺された過去の人間たち。その無念を晴らせるのは俺たち以外にはいない!俺たちは英雄になり得る者!邪悪な魔女を討ち、仲間の死を伝承し、自らの死を語り継がせ、いつか来る平和な時代に英雄として名を残す者!仲間がいる限り俺たちの英雄譚が潰えることはない。武器を取れ!郷里で待つ仲間たちに、未来で待つ仲間たちに想いを託すために!――――さあ、出陣だ!」
戦士たちが雄叫びとともに街へと進軍を始めた。
「ねぇ、テト…………」
ロラがどこか浮かない顔でこちらを見てきた。
「どうした?」
「…………あの人たちも、たいせつなひとのために戦ってるの?」
テトは言葉を詰まらせた。目の前の魔女はその瞳に今までとは違う迷いを濁らせていた。
「…………ああ。彼らは自分たちと、自分たちの大切な人の未来のために闘っているんだろうな」
「そっか…………。でも、それでもわたしは……」
ロラが立ち上がり腰鞄のベルトを引き締めた。
「行くのか?」
長い睫毛が肯定するようにゆっくりとまばたきをし、テトは少し躊躇うような仕草をしたが結局肩に飛び乗った。そのまま、戦士たちの進撃に続き、血の香り漂う魔女の巣窟へと向かった。
役割を放棄した都市を囲む外壁は、ただただ全てを受け入れる。
雲はさらに厚くなり地上へと降りてきていた。夜のように暗く、だが、この闇は誰も祝福しない。
「お前はグルーニィについて何か覚えていることはないのか?どんなことでもいい、ただの思い出でもいい。しかし、お前がどんなことをするにしてもある程度の戦闘は避けられない、彼女の魔法についてや戦い方で分かることがあれば援護のためにも私に共有してくれ。できれば……お前には好ましくないと感じるだろうが戦士たちにも共有しておいた方がいいと私は思う」
街の中は荒れに荒れ、戦いの残骸かウイブの死骸が転がっていた。その間を戦士たちは慎重に進み、テトたちは最後尾の少し距離を開けたところでひそひそと話していた。
「…………わたしは、グルーニィが好き。みんながどんなことを言っても、ウイブをつくってたくさん人間を殺したって聞いても、なんだか実感が湧かなくてよくわかんない。あの子はわたしが大好きで、わたしもあの子のことが大好きだから。でも、それとおんなじかもっとわたしのことが好きだったモリーにあんなことされて、それでもどうにかして助けるんだーって思ってたけど、あの人間たちを見てたらなんかよく分からなくなってきちゃった」
小石を蹴飛ばし、死肉を跨いでロラは自分の内側に生まれた処理できない異物を打ち明ける。せっかくできた友人たちはロラの聞きそびれた作戦とやらに駆り出されたようで、有事以外で前線には顔を出さないという。今すぐにでも血の魔女と顔を合わせたいロラとは残念ながら行動を共にすることができず、さっそくテトたちは一人と一匹に戻っていた。
「ねえテト、あの子は本当に悪いことをしてるの?みんなの言うようなことを本当にしてるの?わたしはあの子たちに関しての記憶だけをもって目覚めたの。それは、あの子たちを助けるためでしょ?託された燃えるようなこの想いもあの子たちを求めてる。それもわたしがあの子たちの慕う存在で、救世主になるためじゃないの?そうじゃなかったらわたしは……どうすればいいんだろう。ねえ、テト、グルーニィはわるい存在なの?」
道に迷い、通りすがりの人に藁にもすがる思いで帰り道を聞く子どものようだとテトは感じた。そういう目を今のロラはしていた。自分が信じて止まない道が、関わりを持った人間たちの言動の影響を受けて、先の見えぬ薮道にでも変わってしまったのだろう。テトにはロラが酷く不憫に見えた。
「…………私はお前に同情する。記憶のほとんどが欠損し、唯一辿れるものを頼りに精一杯足掻くのは苦しく不安も多いだろう。だがそれでも大切だと信じるもののために一途に進むのは美しいと思う。私がお前に協力する理由の一つでもある。――――だが、共感はしない。できない。なぜなら私含め産まれたときからこの時代を生きる者にとって、魔女は絶対悪だからだ。お前が彼女たちとどういった関係で、どのような感情を持っていたとしても、魔女を助けたいとは思えない。お前が見たり聞いたりしたことを実際に体験したとしてもそれは確実にないだろう。そんな状況で彼女たちを救う可能性のある方法は一つしかないんだ」
その方法で思い浮かぶのはたった一つ。
「わたしが、あの子たちに認知されて話を聞ける状態にすること」
「そうだ、そして完全に敵意を無くし無力化して、皆が納得できるまで人々に尽くせる。それができなければ諦めるしかない。――誰もが、私がそう判断せざるを得ない理由は、この街でいずれわかるだろう」
テトがそう言い切ったということは、それだけ確実にグルーニィという魔女はロラの望むすがたではないということだった。
ロラの顔に影がかかる。ロラもその頭で、望みが薄いのを理解し始めたのだろうとテトは感じた。
「そっか…………。いいよ、あの子のこと、覚えてる分話すよ」
壊れた玩具を転がし、真っ黒なブーツで死骸を踏み潰しながらロラはグルーニィについて話し始めた。
イタズラに喧嘩、食い意地や世話焼き、猟奇的で過激な性格とそれに見合った魔法。懐いた者にのみ見せる顔。
「特にあの子の血には――」
「おい金髪、一度だけ忠告してやる。魔女の血には触るな」
いつの間にかダルエニが二人のいる最後尾までやって来て突然そう言った。
話を遮られたのが癪なのかそもそもこの男が気に入らないのか、ロラは外敵を見るような目をしたが、自分に忠告するためにわざわざここまで来たということに気がつくとそれは和らいだ。それでもどこか、相容れない相手を見る目だ。
「はっ!お前が何を考えてるか知ったことじゃねえが、俺はお前が助けてくれって言ったって助けてやんねぇからな。せいぜいままごとに夢中になって死なねぇよう気をつけるんだな」
嫌味なのか警告なのかそれともその両方なのか、なんにせよ律儀な男だ。言いたいことを言ってさっさと戦士たちの集団に戻っていった。
「あいつが言ったことに間違いはないか?」
「うん」
「つまり知らなかったのは私だけなのか……まぁそれならそれでいい。で、彼女の血はなぜ触れてはいけないんだ?」
「グルーニィは自分の血を操れるんだ。自分の血が混じった血もね。どんなに離れててもどんなに少なくても、彼女の思い通りに」
どこか自慢げにロラは話す。
テトは思った、今までの経験を受けてもロラはいまだにこの世界の魔女がどういったものに堕ちたのかうまく理解できていないのだと。そこには、楽観的というよりも、こうであってほしいという願望がはらんでいるのだろう。自分の大切な人たちなら大丈夫だろうと。眼前に突きつけられるまで目を逸らし、無い未来を夢に見ているのだ。
だが、テトは魔女の末路を知っている。だから、これから直面することに彼女の心が壊れてしまわないかと心配し、哀れんだ。
同時に、そんな彼女に頼り、彼女の言う理想の解決法に少なからず期待している自分がいることにひどく嫌気がさし、頼ることしかできない自分の無力さに絶望した。
「それは……恐ろしい魔法だな」
テトは心の底からそう思った。
家々の隙間を三つの集団に分かれて進んでゆく。目指すのは街の中心部にあるとされる広場。
かつてはそれなりに栄えていたであろうこの街は死んでおり、ロラたち以外の生物の気配は感じられない。グルーニィを追ったという戦士たちの気配さえも。
「っ……!」
ロラが身体を強張らせた。首の無い細い巨人が道端に倒れていた。複数の体をくっつけて無理やり引き伸ばしたかのような醜悪な体には胸を貫かれた跡がある。
そして、それを境に奥は混沌と化していた。
石畳の地面や建物が赤く染め上がり、その建物はもはや瓦礫と言っていいだろう有様だ。そこかしこには真っ赤に染まったブヨブヨとした肉塊があった。
「血の魔女の玩具だ。動かねぇあたり、レイスたちがやったんだろう」
「仲間の亡骸が一つもない、あやつらは上手くやっておったようじゃな」
「忘れたか爺さん、あんたらのご先祖サマ方の情報によれば、血の魔女グルーニィは人間も動物もかまわず喰う。きれいに残さずな」
「………………そうであったな」
ダルエニと話しているのは長い白髪を後ろ手にまとめた老人で、教会内で勧告をしていた人物だ。目だった武器は持っておらず、拳に一対の金属の爪のような物を携えていた。
「地面の血はどうする、奴の血が混じっておるかもしれんぞ」
「かもしれねぇがこれを見ろ、まるで血管みてぇに脈打ってやがる。前、半年前来たときはこんなものはなかった。今までどこに隠れてたか知らねぇが、つまりこれは奴が活発に活動を始めてから出てきた可能性が高いってことだ」
赤い地面は石畳の隙間を縫いながらミミズが這う速度よりも遅いが広がっており、時々波打っては石畳を濡らしていた。
「こんなのがもし、生き物みてぇにすくすくと育ってみろ。ほっとけば郷里はあっという間だ。だから、今、行くしかないってことが今決まった。地面の血が跳ねないように注意して行くぞ」
戦士たちが続々と死地へと踏み出す中、血の臭いがすでに染み込みかけた金色の髪の女はその塊を見つめていた。
「これを……あの子が…………?」
黄金の瞳には赤い塊が浮かんでいた。一度かつての仲間に殺されかけているにもかかわらず、その瞳はそこに映るものよりも真実かも定かではない形のないものに縋り付いているようだった。少なくともテトにはそう見えていた。
(ロラの精神は子どもではあるが馬鹿ではない。理性では戦士や私の言うことによく耳を傾けているはずだ。でなければこうも迷わないだろう。だが、それをこいつの言う使命とやらが、強烈な感情が押しとどめ、彼女の判断を鈍らせているのかもしれない。彼女にとってはまだ、魔女は救うべき存在なんだ)
顔に影がおちたロラを見たテトが静かに口を開いた。
「お前は感情がすぐ表情に出る。あまり目立つようなことは控えた方がいい」
「わかった……」
はたして本当に分かっているのだろうか。テトが不安定に揺れる肩の上でそう呟いた。
広場の対岸では血の粉塵が舞い、現れては消える陽炎となって地獄を演出している。血生臭さは鼻や髪に纏わりつき、その場にいるだけで吐き気すら催す。いつの間にか風は止んでしまった。そのせいで重苦しい死の空気がこの街の中心に集まり留まっている。黒かったはずのブーツは腐った血で染まり、粘り気のあるそれは絶句している若い魔女の心のように重かった。
広場の中心部、繁栄と平和のシンボルとして人々から愛された噴水は今、血肉に飢えた化け物が人を喰う食卓へと成り果てていた。グシャり、ブチりと肉を噛み千切り、ボキり、バリバリと骨を折っては噛み砕く音が、空気すら止まったこの広場で唯一時が流れていることを感じさせた。
「おい…………あれって……斥候の奴らだよな…………」
ロラの前で一人の戦士が呟いた。
噴水の砕けた縁の上から恐怖に歪んだ男の顔がこちらを見ていた。男の体と思しきものは足以外には見えない。その足はピンと伸ばされて横たわり、ぴくぴくと上下に揺れている。足は体に繋がっているようだが体は見えない。なぜなら、怪物の背中に遮られているから。
怪物は猛獣が獲物に食らいつくように、男の脇腹にかじりついては貪り喰っていた。内臓が破裂し、吐しゃ物の臭いが空気中に広がる。零れた体液が噴水に溜まった血の海に零れ落ちた。
ロラは言葉を失っていた。
長い長い、赤い赤い髪が咀嚼音とともに揺れる。髪に隠れ横顔を見ることすら叶わない。
それでもテトは確信した、あれは、間違いなく、血の魔女グルーニィであると。
(今までも狂った魔女はたくさん見てきた。だが……間違いなくこいつは別格だ…………!なんだこの……心臓が震え上がるような感覚は)
「若い奴らを後ろに回しておいて良かったな。さて、さっさとあの気持ち悪いのを片付けるとしようじゃねぇか」
ロラを除いた戦士たちは強く頷いた。
「わたし……」
「金髪は好きにしろ。願望を叶えるにしろビビッてここで諦めて帰るにしろ俺は何も言わねぇ。お前は郷里の戦士じゃねぇからな。元々期待はしてなかった」
ロラ以外の戦士たちが殺気立ち、彼女を置いて戦場へと一歩踏み出した。
「作戦通り二班の奇襲から行くぞ」
ダルエニが片手を路地裏から出し、手のひらを小さく振った。ダルエニたちの後方の屋根上で待機していた男がその合図を確認する。
(彼はたしか二班の班長ロビンだったか。隣にいる子どもは無理やりついて来た…………そう、フェリだ。つまり…………)
二班の班長ロビンがダルエニから受けた合図を同じように待機していた班員に手を振って伝えた。
クロスボウの狙撃に長けた二班の面々は扇状に展開している。グルーニィの向いている方向を十二時の方向とするとロビンは六時、そして四時と八時の屋根と三時と九時の建物内にそれぞれが潜み広場を囲っており、呑気に彼らの仲間を貪り喰う怪物の後頭部に狙いを定めている。
狙撃手が矢じりの先端に鋭利に磨がれた火打石をはめ込み呼吸を整えている。矢じりには炸薬が仕込まれており、強い衝撃が加わると小規模ながらも爆発を起こす。怪物だとしても無防備な状態なら即死もあり得るだろう。矢筒には他に矢じりの真っ赤な矢も入っていた。魔石をはめ込んだものだ。歪な形をしており精度は悪くなるが、魔法の原動力となるそれはそれ自体が魔法そのもののようであり、どんな魔法の防御をも貫通することができる代物であった。
猫の耳が屋根の上の彼らの会話を捉えた。
「やっとあのクソ野郎の頭にぶち込める。へレクトロをあんな惨い姿にしやがって、狂気に堕ちてようがこの報いは受けてもらう!」
ロビンが魔女への呪詛を口の中で囁いていた。あらかた吐き終えると傍に控えていた少年に話しかけた。もちろん標的からは少しも目を離していない。
「フェリ、合図は君に任せる。君の友人たちも準備は良さそうか?」
怯えた様子の少年は震えながらも頷いた。今にも泣きそうな目には不安と恐怖が渦巻いている。なぜこんなにも臆病なのに戦士として地上に出ているのか、ロビンは少年の様子に呆れているようだが、同時に笑みをこぼした。
「君は死なないさ。君は勘が鋭いんだろう?だから反対しつつもここに来た。なにかできると確信して。任せなさい、我々が奴を狩ってみせるから」
そんな言葉を貰った少年は覚悟を決めたようで、片腕を東西の屋根にそれぞれ待機していた友人のニコリとクレマンスに見えるように高く上げた。それぞれの屋根からそれに対しての反応が返ってくる。二人の側にも同じように腹ばいになった二班の狙撃手が構えていた。
作戦では、初撃を三方向三人同時に行い、そのタイミングは班長の隣にいるフェリが、そして彼の友人二人がそれを残りの班員二人に伝える。そして、万一外したり仕留めそこなった場合の予備として東西の建物内に待機した二人が牽制を行い、団長率いる地上部隊が仕掛けるという手筈になっている。それが最も被害を抑えた最も成功してほしい作戦だった。テト自身もそれで終わってくれればいいと思っている。ロラには悪いが、気が付く間もなく死んでほしいと。
重く湿った空気が咀嚼音に震え、張り詰めた息が時々途絶える。
ロビンが引き金に指を掛けた。
建物の陰にいるロラはまだ、動かない。肩の上から見える横顔は酷く思い悩んでいるようで、その視線はグルーニィと、全神経を前方に向けている戦士たちの背中を反復していた。
(危ないな、もう少し明るければこいつの分かりやすい表情をあいつらに見られるところだった。――――今足元を這う血管のようなものがここ最近出てきたものだということ、それも少しずつ成長しているということ、血の魔女が活発になりだしたということ。…………こうなると、ダルエニの言うとおり放置はいい選択ではない。今すぐ排除しなければというほどではないが、後戻りしたとしてすぐに戦力を整える必要があるが、元々彼らに引く気はないだろう。だが…………)
テトは葛藤する黄金の瞳を隣から不安げに覗き見た。
(この戦い、勝算はあるのか?奴は今までにない気配を纏っている。――――ロラ、お前も恐怖に震えているじゃないか…………)
わずかに揺れる肩の上で、テトはロラの顔に身を寄せた。
フェリが息を殺し、片腕を垂直に上げた。離れた位置の友人たちも同時に腕を上げる。
戦士たちが武者震いと言い張る震える指で得物を強く握り、憎き敵を睨む。
フェリが大きく息を吸った。
ロラはまだ、動かない。ただ、口を微かに動かした。
「グルーニィ…………あなたは…………もういないの…………」
わずかに震えたその声はか細く、今にも消え入りそうだった。寄り添おうとしたテトは、その声を聞いた瞬間動きを止めた。ついさっき自分で言ったじゃないか、「共感はできない」と。テトの願いはグルーニィの死か無力化、ロラの願いはグルーニィの救済。初めから望みの薄いロラの願いにまったく期待していないわけではなく、むしろ叶うならとも思っていた。しかし、そんな夢を見るわけにもいかず、テトは心から寄り添ってやることなどできはしないのだ。
(私は…………人が傷つく姿が嫌いなんだ)
「…………ロラ、お前にはこのまま何もかも忘れて帰るのも選択肢としてある。お前にとっては家族同然だということも理解したさ。だが、だからこそ目を背け、逃げることに対して誰が何を言うこともない。あまりにも……見ていられないだろう」
テトの言葉はロラの表情をわずかに変えさせた。
「そう……なんだ、あの子はわたしにとって家族みたいなもの。大好きな、たいせつなひと。どんなに醜くても、どんなに罪を重ねても、それは、変わらない」
ロラが胸を押さえ、自分の感情や想いを確かめるように静かに叫ぶ。それはロラがロラ自身に訴えかけているようにも見えた。そして、暗がりから遠い背中を見つめた。
「変わらない、変わらないはず…………!そうなはず、そうなはずなんだって!じゃなきゃこの想いは、わたしはなんのためにいるの!わたしは何を託されたの!……………………お願い、証明させて、あなたたちへの記憶や想いが、あなたたちを救うためのものだってことを」
ロラが鞭を解いた。
(ああ……ロラ…………)
テトの耳がごく小さな風の音を聞き取った。
フェリが腕を振り下ろす動作の前兆を、彼の幼馴染のクレマンスとニコリは見逃さなかった。それによって完璧に同時に合図が下された。耳元で微かな風切り音を聞いた三人の狙撃手が引き金を引き絞る。
今、矢が放たれる。
その瞬間、テトは寒気を感じ広場の方へ顔を向けた。グルーニィは食事を続けている。しかし頭上では、勘が人一倍いいとされるフェリ少年が振り下ろした腕をそのままに、引きつった顔で身を屈めようとしているところだった。血の魔女は背中を向けている。それは間違いない。なのに――――。
時間は止まらない。すでに引き金は引かれている。すべてがスローモーションの世界で、テトは何をすることもできなかった。ただ、見ていることしかできなかった。
直後、屋根についていた一滴の血痕から長大な槍が生え、放たれたばかりの空中の矢じりを貫いた。あまりの速さに火打石から火花が散り、内包されていた炸薬に触れた。その間は瞬きする間もなかった。
頭上と東西の屋根から本来聞こえるはずのない爆発音と悲鳴が耳に轟く。奇襲は失敗し、逆に多大な反撃を受けた。だが、始まってしまった以上、戦士たちは逃げることなどできない。逃げることなどしない。
迷う間もなく、戦士たちが飛び出していった。
血の魔女がこちらに気がつき髪の隙間から鋭利な歯を覗かせた。それを見た途端、霊猫越しにテトの心臓は大きく跳ね上がった。
(まずい……まずいまずいまずい!本能というものがけたたましく騒いでいる!モリーのときと同じだ、モリーの悍ましい名声に隠れていただけで、やはりこいつもただの魔女ではない!)
テトは肩の上で目の前の耳に叫んだ。もうひそひそと話す必要はない。
「ロラ!私はお前に協力する際死にに行くようなことはするなと言ったはずだ!これはあまりにも危険過ぎる!今ならまだ間に合う、帰りたいと言え!そしたら私が――うにゃぁっ!?」
ロラがシャツの胸元のボタンを外し、そこに喚く猫を押し込んだ。猫はなんとか谷間から頭と前足を外に出す。
「ありがとうテト、でも、わたし行くよ。狂ってても、世界の誰からも恨まれてても、わたしはこのまま見捨てるなんてできない。グルーニィを信じてるから」
その目にはまだ迷いが見える。
「お前は……っ!お前は、怖くないのか」
テトの絞りだしたような声がロラの耳にまとわりつく。本人が意図していなくてもそれは、ロラの瞳に宿る決意を強風の如く揺り動かす。
「生きて帰れる保証はない、死ぬかもしれないんだ。あの場に出た瞬間、選択を間違えればそれで終わるんだ。それに――――現実は酷だ、お前は生きる希望を失うかもしれない。わけのわからん存在であるお前なら魔女をどうにかできるのかもしれない。わたしもそれが一番いいと考えている。それが叶えばいいと思っている。だが、魔女の生み出したこの狂気の歴史は魔女が魔女でなくなったことを証明している。お前の知るグルーニィがグルーニィでなくなったとき、お前はどうなってしまうんだ。お前は壊れてしまわないか。お前は何を感じるんだ。お前は、私たちを裏切ったりしてしまうのか?私は…………怖いんだ…………」
テトの紅い瞳が懇願する。無力な子どものような瞳。それをしたところで結果が変わることはないと分かっていても、願いにしがみつき、やらずにはいられない、渇望者の瞳。ロラが瞼を閉じて無理やり目を逸らした。
テトは自分の言っていることが当初言っていたことと矛盾していることは理解していた。協力すると言っておいて直前で帰ろうなどと自分勝手も甚だしい。だがそれでも言わずにはいられなかった。
理性では彼女にさっさと酷な現実を見せ、彼女が魔女か自分たちどちら側なのか見定めるというものと、ひとかけらにも満たない平和的な希望のために検証するというもの、戦士たちと共に暗雲の先にある勝利を少しでも確実にするという三つの意味も込めて戦いに出るべきだと理解していた。
だが、それを別の理性と大きな感情が乱していた。
まず第一にあまりにも危険すぎた。相手は戦争を生き抜き多くの功績を上げた真の英雄であり、戦士たちと共闘したとして五体満足でいられるかも分からず、全滅すらあり得る相手だ。ロラに言ったとおり、無謀な戦いをテトは許さない。グルーニィが動き出した瞬間、テトはこの戦いが無謀に近いものだと直感していた。ロラがここで大きく傷つけば籠の未来が危ぶまれる。そして、それとは別に、普段理性的な彼女らしくなく、感情的な面も大きかった。哀れな迷子の魔女の願いが叶うことはほぼ在り得ず、この歩みは確実にロラの心に大きな傷を作る。テトにとってロラは特段特別な存在ではなく、幽居の籠の人間たちとは比べるまでもない。最低でもテト自身の理性はそう思っていた。それでも、こうも実直に希望にすがるロラが目の前でズタズタに傷つくのを黙って見ていられなかった。誰かが傷つく姿を見るのが彼女は怖かった。彼女は弱かったのだ。
硬く瞼を閉じ、一つ息を吐いてロラが口を開いた。
「…………頭の回らないわたしでも、そんなことくらい分かってたよ。でも、それでも願わずにはいられないの。まだあの子にはチャンスがあるって、まだやれることがあるって。ごめんね、テトに色々考えさせちゃって。それともう一回ごめん、一度だけわたしにもチャンスをちょうだい。それでなにも分からなければ…………」
ロラはそれ以降の言葉を迷っているようで言葉を詰まらせた。赤色の瞳が迷うように揺れる。続きの言葉を待ち、待ったところで何も変わらない諦観する。そして、途切れたそこまでの言葉を信じると判断した。
「…………わかった。だがお願いだ――――絶望や死ぬことは許さない、そんなことをしたら…………ぶん殴るからな!」
「――!?ふふっ、大丈夫、ありがとう」
ロラが耳の垂れた猫を胸の隙間に入れたまま、路地裏から噴水の広場に飛び出した。すでに戦闘は始まっている、この時点でもう二人分の断末魔が広場から上がっては掻き消えていた。
「血の槍」
地面の血だまりから大小の赤い槍が生える。また一人、次は断末魔を上げる間もなく頭を貫かれて動かなくなった。それでも戦士たちは怯まない。
「爺さん!」
「分かっておるわ」
金属のかぎ爪を両手にした老人が、水中を泳ぐ魚のようにぬるりとグルーニィの懐に潜り込んだ。流れるような動きは振りかぶった鈍く光るかぎ爪を自然に隠し、まるで突然回避不可の距離に刃が迫ったかのように錯覚させる。
「っ!?ぬうっあぁ!?」
だがそれは並みの相手であったときの場合だ。グルーニィは放たれた直後の矢を止められる。その程度ではままごとだった。血の槍が爪を弾き、屈曲して老人の脇腹を抉った。
すかさずダルエニが大鉈を振るう。
「オラァァッ!!」
死角から大鉈が地面ごと引き裂く勢いで振り下ろされる。グルーニィはそれに気づいているようだったが、屋内から狙いを定める一矢や腹を貫かれて倒れかけている老人の背後からの殺気にも気づいていたようだ。そこでやっと、グルーニィは食事を止め、後ろに跳躍した。彼女を立たせるのにどれだけの犠牲と重傷者をだしたのか。早くも戦士たちの額には汗が滲んでいた。
「アアアァ、フヒィッヒヒヒ!」
それはまさに異質と言わざるを得なかった。
ひらひらしたフリルの付いたスカートと袖口、それ以外に目立った華やかさや派手さはないが、素朴でどこか可愛らしいデザインと、それでいて黒を基調とした大人しい配色。舞踏会で見かけたら一度は目を止めてしまいそうなドレスと、その上から羽織った征戦魔女の徽章が施された漆黒のボレロ。明らかに、こんな血生臭い場所に不釣り合いな衣装がそこにはあった。
だが、それを着ているのはこの有様を作った張本人である。
腹には大穴が空いており、食道を通過したものがそこから落ちては不快な音を立てて落ちる。体液がドレスにかかりシミを作るが、不思議なことにシミは数秒も経たずに消えて元のきれいなドレスへと戻った。
異色の怪物が笑い出す。前髪が目の全体を覆い正確な表情は把握できないが、ギザギザの歯を出してニヤつく血肉で汚れた口からはとても愉快そうに見える。さらに、前髪の左半分は腰まで伸びており、二股に分かれたその毛先の間には鋭く白い突起が並んでいた。まるで子どもの描く化け物の口のようだ。
醜悪で邪悪、いまにも叩き潰して灰も残らず消し炭にしてやりたい衝動が戦士たちの身体を駆け巡る。
しかし、自分の祖父母よりも年寄りなこの怪物を灰燼に帰すにはあまりにも多くの犠牲が伴うことを彼らは本能的に理解していた。その犠牲に自分自身が含まれることも。
「チッ、気持ち悪い笑い方しやがって、そんなに楽しいか」
「ヒヒヒッ、アヒヒヒッ!」
グルーニィは笑っている。愉しそうに。この数分で何人も人間を殺しておきながら。
「団長」
「ああ分かってる、立たせちまった。勝てる見込みが大分小さくなっちまった」
刃に反射して映る、仲間の亡骸を見たダルエニの手に力が入る。
戦士は命懸けだが、命が軽いわけではない。
長い年月をかけて培ってきた戦いの技術や生存戦略を後継に託すためには自身も生きなければならない。養われた技術をさらに昇華し身に着け熟達させていく彼らの努力は日々の積み重ねであり、日常であり、こうもあっさり失われていいものではない。夢を抱き、いつか来る平和のために命を捧げ、英雄へと至ろうとする彼らにも、帰りを待つ家族や友人がいるのだ。仲間内であればそのつながりはより強い。
揺るぎない覚悟を決めたダルエニに対し、グルーニィはニカりと歯を見せた。真っ赤に染まった歯の中でも、右片方の八重歯がどす黒く変色していた。それは魔石であり、グルーニィの入れ歯型の杖だ。
グルーニィは自身を産んですぐに死んだ魔女の魔石をはめて杖として扱っていた。それは数百年経った今でも変わらないようだ。
「血縁」
血の魔女が魔法を唱えた。
中央の噴水に溜まった血の池からそれらは起き上がった。
粘ついた赤い液体が重力に従って流れ落ち、その姿を露わにしていく。やがて噴水に三体の人の形をした何かが現れた。どれも大柄なダルエニより二回りは大きい。体中から血管が飛びだし触手として蠢いており、頭は上顎までは生前の人間のようなのだが、下顎はなかった。いや、正確にはあるにはあるのだが、いくつもの人間の下顎が顎関節から羅列し、逆さのアーチ状となってぶら下がっていた。まるで顎でできた大きなネックレスだ。
戦士たちの顔にありありとした恐怖が、怒りが宿った。あれらは彼らが斥候と呼んでいた、数刻前まで生きて未来を語った仲間たちだった。
「エヒヒッ、ご飯はなァ、皆で食ベタホウがオイシイんだゼ」
グルーニィはニヤニヤといたずらな笑みをうかべた。髪の先に付いた口がゲラゲラと嗤っている。邪悪この上ない化け物の仕打ちは大男に強い怒りを与えた。
「テメェエエ!!」
ダルエニが感情を露わにし、その直後、男の絶叫が響いた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ア゛!」
新たに生まれたウイブの体中から生えた触手が戦士の一人を瞬く間に締め上げて拘束した。そのまま引き寄せ、光を失った目で男を見つめる。哀れな男を救うべく我に返った戦士たちが切りかかるが、魔法の力で凶器へと変貌した血管がそれを阻み、残りの二体も同様にその凶器を遊ばせて戦士たちの行く手を阻んだ。その間にも男はウイブの目の前に運ばれていく。顔を見つめるような仕草をしたあと、ゆっくりと男の大きな体を傾け、ぶら下げた下顎のアーチの輪の中に男の体を通した。
「そ、その顔、エイガじゃねぇか……。な、なんだよお前こんなとこにいたのかよ。ほ、ほらエイガさっさと帰ろうぜ、なぁ。お、お前のへそくりの場所ばらしたのは謝るからさ。だかっ、だからまた家畜の世話でもしようぜ。なぁ…………なぁなぁなぁなぁっ!だからっ、だからやめてくれよぉぉ!いやだぁぁっ!やだやだやだやだ死にたくない!英雄なんてならなくていいから見逃してくれよおぉ゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛!だれがだすゲェェ゛ェ゛ェ゛――――」
逆アーチ型の下顎が男をその中に通したまま閉塞し、左右から挟んで、両断した。下顎はただぶら下がっているだけであり、それ以降の器官にはつながっていない。ただ殺すためだけの顎だった。上下に真っ二つにされた男の死体がぼとりと落ちる。戦士たちはその衝撃に身体を強張らせた。
「イヒッヒヒヒヒヒヒッ!お腹ヲ満タセればシアワセで、嬉シイなァ!」
グルーニィは快哉を叫ぶ。人間たちが見せる様々な感情の汁を啜り、その味を口の中でふんだんに味わっては舌なめずりをする。自身の加虐欲と喰欲が合わさった歪んだ欲望を埋めてくれる、そんな都合のいい玩具を見つけて喜んでいるようにも見える。今の彼女にとって生者はただそれだけの存在でしかないのかもしれない。
「ヒヒヒッ、如何シタ?戦エヨ。オレでも、オモチャでも、どっちデ遊ンでもいいゼ」
グルーニィは大袈裟に両手を広げ言った。狂気と純粋さの混同した不気味な気配と、大男の感情渦巻く目がぶつかる。ダルエニは奥歯が鳴るほど強く歯を食いしばり、それに答えた。
「…………ああ、いいぜ、魔女サマの望み通り遊んでやるよ。お前ら!俺はにやけ野郎を殺る、お前らは触手野郎を――」
「む、むりよ…………」
一人が言った。その戦士は元仲間のウイブを見たまま震えている。
「あ、あたしには無理……こんな、こんな仲間の顔を残したウイブなんて初めてだもん…………団長は、できるの…………」
「お、おれも……だちの頭をカチ割るなんてできねぇ」
全員ではない、だが確かな数拒絶する声が挙げられ、その数を徐々に増していった。それは戦士たちの戦意を指数関数的に奪っていき、問題のない者ですら段々と気圧され、自身の志が傾いてゆく。見かけの数は多くとも、実際に戦える者はもう少ない。元々大きかった戦力差がたった一つの弱音でドミノ倒し的に崩れ、強い信頼関係でつながれた部隊を自壊させる。
「お、お前ら…………」
「なんだァァ?戦わナイのかァ?腰抜ケどもめ。じゃぁイイや、オレを楽シマせてくれナイんだったら――――メシの続きにシよう。オトモダチどもハ一人ずつな、残りハぜんぶオレのだカラ」
グルーニィが一歩進んだ。ただそれだけで死を確信するのには十二分な事だった。三体のウイブたちもどんなランチにしようかと、立ちすくむ戦士たちを見回し、ゆっくりと触手を伸ばしながらおぼつかない足取りで迫りくる。
本能から、己の体から勝ち目はないと警笛を鳴らされ、周りのあらゆるものから自分が生存する未来を否定される。誰もが理解しその運命に従おうとする中、団長であるダルエニはまだ折れていなかった。
「おい腰抜け食い意地野郎、言ったよなぁ俺が遊んでやるって。俺意外に目移りするなんて、まさか俺にビビッてんのか?」
前髪の裏でグルーニィの眉根がピクリと動いたように見えた。口角が上がり、肉片の挟まったギザギザの歯が覗く。グルーニィの表情の変化にダルエニは目を見開いた。
(こっちの言葉に反応した?いや、偶然か……?)
「イッヒヒヒヒッッ、アァァッヒヒヒヒヒッッ!」
耳につんざく嗤い声が廃都の中心部に響き渡った。聞いているだけでも気が狂いそうになるそれは、蔑みや嘲りをふんだんに含み、しばらく続いた。耳を塞ぎたくなるようなそれが終わると、怪物の口から笑みが消え、無機質な死者の顔が現れた。道徳を忘れ欲に溺れた魔女の枯れた表情は背筋を凍らせるには十分すぎる。
そして怪物は休憩時間の終わりを告げた。
「木偶ノ坊ドモ、やレ」
剥き出しの喉から叫び声にもならない音を発し、永遠に腹を満たせない怪物が腹を空かして動き出す。
無敗の征戦騎士を屠った戦士たちの実力も、意思の力がなければ刃こぼれして使いものにもならない。彼らの戦意は底につきかけていた。
一人二人と触手に絡まれ、それでも絆という鎖に縛られた彼らは手を上げられない。そんな様子をグルーニィは魔石の嵌まった歯を覗かせて楽しんでいた。
魔石とは不変の石である。物理的に破壊することも変形させることもできない。唯一魔法の力だけがその姿を自在に操れた。そんな、ダイヤモンドよりも硬くルビーよりも衝撃に強い魔石が、優に音速を超えた速度で人体に当たればどうなるだろうか。
その答えは、今、彼らの目の前で明らかになった。
二十代半ばの女戦士が涙を流しながら怪物と成り果てた仲間からの最期の贈り物を受け取ろうとしたその瞬間、破裂音とともに怪物の首が吹き飛んだ。肉が弾け散り、粉々になった骨を内包した血肉が戦士の目の前をかすめ通る。
戦士の目に映るは見慣れない人物。今日飛び入りでついてきた金色の髪をもつ美しい女。魔女と話すなどと語るイカレた奴だ。ローブをマントのように羽織り波立たせるさまは細いくせにどこか勇ましくもある。
その胸元にひょっこりと顔を出していた青白い猫が戦士の無事を確認するとともに、足元に転がる真っ二つになった男の亡骸を目を細めて見つめて呟いた。
「フル……、結局最後まで分かり合えることはできなかったか。大ばか者め……嗚呼、ほんとうに……大ばか者め……」
冷たくなって地面に突っ伏す男にテトが静かに祈りを捧げた。つい先日自身を蹴り殺そうとしてきた相手だが、それでも死んでいいとは微塵もテトは思っていないようだった。これだから、戦士や戦いは嫌いなんだとテトがぼやいた。
踏んで靴底にこびりついた男の一部をつま先で地面を蹴って落とし、残る二体を視界に収める。心臓の音が体内に響き渡りここに居続けるのは危険だと恐怖が警告するが、ロラに引く気はない。短く細く素早く息を吸った。
「テト、いくよ。振り落とされないでね」
「ああ、わかっっ――!!」
言い終えるのも待たずにロラは二体に向かって走った。谷間の代わりに猫を胸元から覗かせた女を脅威とみなしたウイブが食事を中断し、花が咲き開くように体全体から触手を繰り出した。元が人体の一部であったにもかかわらず、突き刺さった地面は抉れ石材をまき散らし転がっていた死体を吹き飛ばす。
ロラの眼前にあらゆるものが迫った。
(石、死体……触手の方が速い。触手は触れたら危なそう。他は弾く!)
左右へのステップと刺剣を地面に引っ掛け空中で飛ぶ方向を変える不規則な動きで触手を躱し、鞭に切り替えて飛んできた石を弾き飛ばす。遅れて飛んできた死体に鞭を絡め、奥歯を噛み自分を中心に振り回し勢いを殺さずに送り返す。二波目の触手がそれを貫き、しかしわずかに速度が落ちた。ロラはそれを見逃さず、鞭の先端を地面に突き立て、さらに持ち手を下向きにしたまま地面に近づけた。刺さった先端と持ち手以外の鞭の胴体が蛇のようにその場に渦を巻く。そして、ロラは親指で留め具を外し持ち手を捻った。鞭から刺剣へと変形する。しかし、先端は地面に突き立てられて固定され、ロラの握った持ち手はそのすぐ直上にあった。鞭であれば大部分は良くしなり形状に自由が利くが、刺剣になればそうはいかなくなる。うねり収縮するが両端が固定され刺剣になるには十分な余裕がなく、行き場を無くした胴体が軋み、それでも設計通りに細長く一直線になろうとするそれは、やがて軽い方を力ずくで突き飛ばす。
ツヴァイの変形する力をバネのように応用し、ロラは宙を舞った。金色の髪が薄暗い地獄の空を漂い、灰色のキャンバスに金粉が一粒落ちた。薄色の世界で生まれたばかりの溌剌としたそれは異色であり、誰もが目を奪われた。
ロラは着地の衝撃に備えつつ獲物を見やる。着地点はウイブの背後。その間に再び変形させ、着地と同時に大きく一薙する。片方の首が吹き飛んだ。最後の一体が何も学習ぜずに触手を解き放つが、ロラはすでに見切っており、瞬きの間に距離を詰める。
「下だ!」
胸元の声に足元を見ると、石畳を突き抜け無数の赤い槍がみるみる成長していた。グルーニィが介入してきたのだ。
ロラがより強く奥歯を噛み締めた。
「っ!」
テトが一瞬呻いた。彼女にどれだけの負担がかかっているのか定かではないが、やむを得ない。
老朽化した石畳が蹴られたことにより砕ける。その超加速をもって槍を回避し、一気に懐へ飛び込んだ。
虚を突かれた能無しのがら空きの顎下から脳天に向けて刺剣を突き刺した。
触手が暴れることをやめ地面に落ちる。静寂が訪れた。これで終わり…………ではない!まだ触手が動いていた!触手が心臓を、テトを狙う。テトは咄嗟に魔法を唱えようと口を開くが、それ以前にロラは動いていた。
「っ……触らないで!」
短剣から放たれた爆炎が出来たての化け物の全身を焼き、触手がボロボロと崩れ落ちてついには本体も地に伏せた。
「ハァっ……!ハァっ……!」
燻る肉塊を前にして、ロラはその場に跪いた。荒れた呼吸を取り戻そうと必死だ。魔法で身体能力を強化したとしても、魔女の体力で動くには限界がある。
「ロラ、お前の体は戦士のものではない。あまり無理はするな」
「ハァっ…………。で、でも、これで……あの子に近づけた」
目線を上げた先にはグルーニィとそれに対峙する団長。恋焦がれた相手は目の前だ。
遠巻きながらあらためてグルーニィの姿を確認する。あの黒いドレスに見覚えはないが、長い後ろ髪の中腹には見慣れたと感じる帽子が半ば融合したかたちであった。テトが被っているような魔女特有の三角帽子。笠の部分には贖罪者にのみ与えられる金色のベルトと悪魔の腕を模した細長い指をもつ腕の形をした徽章、そしてとんがりには昔彼女が無茶をしたときにできた縫い跡があった。
胸の中で使命が叫んでいる。
静止するテトを無視してロラは立ち上がった。周りに目もくれず、尻尾を振ってすぐにでも二人の間に飛び込む気だ。
テトが言うことを聞かない大型犬に悲痛な声を上げるのを少し離れたところで戦士の一人が見ていた。
ほんの一分程度前のこと、ぎりぎりで真っ二つを免れた戦士が泣き喚きながら仲間の力を借りてその場を離れ、それでも目を離せなかった新参者とウイブの戦いに息をのんだ。戦士自身、背が低いわけではないが、それでも自分より何回りも大きな巨体を持つ相手。それが、ほんの十数秒で自分よりも細身の女が倒してしまった。
「あ、あいつっ!なにをしたんだ!!」
後ろから襟をつかんだまま仲間が驚愕したが、一瞬も目を離していない彼女もよくわかっていなかった。
「わかんないよ…………ただ、死体を投げ返して、武器の先端を地面に突き刺して、そしたらウイブたちの背後に周ってたんだ。そのあとは……えっと…………。で、でも……でも!ウイブは倒された。倒されたんだ!とても、喜べる気持ちはないけど……でも、魔女への道は開けた!団長が待ってる!行こう!」
一度折れたとしても戦士はまた立ち上がった。彼女らはやられたままでは黙っていられない。テトが再び立ち上がってゆく戦士たちに目を向けた。
「戦士たちの士気が戻りつつある。お前の吶喊が追い風を起こしたようだな。ロラ、少し休め。彼らが時間を稼いでくれる。…………って、話を聞け!」
ちりじりになった戦士たちが再び武器を取るなか、ロラは一人誰よりも早くグルーニィのもとへ躍り出る。ロラもまた、グルーニィをまえにして大人しくしていられないのだ。
魔法の槍に苦戦する団長(一対一で耐えている時点で満点以上だが)の肩を踏み台にし、ついにロラはグルーニィまであと数歩のところに立った。
「グルーニィ、わたし――」
「ルド・ルル」
「っ!?」
手を伸ばしたロラに容赦なく赤い槍が迫った。寸でで体を逸らせて横跳びし、槍の合間を体が流れる。背中をかすめ布が破れる音が聞こえた。だがそれだけにとどまった。つま先が地面に触れた瞬間、全身の力をそこにかけ、一気に目の前まで飛んだ。
「ガアァッ!?」
グルーニィは驚き隙を見せている。もしかしたらここで殺せたのかもしれない。だが、ロラの目的は違った。
グルーニィの額に手を当て前髪をかき上げた。自分の顔をしっかりと見てほしかった。それで、少しでも反応が欲しかった。だが、そこにあるはずの緋色の瞳は見当たらない。血の色を失った冷たい瞼が堅く閉ざされていた。血の糸が縫い糸として瞼を縫合し、外界からの光を遮断している。今の彼女にはもう、現実は見えない。
「なっ!これじゃあ。――!?」
かき上げていた前髪が蠢き鋭い歯をみせる。すぐに手を離すが長い前髪の射程内だ。右手の掌外沿付近に嚙みつかれ、喰いちぎられる。
「うぅあぁ゛っ――!」
のけぞりながら数歩後ろに下がったロラがなんとか堪えると、グルーニィは突然後ろを向いた。地面を擦る後ろ髪が前面に現れる。ロラはすぐに意図が分かった。だがもう遅い。
赤い髪の大きな束が口を開けてロラの体に噛みついた。ぎりぎり直前で鞭を体に巻いていなければこれで終わっていたかもしれない。この一撃で終わってくれればよかったが、噛んだだけでは終わるわけもなく、噛む力が骨を砕きそうなほど強くなっていった。
「ぐぅぅっっ!!」
渾身の力で奥歯を噛み締め全身全霊をもって潰されまいと抵抗した。それでもギリギリと隙間が狭まってゆく。
(ちからつよ……これ以上は魔法が……)
猫の足取りの効果時間は五秒ほど、あと何秒の命か…………というところで死ぬ気で抗ったそれが功を奏し、嚙み砕けないと判断した髪はロラを持ち上げ振り回し、大きく振りかぶって放り投げた。
ロラの軽い体が飛ぶ。景色が回り風を切る音が耳をつんざく。回転する視界の中で一瞬映る無機質な血塗られた壁に死を覚悟する。
(これ、マズ……)
「テトっ!」
小さな魔女様を頼るしかなかった。だが…………。
「テトっ!?」
反応がない。
もう一回転。想像よりも遥かに壁が迫っていた。
(だめ…………)
半回転。幸い顔からいくことはなさそうだ。
背中に衝撃が伝わる。
「ウ゛ゥ゛ゥ゛ッッ!!」
壁は案外と柔らかい。というより、柔らかすぎるような……。
勢いが完全に死に、ロラは地面に倒れた。すぐさま後ろを確認すると見たことある顔が二つ。
「ノエル!」
白髪の中性的な顔といつの間にそこまでさがっていたのか、つるつる頭のチンピラ顔がいた。
「だ、大丈夫ですか……ロラさん」
「その言葉を受け取るべきはお前だノエル。戦闘要員でもないのに吹っ飛んできたこいつを受け止めに突っ込んでいくなんてな。肋骨がいくらかイカレただろ、これ以上無茶はするな下がれ」
「嫌です。ぼくにはまだ記録と鼓舞の責務があります」
顔は可愛らしいが意思は強かだ。
「ちっ……。おい金髪、お前は出しゃばりすぎだ。ここにいるのはお前ひとりじゃねぇ。自分の力量を考えろ馬鹿野郎」
冷たく厳しいが、この男はロラとともに吹き飛ぶノエルを庇った。壁にはぶつかっていたのだ。踏ん張り大怪我をしない程度に速度を落としたのは紛れもなく団長だった。ロラも後ろの壁のひびを見てそれを理解し、さすがに申し訳なさそうに目線を落とした。
「雑魚……いや、大雑魚を殺ったのは感謝するがそれで調子に乗るな。油断したらお前も転がることになる。次は俺は見ねえぞ」
団長が大鉈を握りしめて前線に戻っていく。戦士たちの戦う音が聞こえるが悲鳴は聞こえない。テトの補助を受けたロラは戦士一人一人よりかは強い。だが、連携を取り入れた彼らには敵わない。グルーニィの魔法はもう何回か見ているのだ。何度も同じ手を食らうような者はここにはいない。
「ノエル大丈夫?ごめんね」
さりげなく胸を押さえる白髪の友人にロラは子犬のような声で無事を確かめた。
「大丈夫です、このくらいなんてことないですよ」
そう言うが声には痛みを堪える強張りがある。
「ノエル、し、死なないでね」
泣きそうな顔で本気でそう言うロラにノエルは短く笑い声を上げた。すぐに胸の痛みで小さな呻きに変わったが。
「安心してください、これでも鍛えてるんですよ。骨の一本や二本どうってことありません。このくらいでへばってたら吟遊者は務まりませんから。それに、団長さんの言うとおりではないですが、誰かがピンチのとき以外は無茶はしませんから」
ノエルは演技が苦手らしい。頬を若干引きつらせて強がっているのが見て取れる。それでもロラはその言葉を表向き信じることにした。思考力の幼い彼女でもこれ以上話を長引かせるのは良くないと判断したようだ。ロラは少し頬を緩めた。
「わかった。でも無理はしないでね。何かあったら呼んでね」
「ははっ……、ええ、もしぼくに何かあったら真っ先にロラさんを呼びますね」
「うん、次はわたしが助ける番だね」
ノエルの黒い瞳の中にロラの黄金が映った。真っ直ぐな視線は彼女の純粋さからくる専売特許だ。その裏無き視線にノエルは初め戸惑ったが、恥ずかしそうにはにかみながらも受け入れた。瞼を閉じて受け取った想いを仕舞い込んだノエルは目線を一時上げ、またロラを見た。
「ロラさん、ぼくは少し後方まで戻ります。ロラさんはどうしますか?」
「わたしは前に戻るよ。ありがとうノエル、また助けてくれて。これが終わったらいっぱいお礼しなきゃだね」
「ははっ、ええ、楽しみにしておきます。では、ご武運を」
ノエルが戦場の隅にまで退いていく。背中を向けた途端、胸を痛そうに押さえてよたよたと歩く姿にロラは眉尻を下げた。
「ロラ……無事か」
ひどくしぼんだ声が耳に届いた。さっきまで伸びていた猫が眉を下げて見上げている。
「すまない、少し意識が飛んでいたようだ。だがもう問題はない」
「ほんとに?大丈夫?」
ロラが心底心配そうに頭を撫でる。それを嫌がる元気が戻ったようで甘噛みをお返しされた。
「ああ、それに心配なのはこちらも同じだ。……お前、その怪我は大丈夫なのか?」
その言葉に今まで意識していなかった自分の体に注目が集まる。途端に痛みが全身をはしった。
「うっ……痛い」
右手には獣に食いちぎられたような傷、両腕には鞭を巻いたときにできた痣と大きく深い噛み傷、ツヤのある金色の髪は乱れて汗で顔に張り付いていた。
「一呼吸置こう。私もそうしたい」
疲れを隠し切れない声でテトが提案する。視線は戦場に向いていた。
戦士とグルーニィは膠着状態で、戦士側は出方を窺う余裕がみえる。かといってグルーニィに余裕がないとはとてもいえない。むしろ舐め腐っている。
多少頭が冷え、グルーニィがそう簡単にやられそうにないのを認識したロラは大人しく少しだけ一息つくことにした。
鞄から水を取り出し喉を潤す。それまで気が付かなかったが痛いほど喉が渇いていたようだ。咽たところでテトに落ち着けと諭される。油紙に包まれた小瓶を取り出し、緑色の粘液、ロラキートの茎をすり潰した傷薬を顔を歪めながら傷口に塗る。傷の大きなところには上から包帯を巻き、それをしている間にはもう、驚いたことに薬を塗った箇所の体外への出血が見られなくなった。緑の粘液がある程度血を吸い満腹になると、それ以上は弾いて蓋をしているようだった。手当てをしていたこの間二分弱、戦士は奮戦している。
呼吸は安定している。もう十分だろう。ロラは膝を立て、立ち上がった。
ふと、落ち着いて戦場を見渡せば見えなかったものが視界に映るものだ。
広場の対岸にはエルがいた。真剣な面持ちで手帳にペンを走らせている。吟遊者として戦士たちの英雄譚を記録しているのだろう。こういった場面では真面目なようだ。さらに周囲を見渡せば、端の方で手当てをする者、装備品を整備する者、陰で何やら組み立ている者とさまざまだ。あの何かを組み立てている戦士は道中班分けしてロラたちから離れた者たちのようだ。ここにいる戦士は到着時点で四十人、皆が皆前線に立つわけもなく、自身の役割を全うしている。奇襲に失敗した二班のうち、反撃にあっていない狙撃手も、いつ流れ弾で破壊されるかわからない建物の中で仲間の死を目撃しながらもいまだに獲物の頭を狙っている。団長の指示や戦況に変化が起きれば彼らは迅速に対応できるのだろう。
ロラは目線をぐんと下に下ろし、半透明の丸っこい頭に言った。
「テト、わたしまだ諦められない」
あの瞼をこじ開け、その下に隠れたまなこに訴えれば何かが変わる。ロラはそう信じるしかなかった。
案の定一回では諦められないロラだったが、実直な言葉にテトはしばし黙り、たった一言、「無茶はするな」とだけ呟いた。納得するまで曲げる気配がないのなら、本人の思うままにさせるしかない。テトの仕事はロラが死なないように祈りながらでき得る限りサポートすることだ。
「ありがと。大丈夫、きっとすぐに終わるよ。それに、さっきノエルに怪我させちゃったんだ。早く休ませてあげないと」
「そんなことが…………なら、ノエルには後で謝罪と礼をしなくてはな」
休憩は十二分だろう、そう二人は同時に思い前を見た、その瞬間――――空気が弾け、炎が吹き荒れる爆発が視界を埋めた。爆音と火の粉と砕けた瓦礫が飛び散り、遅れて肌が熱を感知する。熱風から目を守りつつ身を屈めテトを護る。
目の焼けそうな熱風が過ぎ去りなんとか顔を上げると、それはなんともひどいありさまだった。
グルーニィのいた場所から高く灰色の煙が上がり、同じく煙を上げる戦場の隅にたたずむ小型の簡易的な大砲。ついさっきまで組み上げていた代物だろう、手際がいいにも程がある。
大煙の立ち昇る着弾点からわずかに離れた建物の陰から前線を支えていた団長たちが顔を出す。テトの言う無茶もあそこまで過激ではない。もはや馬鹿と言ってもバチが当たることはないはずだ。
「グルーニィ!」
ロラが叫んだ。もくもくと昇り続ける硝煙が魔女の安否を不確定にさせている。
「あ……グルーニィ…………そんな…………」
ロラは盲信していたのだ、グルーニィの強さを。
「まだ……なにも…………」
ロラは侮っていた、戦士たちの強さを。
およそ数百年間魔女から住処を護り通し繫栄してきたのは伊達ではない。まだ英雄の郷里という名でなかったころ、魔女隊の敗北からほどなくしてまだその報せがきて間もなく大陸全土が混乱していたころ、身近にいた魔女たちが徐々に牙を人々に向けた。混乱に懐疑と衝突が組み合わさり地上が混沌に堕ちていく最中、巨大な地下監獄に住む囚人、看守、野心を捨てきれない大陸内外の野心家たちが集い一丸となって監獄を護り抜いた。その者たちの底知れぬ野心や囚人たちの手先の器用さを受け継いだ結果、何十世代も地道に研究し蓄積した魔女と戦う上での技術が進化し、こうして魔女すら凌駕する理不尽の領域に達した贖罪者に、ただの人間が一泡吹かせるに至ったのだ。
魔法は砲弾を容易く無効化してしまう。それを扱う魔女はただの人間から見れば人型の要塞だろう。――――だが、それは魔法あってこそであり、爆発やそれに付随する事象から被害を受けない十分な距離があってこそだった。なぜなら魔女本体は脆かったからだ。
砲弾の迎撃に一瞬でも気を回さなければ防ぐことはできない。戦士たちはそれを利用した。グルーニィが自分たちを舐めているのもよく理解していた。魔女とは皆、超常に身を任せることしかできない人間を本能的に見下していると知っていたから。
そういった積み重ねられた魔女への知識と極限まで極められた連携は、人間をどう料理して満たされぬ欲の穴埋めをしようかとうつつを抜かす化け物に、それ以外のことに一瞬の意識も割かせなかった。叩けば壊れるような無詠唱の威力のない魔法を連射して、じわじわといたぶることで被虐欲を刺激し、恍惚とした表情を浮かべていた顔に、その幻想を見せたまま鉄と炸薬の塊をお見舞いしたのだ。
ようやく、灰色のベールが晴れてゆく。風に流され都市の中心へと灰色の濁流がなだれ込み、やがて半分崩壊した地面を露わにさせた。左右の建物は崩壊しずいぶんと細かくなってしまっている。残骸の中には真っ黒に焦げた跡があり、爆炎の威力や殺傷力を容易に想像できる。
魔女は魔女たらしめる魔法がなければ人間以下だ。ロラもテトも、幽居の籠に暮らす平凡な人間にすら敵わない。脆い体は小枝のように折られてしまうだろう。それだけ、魔女本体の耐久力は少ない。だからこそ、あり得ないのだ。あの爆発を生き残るなど、到底魔女には。そのはずだったのだ。
「っ!?……このっ、化け物め!!」
戦士の罵声が響く。そこにあったのは、魔女の死骸でも死にかけな魔女でもなかった。赤々とした大きな卵。赤い粘液を纏い、脈打つそれが、ぽつんと地面に根を張っている。
誰もが悟った。血の魔女はまだ生きていると。
「グルーニィ……」
ロラが安堵の息を吐き、他の者たちが恐怖に息を呑んだ。急速に喉が乾燥し生理機能含めた全ての活動が止まったかのような錯覚が集団で発生する。だが、心の臓が跳ねるように鼓動しそれを覚まさせる。
脈が速くなり卵が鼓動する。天井が割れ中身が盛り上がる。誰よりも勘の鋭い団長が叫んだ。
「全員伏せろぉぉぉ!!!」
直後、卵が孵った。と、同時に頭の上すれすれを衝撃波が走り、いくつかの建物がその生涯を終える。
倒壊する建物に気を取られていた目線は、突如前方に出現した大きな気配を感じ取ったことで否が応でも前へと向けられる。何か強大なものがこちらを見ている、それを強く感じ取る。
「全員退けっ!」
団長が再び叫んだ。迷い一つなく戦士たちは後退し、直後彼らが立っていた地面に瓦礫が投げつけられた。
倒壊で起きた砂煙りが消え、瓦礫の翳りからソレは姿を現した。血肉や白い塊を撒き散らしながら孵ったソレは、一見大きな獣の姿をしていた。魔女の尊厳などかなぐり捨てたようにも見えるが、セレネから授かった贖罪者の徽章とそれが付いた帽子が尻尾の中央に半ば融合している状態ではあるが存在していた。漆黒のドレスもはち切れて布切れ同然になっているが、気持ちばかりにと前足首に巻かれている。それだけ聞けば洒落気を出した血肉の獣だが、その巨体の背丈は二階の窓から背中に乗るのに丁度いいと思えるほどある。さらに、何より、その獣の首は三つに分たれ、それぞれの先にはこれまた大きな花が咲いていた。深い紫色をしたアネモネの花だ。そして花々の中心、本来花芯と呼ばれる部位には歯茎を剥き出した口が付いていた。この世の生物から逸脱した不気味な獣は三つの口でそれぞれ言葉を口々に垂れ流す。
「セレネェェ」「ナンダァ?死んダと思ったノカ?エヒャヒャッ!残念だったナァ」「メシ……サンニンで」
垂れ流す言葉に心は残っておらず、空っぽの筐体だけとなって空気に流れる。鼓膜を揺らす言葉に耳を傾けたのはロラだけであり、戦士たちは一様に志を硬くした。この魔女は今ここで狩らなければいけないと。
「あれ……あれもグルーニィなの……?」
ロラが戦士たちより一歩引いたところから呟いた。先ほどの安堵とはまた違う感情が含まれている声にテトは耳を動かした。
「どうする気だ?」
見上げるテトと目が合う。その言葉の本意は戦う前の彼女の言動からロラでも理解できた。ロラ自身、恐怖の感情が大きい。さきの小休止で熱の冷めた頭で思い返せば、もう何度か死んでいたかも知らないということなど明白だ。微かに震える指先がそれを裏付けている。だとしても、ロラはここで立ち止まるわけにはいかなかった。ズキズキと傷が痛むたびに胸の熱が燃え上がり、ロラの背中を突き動かす。その先には大切な人たちが待っているはずなのだ。
(グルーニィが待ってる……!)
「もちろんいくよ、このくらいじゃ諦められないもん。きっとあの体の中のどこかにあの子はいる。だから迎えに行って、なんとかして目を開けてもらわないと」
「お前はいつも計画というものが無いな」
呆れた声でテトがぼやいた。ロラは協力してくれないのかと眉尻を下げかけたが、テトの言葉はまだ続いていた。
「だが、お前の力量や贖罪者に対する頑固さはおおかた理解できたつもりだ。満足するまで付き合うさ」
鼻を鳴らすテトをロラはひと撫でした。嫌そうなこの猫の唸り声にもずいぶんと慣れたものだ。そしてこう反応してくれているうちは彼女はあらゆる面でサポートしてくれるという期待が持てる、心強い限りだ。
「ひとまず様子を見よう。お前の耳から抜けていった彼らの作戦とやらが効果を発揮するはずだ。今の砲撃もその一つだ。あまりに危険で私だったら別案を出すような代物だがな」
そう言いながらもテトの瞳には「戦士たちならなんとかできるだろう」という、不確実な期待感が混じっていた。
「だが、あの連携力と信頼感、ダルエニの並外れた勘の良さとそれを信じ切る戦士たち。あいつの視界の外で互いを庇い合い魔法を凌ぎ切るあの腕前は脱帽ものだ。期待して耐え忍ぶとしよう」
ロラがウイブを倒して以降犠牲者は出ていない。初見の魔法が新たに繰り出されていないというのもあるが、それを加味しても一方的でなくした彼らの力にテトは舌を巻いているようだった。だが、敵が大きく変態した今の状況から、また今後の成り行きがわからなくなったというのも事実だ。
「この場合、おそらく出てくるのは…………」
テトが激しく揺れる服の中でぶつぶつと独り言をしている。若干谷間から飛び出てしまいそうになるが、今そこまで気を回す余裕はロラにはなかった。巨大な獣の姿となったグルーニィが暴れまわっている。元の質量を無視した巨体は並大抵の刃物や打撃を無効化し、走るだけで石材を抉る爪が戦士を襲う。貪欲な花が今日のランチを吟味し、哀れにも戦士が一人、気分に合ったようだ。無詠唱の血の槍を併発しながら巨獣はロラのいる方向へと駆けだした。道中魔法に貫かれて戦士が重傷を負い、だがそれを無視して飢えた獣は突き進んだ。
(グルーニィがわたしの方に。けど、どうやって本体を…………いや、違う!)
ロラの斜め前にいた戦士に向かって三つ首の一つが伸びた。「あっ!」とその戦士は反応し、そして結末を悟った。まだ涙の痕も乾いていない顔で、その一瞬の間に再び恐怖に歪んだ彼女の表情がテトの目に焼き付いた。目の前で血飛沫をまき散らすその様子も。
巨獣はロラを飛び越え一気に広場の対岸へと走り抜き足を止めた。そして振り返り、片方に先ほど餌食となった戦士、もう片方につい今さっきまで陰で手当てをしていたであろう戦士を咥えていた。愉快に口を歪めたあと、何度も丁寧に噛んで飲み込んでいった。そしてまた嗤う。
「っ……!こんな!こんな簡単に人が死んでいいなんて間違っている!」
「血脈」
無慈悲な魔女はテトの嘆きなど想像すらしない。新たに魔法を唱え、自分の正面から扇状に血肉の根を張り巡らせた。重傷を負っていた戦士は自分を支えていた仲間を範囲外に突き飛ばし、独りそれに巻き込まれ、根に触れた瞬間足首を絡め捕られ地面に引きずり込まれていった。それは一秒にも満たない速さで。
「繁殖」
慈悲を彼岸に置いてきた魔女の趣味は此岸で生者を狩ることのようだ、そう思わざるを得ない。続けざまに、近寄れないようにしたうえで、左の花が魔法を唱えた。するとその口からごく薄いが赤い霧状の粉塵が吹きだされ始めた。どう考えたって触れていいものではないのはその場の誰もが理解した。そして今すぐやめさせなければいけないことも。だが。
「超越」
こちらの都合など考えるはずもなくもう片側の花も魔法を唱えた。花弁を揺らし、紅く絢爛とした鱗粉が霧に雑じってゆく。反射する光など雲がとうに遮っている。つまりそれ自身が輝いているのだ。鱗粉と霧が融合すると、その体積を倍以上に膨らませた。頭上に新たに赤い雲ができたとでも言おうか。
「なにか、魔法の前準備?」
ロラが言った。助けるという意思は変わらないが、花頭の怪物を見る目は弱点を探して鋭く刺すようなものになっている。ロラも戦士たちも根の範囲外にまで離れることができた。できるのなら深呼吸くらいしたいところだが、そうも言っていられる状況ではない。
「魔法の準備?」
テトがロラに聞いた。普段とは立場が逆だ。
「知らないの?強力な魔法を使うときに段階を踏んで詠唱するの」
「そんなものが…………。永い歴史の中で私の代までたどり着けなかった知識の一つか」
「……?とにかく止めないとノエルたちも危ないよ。どうにかしないと」
そう言うが、距離を離したせいで剣など届くはずがなく、大砲も初めの衝撃波で吹き飛んでいる。無理に突っ込めば地に引きずり込もうとしてくる根の餌食だ。戦士たちも考えは同じで苛立ちを隠さずに巨獣を睨んでいる。
「飢え(ギル)」
真ん中の花が唱えた。広場を覆っていた赤雲が拡散して都市全体を覆うほど広がった。それが意味するのは逃げ場などないということだ。
肉肉しく憎々しい花々が団長を嘲笑った。広場の半分も占める根のせいで近づくことすらできず、ただ突っ立って睨むことしかできない彼らを見下し嘲笑する。空でも飛べればあの慢心し切った顔を地べたに伏させることができるだろうが、魔法ですら空を飛ぶなんてものはそうそうない。このたった数十メートルの距離がロラ含め戦士たちには地平線の遥か先に感じられた。
ガンッと大きな音が響いた。団長が怒りに任せて武器を地面に叩きつけた音だった。少なくとも、巨獣とロラはそう思った。花々が震え、口角を気持ち悪いほど上げた。ゲラゲラとおぞましい嗤い声が三つの口から飛び出して、耳を引きちぎりたくなるような不快感に襲われる。
「馬鹿ダナァ、セレネに選ばレタオレニ勝てル訳無いノニ。でもダカラって諦メんナヨ?ホラ、どうしタ?今オレは待ッてヤッてるんダ、早くシナイとこノママ終わッチまうゼ?」
饒舌な花は尚も嘲笑い続ける。
「イヒヒッ!人間ってヤッパリヨエエナ、魔法ノ前じャなんニモデきねエ!オマエらも、セイセン騎士モ、ソレにバリスもジャブも……」
その名前を口にした瞬間、まるで思い出したかのように突然、左右の口が声を張り上げた。
「アアアアアアアアァァァ゛ァ゛ァ゛!!」「チガウッ!チガうんだ二人とも!オレっ……オレはそんなつもりじゃ!」
強い悲しみと懺悔の色で染まった言葉だった。絶望し泣き叫ぶような絶叫に対し、戦士もテトも耳を傾ける様子はない。ただ一人、ロラはその声に耐えられなくなり声を上げた。
「グルーニィ!わたしの声が聞こえる?バリストロイとジャブはどうなったの。あなたは何を抱えているの!」
「無駄だ!奴は言葉を発するがそれは独り言に過ぎない。一方通行で俺たちの言葉なんて聞いちゃいない」
隣にいた名も知らない戦士がロラの腕をつかんで静止した。ロラは無意識に肉食の根の巣窟に足を踏み入れようとしていたところだった。
「っ……でも!」
腕を強く引き寄せられロラは為す術なく体勢を崩した。
「団長が合図した。もうすぐ四班の連中が仕掛ける。そこでまた形勢が変わるはずだ」
ロラは一瞬何のことかと思ったが、そういえば作戦なんてのがあったと思い出した。だがロラが真に心配しているのは別のことだ。
「もうオワリか?つまンねぇナ」
ロラの声にもそのあとの二人のやり取りにもまったく興味を示さなかった巨獣の真ん中の口が苛立たし気に言った。ひたすら睨み続けるだけの団長を最後に思いっきり見下してやろうとでもしたのか、グルーニィはそれまで臨戦態勢でいた体を持ち上げ三つ首を前に出した。
「アア、モウいいヤ、オ前ら殺シてセレネをさっさト探しニ行コ。ジャアナ」
そして花々は歌うように言葉を紡ぎ始めた。
「脆弱デ、軟弱デ、愚鈍デ、オレに歯向かう野犬達ヨ、オレに跪イ…………」
「ゼェアアアアアァァァ!!」
突然、雄叫びとともにひびの入った長剣を振り回した青年がグルーニィの首のすぐ真下を一直線に通り過ぎた。空中を一直線に飛んでいたのだ。左の首の下を通り過ぎながら斬撃を浴びせるとともに回転し、右の首にもう一撃、しかしその刃は切断には至らなかった。左の花がずるりと首から滑り落ち、右の首にも半分以上の確実に致命傷になったであろう斬撃の痕が刻まれた。
「ヒーツ!!!」
「わかってる!」
仕留め損ねたがその勢いのまま建物に突っ込んでいくカトルが叫び、それに答えた瞬間にはヒーツも同じように飛んでおり、すでに右の首を通り過ぎるところだった。二人が建物に消えた直後、かろうじて残っていた右の首の切り口から爆炎が溢れ、残骸と共に焦げて黒くなった花が焼け落ちた。
残る中央の花が絶叫し、四肢や尾、全身を暴れさせて悶えた。頭上の赤雲は魔法が中断されたことで徐々に薄らいでいき、足元の根は消失した。言われたとおり、まさに形勢が動き出したのだった。
「希望を背負う比類なき戦士たちよ!立ち上がるのです!」
甲高くも劇俳優のようによく通る声が響き渡った。驚いたロラが聞こえた方向を見れば、そこにいたのは両手を天に掲げて激励の詩を詠うエルがいた。建物の物陰から紙とペンを片手に、高らかに勇士たちを鼓舞し讃える詩を詠う。
「悪しき三つ首の二輪は手折られた、今こそ奮起し、邪悪なる者を霊廟へと続く回廊へと導くときです!」
特別な力など無いただの言葉の羅列だ。だが、不思議と心の臓が強く脈打ち全身に力がみなぎってくる、そんな錯覚が思い込みとなり、自己暗示となり、実際に心体に無制限の力を湧き立たせる。
「ゆけ!未来の英雄たちよ!主はあなたたちを見守っていらっしゃる!」
雄叫びを上げ、一斉に戦士たちは立ち向かって行った。ロラは突然起きた一連のことに動揺し動けないでいる。そんな様子にテトが苛立たしげに前足でペシペシと胸を叩いた。
「あの鼓舞も吟遊者の仕事だ。戦場の士気を大きく上げ、そうすることで強大な相手にも怯まなくなる。虚勢であると分かっていても、一時信じるだけでも不思議と力が湧くそうだ。人とは不可思議なことだ。――――それよりも、またこうして立ち止まっていていいのか?」
「あっ、そ、そうだ……行かなきゃ」
(グルーニィ……わたしに少しも興味を示してくれなかった。……声が届かないなら、やっぱり直接瞼を開けて見てもらうしか無いよね。でも、あの激しく戦ってるところにどうやって……)
悩むロラを見るテトもまた悩む。若干の失望に顔を曇らせるテトにロラは気づかない。ただ、あの体内にいると確信しているグルーニィのもとにどうやって行こうかと頭を捻らせていた。まぁ、テト的には無闇に突っ込んでいかないだけ成長したと言っていいだろう。こうして立ち往生していると、ロラを呼ぶ声が近寄って来た。
「ロラ嬢」
「あっ!おれさま!」
図体に見合わぬ俊敏さと静かさで駆けてきたのは筋肉もりもりマッチョマンだった。
「アーノルド、私はヘリトラを幼少の頃から見ているが、それでもお前の筋力には驚かせれる。まさか本当に人を矢のように投げるとは」
「お褒めに預かり光栄だ。おぬしたちの活躍も陰ながら見させてもらった。傀儡に堕ちてしまった仲間を救ってくれたこと、感謝する」
そう言ってアーノルドは丁寧に腰を曲げ頭を下げた。そんな律儀な男に困惑しながらもなんとか頭を上げさせたロラはふと、つい今さっき思いついた案を口にした。
「わたし、思いついたんだ。ね、ねぇおれさま。さっき、テトが人を投げたって言ってたけど、それってさっきすごい勢いで飛んでたカトルとヒーツのこと?」
「ああ間違いない、オレさまが振り回して放り投げたんだ。なんだ?オレさまの筋肉に見惚れたか?」
テトは声にならない唸り声を上げた。とても頭を痛そうに抱えている。ロラが何を思いついたか察してしまったようだ。そして最悪なことに、彼女の目はそれをやる気満々だ。
「なら……」
「アーノルド!ん?ロラたちも一緒か」
テトがイカ耳のままアーノルドが来た方とは反対の方向を見ると、四班の実質的な残りの三人がやってきていた。カトルもヒーツも軽傷では済まない勢いで建物に突っ込んでいたはずだが目立った怪我がないのを見るに、対角線上の建物内にレイアを待機させ無事に受け止めたとみられる。
「ロラ嬢、それは危険すぎる」
アーノルドがロラの思い付きに苦言し、ロラは顔をしかめている。
「でもっ――」
「アーノルド、どうしたんだ」
「ヒーツ、おぬしたちもご苦労。今、ロラ嬢にオレさまたちの技を自分にもやってくれと頼まれてな」
「彼女なら受け止める人間がいれば問題なさそうだが、目標は?」
「あの……グルーニィの胸の下あたりだよ。あそこにグルーニィ本体がいる」
ロラは確信を持って言った。あまりに言葉に確信がありすぎて皆困惑している。困り眉でレイアがロラに聞いた。
「確証はあんの?」
「カトルたちが首を切り落としたとき、ほんの少しだったけどそのあたりを庇ってたの」
「猫の魔女は?」
「まったく。――――だが、ヘリトラから見る目にお墨付きを貰っている。私自身もまだ期間は浅いがそれに偽りはないと思い始めている」
「あーー、つ、つまり……アレに向かって自分を放り投げろと……」
レイアが明らかに引いた様子で暴れまわる巨獣を見、次いでロラを見た。
「まぁ、ロラのやりたいことと俺たちの勝ちにつながるなら俺はやってもいいと思う」
「あ、あたしはアンタらに任せるよ。あたしは受け止める専門だし」
賛成派のカトルと中立派のレイア、そして。
「オレさまは反対だ。自らの手で仲間を死にに行かせるようなことはできん。この肉体は護るためにあるのだ」
この案で肝心な役目のアーノルドは反対だった。理由も真っ当でロラも誰も言い返せない。そんなとき、話し合う五人の間を何かが通り抜けて地面に落ちた。ごつごつとした指、痛そうに潰れた肉刺、手の平の半分を覆うテーピング、肘から下の腕だった。
「――――んぅ!?」
ロラがぎりぎり聞こえるかどうかくらいの小さな悲鳴が猫の口から漏れた。ロラたちは息を呑み、深呼吸をしたヒーツが重い口を開く。
「アーノルド、私からも頼む。これ以上犠牲を増やしてはいけない。あの歴史を超えた怪物に勝つためには手段を選んではいられない。私たちは何でもしなくちゃいけないんだ。だから……これは班長としての命令だ、君は責任も何も負わず、ただ無心で彼女を投げてくれ」
仲間に対しては穏和な眼差しを向けるヒーツだが、今の彼の目には硬い覚悟が宿っている。それはいざというときにしか見せない、控えめな威厳である。そして、滅多に見ないものだからこそ、いつも時間を共有している者にはよく響く。アーノルドは情に厚く、そして同時に従順な人間であった。
「…………あい分かった」
自信に満ち溢れていた声は一変し、弱々しく覇気がない返事だった。だとしてもヒーツのおかげで同意を得られたのは幸いだ。大砲の許諾が得られたと満足しそうになったところでロラは「あっ」と声を上げる。
「テトは大丈夫?」
「…………」
「テト?」
「集中しているんだ。これからお前は生死の綱渡りをするんだろう、つまり命綱である私は少しも気が抜けないんだ」
なんやかんや言ってはいるがつまり彼女も同意しているようだった。諦めの気持ちが大きそうだが。
「そしたら私たち三人は団長たちに雑じりつつやることを説明して協力を仰ぎ、なんとか隙を作ろう。アーノルド、君なら私たちが作り出す隙のタイミングも分かるだろう。そしてあとはロラ、君に任せるよ」
戦場の中心で行われた会議が終わり、ヒーツたち三人は激戦を繰り広げる団長たちのもとへと走っていった。
「ロラ嬢、一つだけ約束をしてくれ」
「……?いいよ」
あらたまって真っ直ぐ見据えるアーノルドの薄い金色の瞳はロラの黄金の瞳とぶつかった。ロラの無垢なる眼は、アーノルドの憂患に満ちた眼にどう映ったのだろうか。彼は拳を握りしめ奥歯を噛み締めている。大きな体をさらに大きく膨らませ苦しそうに。
ロラは何事かとアーノルドの服をつかみ心配そうに顔を覗き込んだ。そんなロラの顔を見た優しい大男は徐々に身体から力を抜いていった。そして、苦悶の末に最後に残った燃えかすを吐き出した。
「死ぬなよ」
「大丈夫、わたしは死なないよ。テトもいるしね」
「私を前提にするな、私がいるからと油断や慢心をしてもらっては困る」
「わ、わかってるよぉ」
一人と一匹のやり取りは何ともキマらない。それでも、いくらかアーノルドにはいい影響を与えたようだ。優しき大男は背筋を伸ばした。
「本人らからこう言われればオレさまも覚悟を――」
石材やレンガが雪崩崩れる轟音が響いた。ここにたどり着いて一時間もしていないのにさっそく耳がおかしくなりそうだ。
ロラもアーノルドもびくりと身体を震わせて音のした方を見れば、幾多かの過去の都市の情景を築いていた建物が崩れていた。思い返せば戦闘が始まる前よりも見通しが良くなり噴水の広場が拡がっているような気がする。というよりも、今まさに拡げられている。狂乱するグルーニィが四肢を振るう度に時間を感じさせる街の建材が飛び、街の景色が変容していく。対面する戦士たちは飛散する瓦礫と巨獣の猛攻をぎりぎりのところで耐え忍んでいた。それでも徐々にダメージを与えて追い詰めてきてはいるが、ここでまた新たに魔法を使われればまた犠牲が出かねない。
アーノルドが渋い顔をし、ロラに向き直った。
「オレさまはおぬしの両足をつかみぐるぐると振り回す。一瞬の事ゆえ、離す際に合図はない。ゆけるか?」
「うん、行けるよ。おねがい」
「あい分かった!」
ロラが壁に両手を突いて飛び上がり体を浮かせた。空中に投げ出された細い両足をアーノルドがつかみ、直後視界に移る景色が川よりも速く流れ始める。さらにその速さはますます上がっていった。「テト、振り落とされないようにね!」とロラは言うつもりだったが遠心力が強すぎてそれどころではない。必死に腕を縮こめて胸を護り、しかしその腕さえ飛ばされそうになる。頭に血が上って酷く痛い。カトルやヒーツは武器を持ったままこれをしていると考えるとどれだけ強靭か身をもって感じられた。
突如、体が引き延ばされるような感覚が消えた。目を開ければロラはツバメのように飛んでいた。感動する暇もなく着弾点を見据える。目が回り平衡感覚が錯乱しているがロラは砲弾であり、よく言えば身を任せるだけなのでそこはあまり問題にならない。そう、思いたかった。
「ルド・ルル!」
「あっ――!」
戦士たちの背後の地面からロラに向かって槍山のバリケードが作られた。今更躱すことなどできやしない。
気が狂っていても贖罪者として、軍の幹部として役割したグルーニィだ、ここにいる精鋭の戦士たちと同じで二度も同じ手は喰らわない。
「猫の殴打!」
そして、そんなことはテトが予期していないはずもなかった。
短距離だがそれなりの威力がある青白い魔弾が槍山を砕いた。
破片が頬をかすめ鮮血が糸を引く。ロラは鞘から小刀を抜いた。
花頭がまた魔法を唱えようと開けた口をレイアのフレイルが突き上げ、強制的に詠唱を遅延させる。
顔を仰向けに反らせた一瞬を突き、カトルは長剣で切り上げ、グルーニィの体をさらに仰け反らせてロラの射線にまで腹を持ち上げる。
ヒーツが胸とへその間を双剣で疾風の如く斬りつけ、刃をぼろぼろにしながらも硬い皮膚を裂き体内への道を作る。
大きく体を逸らせながらも目の前まで迫ったロラを叩き落とそうと巨獣が前足を振るった。
「おおおおぉぉぉぉぉ!!!!」
団長が間に滑り込み身を挺してそれを止めた。瞬きの間にロラはそれを通り抜ける。目の前には痛々しく開かれたグルーニィ本体への入り口だ。しかし、テトくらいならまだしもロラには小さすぎる穴だ。
「炎響……!」
勢いのまま刃が突き刺さった瞬間引き金を引き絞り、爆炎と焦げた血肉を残してロラはグルーニィの体内に押し入った。
肉の壁の向こうでダルエニが吹き飛ばされるぐぐもった音が聞こえた。なんにせよ様々な協力のおかげで目的地にたどり着いたわけだが、どうにも真っ暗で何も見えない。
「狭いし暗いし臭いし…………。グルーニィはもう少し奥かな?とりあえず明かりを」
あんなに振り回されてなおロラの腰にしがみ付いていた優秀な鞄から小さな小瓶を取り出した。本当に小さな、親指の第一関節程度の大きさのものだ。中は水で満たされ、その中に小指の爪よりも小さな石が入っている。
ロラは栓を抜こうとし、手がべたべたなせいで抜けず諦め、結局炎響で叩き割った。
小石が空気に触れて光を放ち始めた。光る鉱石を手にその明かりを頼りに周りを見る。
「中にグルーニィがいる以上多少体内に空気が流れているはずだが、長居はできないことは頭に入れておけ」
「うん。――――!?」
「どうした?」
ロラが蛇のように体をくねらせて少し奥へと進むと肉壁に刃を突き立てた。
「髪の毛っっっ見えたっ!」
盛大に切り裂かれたその隙間から血飛沫が跳ね、そして――――。
「グルーニィ……!」
背中を巨獣の体にめり込ませたグルーニィがそこにいた。髪は依然長いままだが髪の怪物は消えており、その幸運にテトは感謝した。ロラはというと、おそらく髪の怪物など忘れていたのか確認もせずに体を寄せていた。
「グルーニィ……ねぇグルーニィ、わたしの声が聞こえる?」
瞼の縫われた顔を両手で包み込んで恐る恐るロラが聞いた。ほとんど行き当たりばったりの勢いだけでここまで来たが、いざそれまでの出来事を顧みて目的の人物を目の前にするとロラもさすがに慎重になるようだ。
ロラの問いかけに反応はなかった。一瞬眉毛が弱気に歪むがここまでは経験済みだ。まだ、攻め入る隙はある。
「わたし……だよ…………――――セレネ、わたしはセレネ、あなたと過ごした日々をこの目に映して、記憶に焼き付けた、あなたにとって大切なもの」
テトはロラが自分のことをセレネだと宣言することをわずかに躊躇ったように感じた。口では自分をセレネだと信じていると言い、弱気になることはあるがそれを曲げたことはない。だが、それが今揺らいでいるようにテトは感じたのだった。
(ここにきて、自分の存在に不安になったのか?それに、使命とやらに突き動かされているとか、そんなようなことも言っていた。つまり、それは、お前の意思なのか?ロラ?)
ロラと記録によるセレネ像には性格の差異や喋り方の合わなさはあるが、逆にセレネとしか考えられないような記憶や技術をロラは有している。いったいどんなつながりがあるのだと、テトはここしばらく考え耽っていた。
ロラが必死に問いかけ続ける最中テトは自分の問いに頭を悩ませた。テトにとって、これはどうも引っかかることであった。しかし結論を出すには材料がまだ足りず、一度脳内の討議に終止符を打ったときだった。
「ア……アアッ、セ……レネ……」
虚ろな声音が赤く濡れた唇の隙間から漏れた。
「グルーニィ……!そうだよ、セレネだよ!」
ロラが使命とやらに瞳を輝かせ、沸き立つ衝動のまま顔を引き寄せた。
「セレネ……アア、セレネ……セレネ!セレネェッッッ!!」
グルーニィは身を震わせ、瞼を痙攣させ、肉壁と外界を遮断する縫い糸から逃れようと激しく抵抗し始めた。
(こちらの声に反応した!?そんな……さっきナゴザがロラに言っていたように、狂い魔女は言葉を話すがそれは一方通行でしかない。彼女たちは自身の世界に囚われその世界しか見ていない。こちらのことなど眼中にないはずだ。…………これは、こいつの力なのか?それとも、セレネというキーワードに刺激されただけか?)
グルーニィは尚ももがき続けていた。雛鳥が親鳥を呼ぶよかのようにセレネの名前を呼び続け、やがて背中の一部が壁から剥がれ、瞼の縫い糸がちぎれ始める。そして――――。
「アアアァァァァァァァァ――――――――――――セ……レネ…………?」
緋色の瞳が薄明りを反射して輝く黄金の髪を映した。瞳孔まで大きく見開いて淀んだ水晶体に愛しの君を見つけ、音にならない歓喜の悲鳴を上げる。
「セレネ……セレネ!セレネ!!」
「あ……あぁ…………!やった……やったよ!わたし、グルーニィを取り戻せた!」
目に涙を溜めたロラは現世に目を向けたグルーニィを抱きしめた。やっとの思いでたどり着いた結果は、テトが危惧したあらゆるものでもなかった。ロラの記憶に焼き付いた数百年前から時を超えてこうして触れ合っている。それは覆しようのない事実だ。
「セレネェ…………オレ、セレネニズッと会いたカッたんだ。オレ……オレハ…………」
「うん……!聞いてるよ、大丈夫だよ、わたしはもう離れないから」
ロラがグルーニィの手を取った。本来こんなことをすればロラの両腕は魔法で悲惨なことになるだろう。だが、様子を見るにそうなる気配が見られない。これは、ほんとうに…………。
(ま、まさか…………本当に口が利ける状態になったのか……あの狂気に堕ちた魔女が…………!?だが、見るからに狂気による凶暴性も無く、こうして接近して問答無用で殺されることもない。ロラ、お前は……いや…………セレネ、お前はセレネだったのか。そして数百年に及ぶ魔女と人間の戦争を止めに来たと)
「あぁ、よかった!グルーニィ、もうずっと一緒だからね!」
(終わったのか…………いや、これから始まり、そして終わりへ向かうのか。グルーニィを筆頭に贖罪者を救い出し、もしかしたら他の魔女もこいつならどうにかできるのかもしれない。――――誰も死の危険に迫られない平和な世界。皆が夢見て、私も思い描いたそんな世界を、お前なら……)
「オレ……テっキリセレネに見捨てらレたのかト思っテ、だっテ」
「見捨てたりなんてしないよ!もうっ、離さないから!」
「ココで待ってろって言わレテ、でも幾ラ待ッてもセレネは来ナくて」
「ごめんね…………遅くなっちゃって……」
「もう見捨テなイでくれヨォ」
「見捨てないよ」
「独りにシナいでくれよぉ」
「ずっと一緒だって」
「手を……ニギってクれよ」
「握ってるよ」
(…………?)
「オレヲ、抱きシメテ、慰メてくれヨ」
「慰めるよ、いっぱいいっぱい」
(いや…………)
「お願いダ…………セレネ」
「うんっ!あなたの満足するまで」
(ち、違う…………!)
「なンで…………どウシて何も言っテくレないんだよ…………」
「グルーニィ……?」
「ロラ」
「ズっと待ッテたんだ、少シくらイ声ヲ聞かせテくレよ」
「わたしはずっと話しかけてるよ?」
「ロラ!」
「なア、セレネェ」
「もしかして……耳が」
「ロラッ!!!」
胸の間でテトは癇癪を起こした子どものように喚いた。
「ロラ!今すぐそいつを殺せ!できないのならそいつから離れろ!!!」
「な、なんで!?やっと会えたのに!話してるのに!」
「会話が成り立っていない!そいつは、お前の顔を見てお前をセレネだと誤認し、新たな狂気の幻想に囚われただけだ!」
「な、何を言って…………」
ロラの手の中から小さな鉱石が零れ落ちた。ロラの顔にかかっていた影の形が変わる。その変化を見たグルーニィの霞んだ眼はその有様を変容させる。
「セレネ…………?チガう……ちガう!セレネじゃなイ!オマエはセレネじゃナイ!!」
相貌を豹変させたグルーニィが牙を剝き出しにし威嚇する。ロラもまた顔色を変え、ショックを表情全面に表した。
「なんで……なんでなんでよ!わたしはセレネのはずだよ!こんなにもあなたのことを想って、セレネじゃなきゃありえない記憶まで持ってるのに!」
ロラは食い下がる。ここで引き下がれば結末は一つに絞られてしまう、ロラはそれを理解していたようだ。
「おねがい…………!わたしの使命はあなたを救う事だって証明させて!でなきゃ…………この熱は、わたしは、なんなの…………」
美しく輝いていた頬を伝う涙が、血に雑じり赤黒く染まる。
「セレネノ顔したチガう奴!消えろ!」
その言葉に共鳴するように、今まで幾分か大人しくなっていた巨獣の体内が活発に躍動し始めた。消えろと言うが、みすみす見逃す気もないようだ。今すぐ殺すなり逃げるなりしなければだが、ロラは意気消沈してそれどころではない。
「ロラ!っこのままではまずい。お前には悪いが殺らせてもらうぞ!イム――っ!」
ロラの周りの肉壁が急速に狭まっていき、テトは壁とロラに危うく押しつぶされそうになった。そのせいで魔法が中断される。
「んっ!んーーー!!!」
(くそっ息がっ……!せっかく魔女を倒せそうだったのに!)
増々狭まっていく体内はロラの顔を覆い、胸に腹、足を圧迫していった。このままでは圧死してしまうが、当の本人は啜り泣いているばかりで戦意を失っていた。
(だめだ、これ以上は!もう、復帰に時間はかかるが戻るしか…………)
テトがそう諦めかけたとき、背後で気合に満ちた雄叫びが厚い肉塊の壁を越えて体内に響き渡った。声の主は巨獣の腹に腕を突っ込みロラの足首をつかんで引っ張った。装備品や体の凹凸が痞え苦戦し、それでも諦めず声量を増した。そしてロラの挟まれていた腕が嫌な音を出し始めた瞬間、痞えていたところが抜け、力任せに引き抜かれた勢いのままロラは外に放り出された。
「あらよっと」
「うぅ……!」
「大丈夫かいあんた…………って、クサッ!汚ッ!それに……なんで泣いてんの?泣くほど臭かったのか?」
ロラを受け止めたレイアは顔をしかめている。血や体液で体中べたべたに汚れ、顔はロラ自身の涙や鼻水でさらにぐしょぐしょでカオスになっていた。ロラを助け出したアーノルドもその様子に顔を引きつらせている。
「げほっ!げほっ!」
喉の痛くなる咳をしてロラが目を開けた。巨獣は討たれていた。横たわり、四肢を投げ出し、切断された最後の首も半分が灰に還っていた。
「アーノルド、君も怪我をしただろう、ロラを連れて手当てをしてくるんだ。私たち三人はこの魔女が引きこもった肉塊を爆破する準備を手伝おう」
腕を負傷したアーノルドに抱えられロラは広場の端の方へと運ばれていく。先には腕に血の滲む包帯を巻いた団長とロラを心配そうに見つめるノエルがいた。
「待て!血の魔女はまだ中で生きている!今すぐにでもやらなければ!」
テトの忠告にレイアは「十秒で終わる」と手を振った。
やはり戦場は耳に悪い。実際、十秒もかからず爆弾が巨獣の死骸の周囲で爆発した。ノエルに頭から水をかけられハンカチで顔を拭かれている間にそれは四回も起きた。しかし、厚い肉壁はどうやら超厚いようで表面と少しを焼き焦がすことしかできていなかった。カトルが耐えきれないというように唸った。
「やっぱヒーツとロラが開けた穴に突っ込むしかないんじゃないか?」
とても合理的だが、それをするには近くに行くことさえ危険なのに、中に入れるために目の前まで接近しなければならない。なんなら効果を最大限出すために腕を中に突っ込む必要がある。そして穴に腕を突っ込んだアーノルドは負傷した。無論、進んで手を挙げようとする者は少なかった。少なからず予想していたカトルはやれやれと頭を振って筒状の爆弾を握りしめた。
「待て、そんな危険なことを若者に任せるわけにはいかん」
「ジャック爺さんこそよぼよぼして手先を狂わせるかもしれない……って、お、おい!」
かぎ爪の老人はカトルから爆弾を奪い取った。包帯の巻かれた脇腹を労りながら怖気る様子もなく死骸に接近していく。かぎ爪を擦り器用に導火線に着火し、グルーニィに続く穴に威勢よく突っ込んだ。
「あ……う……わ、わたし……」
小さな火は体液にさらされる。
「グルーニィ……わたし……どうしたら」
火はその勢いを弱める。
「でも……あなたは…………まだ、たいせつで……」
「ロラ?」
消えかけた火は持ち直した。そして――――。
「わたしは…………あなたのたいせつじゃないの?」
爆発寸前の爆弾が死骸の穴から勢いよく飛び出した。老戦士は反射的にそれを寸でで躱した。爆弾はさらに後方へ飛んで行く。
赤毛の女戦士は巨獣とロラたちの間で自慢のフレイルの鉄球をくるくると振り回しながら、負傷したアーノルドたちを心配そうに見つめていた。自分の隣から耐えがたい熱を感じるまで。
「レイアァァァァ!!!」
焼き千切れた左腕が鈍い音を立てて落ちた。瓦礫の山に吹き飛んだ彼女の体は半身がなくなっていた。つい先ほどまで熱を帯びていた視線は今、吹雪に埋もれた石のように冷たく色を無くし、灰色の空を眺めている。
彼女の腸と脳漿を浴びたカトルが怒り狂い、ヒーツはすでに報復の一撃を加えようと走り出していた。
死骸は内側へ渦を巻くように自身の体を中へ飲み込み、収縮し、やがて人の形を成していった。
真っ赤なちくちくと毛羽立った髪、黒を基調としたドレスと漆黒のボレロ、縫い跡のあるとんがり帽子にどす黒く変色した八重歯、グルーニィは復活した。完全な姿で。
「セレネ……オレが探シに行くからナ」
「死ね」
形態の変化に動じずヒーツは的確に首を狙った。その刃が首に当たり、皮を裂き――――そこで止まった。皮一枚切り込んで以降、刃はまるで岩に挟まったかのように動きを止めたのだ。押しても引いてもびくともしない。皮下に流れる血が流動する鋼鉄としてグルーニィを守り、刃をつかんでいた。ヒーツは武器を手放す判断をした。しかし、わずかに判断が遅かった。
「ルド・ルル」
愉しそうに笑うグルーニィは目の前で股から脳天まできれいに串刺しになった男を眺めた。自分の作品にご満悦のようだ。その悦に浸った顔に次に殺気を向けたのはカトルだった。
「キサマぁ゛ぁ゛ァァァ!!!」
「待て若造!!」
老戦士の静止を振り切りカトルは切りかかった。
「ルド・ルル」
地面から生える槍を彼はぎりぎりで躱していく。その俊敏さは驚くべきものだった。だが、魔女と正面からやるには分が悪すぎた。
「血の蛇」
首から流れ出た血が蛇の形を形成し宙を駆け、青年の左腕を咥えて持ち上げた。無防備にぶら下げられたカトルは右手に持った剣で蛇を叩き斬ろうとするが、ひびの入った愛剣は蛇の胴体に当たるなり砕けてしまった。呆然とするカトルに向け、無慈悲な魔女は地面から生やした槍の一つを手に取り投げつけた。
「ぬぅ!」
老戦士がカトルの左腕を切断し、間一髪で一命を取り留めた。左腕を失ったカトルを遠くに蹴飛ばし老戦士は吠える。
「敵はまだまだ健在じゃ!油断するでない、構えよ!」
戦士たちが臨戦態勢をとるその後方でロラはただ、座り込んで戦場を眺めていた。隣ではダルエニが冷静さを保ち全体の状況の把握を試み、そのまた隣ではノエルが悔しそうに唇を噛みながらペンを走らせている。そしてロラを挟んで反対側にはアーノルドがロラと同じように茫然自失し、今にも膝から崩れそうな様子だ。
「テト…………わたし……どうすればいいかわかんない…………」
「お前……」
「グルーニィはだいじ……な、はず。でも…………レイアもヒーツもわたしによくしてくれた。だから……あのひとたちもたいせつなの。…………なのに……」
団長が一瞬横目でロラを見て、そして今やるべきことに集中するように切り替えた。しかしその集中も視界に入った筋肉だるまに中断されることになる。
「アーノルド、どこに行く気だ」
「お、オレさまは……仲間を助けなければ…………」
「そんな調子で助けだと?今のお前は仲間の足を引っ張る肉だるまだ、ここで大人しくしてろ」
「そ、そういうわけには…………」
アーノルドの眼には無残に散った二人が映る。彼にとってはまさに悪夢であり、しかしそれから目を離すことができない。彼は視界の端で身悶えしながら立ち上がる隻腕の青年を見た。彼が守らなければいけない一人だ。青年は折れた長剣を握りしめ、不揃いな重心にバランスを崩し倒れた。切断面からは絶え間なく命が流れ続ける。彼を戦場から遠ざけ応急処置をしようと戦士が数人死地に飛び込んで行った。しかし彼はそれを払い除け、自力で再び立ち上がる。その足取りは拙く、そして揺るがぬ決意に満ちていた。
アーノルドは青年の背中を遥か後方で見ていることしかできなかった。彼の自慢の拳はもはや、どうしようもない現実に震えるだけのものになっていた。