第四話 初陣
「グルーニィがそっちに逃げたぞ!誰か捕まえてくれ!」
征戦魔女隊本拠地、魔女の治めるルオ王国の中心に位置する宮殿の中はいつもの如く騒がしい。その騒々しさの原因というのは決まって彼女なのだろう。
「グゥ、今日はどんなイタズラをしたんだい」
柱をよじ登って天井に張り付く赤髪の女に私は聞いてやることにした。
「今日はな、バリスの枕元にネズミを三匹もプレゼントしてやったんだ!あと、うまそうだったから厨房の飯も少し味見したんだ!」
「ほう」
グルーニィは嬉々として自分の今日の武勇伝を語ってみせる。私はただ、適切な相槌を返せる程度に話半分に聞いて彼女の喜ぶ反応をしていればいい。おっと、そうこうしていたらさっそく彼女を探し回っているかわいそうな人間が来たようだ。
「セレネ様、グルーニィのやつを見ませんでしたか?あいつ、自分で狩ったネズミの死骸を毎日のように俺の枕元に置いていくんです。しかも明らかに自分の歯で噛み殺したなんともおぞましい状態でですよ。おかげで使いの方々になにやら俺が噂される始末で……」
赤茶のとげとげの髪をしたもうすぐ三十路の男は息を切らして訴える。いつも飽きずにご苦労なことだ。
「はははっ、バリストロイ、君もジャブもグルーニィに気に入られているんだよ。彼女は少々気が荒く他の同僚の逆鱗に触れるようなことを時々、しばしば、頻繁にしでかして激突することがあるが、使徒であり世話係でもある君たち二人を本気で怒らせるようなことはしていないだろう。ここ半年程度は。それにその半年前の中庭を半壊させた大喧嘩以来、イタズラの過激さも気性の荒さもある程度ましにはなっているじゃないか」
「たしかに、ましになってきているとは思います。彼女は育ちが育ちですし、そのまま成熟してしまっているのでそう簡単には社会的な常識を身に着けるのは難しいのも承知の上ですが、ですが……」
「……?どうしたんだい」
「厨房に用意されていたセレネ様や我々含む数十人分の昼食を、一品も…………一品も残さず食われたんです!おかげで厨房の使用人たちが悲鳴を上げて倒れる始末で」
「ほう、これはこれは」
これは重罪だ。私は真上で必死に手足を踏ん張る重罪人を見上げた。バリストロイもそれにつられて天井を見上げ、あっと声を上げた。こうでもしないと彼は真上に探し人がいることに気が付かないだろう。私たちの視線に気づいたグルーニィは筋肉も限界だったのだろう、観念して素直に降りてきた。
「グルーニィ!お前ってやつは……」
「がぁぁぁ!」
なんとも幼稚で獣のような威嚇だ。バリストロイはこの程度で怯みはしないが、これ以上なにか言っても無駄に刺激するだけでさらに面倒を起こしかねないと理解している。だから彼は潔く黙り、いたずら好きの狂犬を私に託した。世話係にもう少し懐いたらどうだグルーニィ。
「グゥ、君が我々の仲間になって一年と半年になる。ここは月の光が届かない暗く不衛生なスラムではないんだ。腹を満たすために盗みや他人を騙す必要はないんだよ」
「ご、ごめ……ごめん…………」
まるで世の道理も分からない、親が世界の規則と信じてやまない幼い子供のようだ。いや、まさに彼女を例えるならそれが近いのだろうか。それはつまり、今の例えに倣うなら親役は私ということになるが。なんとも迷惑である。
「セ、セレネ、怒らないでくれよぉ。オ、オレ…………ちょっと、お腹がすいただけなんだ」
私は彼女の恩人だ。長い時を使ってただ腐っていくだけの人生から私が引っ張り上げた。私は彼女の教師だ。道理を教え子どもでも分かる初歩的な学を何度も何回にも分けて身に付けさせた。だからこそ、食い意地の張るこの大きな犬は縄を握らずとも私には従順に従う。面倒くさいが、もうしばらくすれば使徒の人間たちにも懐く頃合いだろう。
「あ、謝るからさ、だからさ……き、嫌いにならないでくれよ。バリスにも謝るからさ」
「そうだね、じゃあ厨房の手伝いもするんだ。みんなの言うことを聞いて、お腹が空いても我慢するんだ」
「あ、ああ。わかった!今日はみんなの言うこと聞くよ!」
(『今日は』、ね)
「それじゃあ行っておいで、明日はまた訓練のために前線に行くんだからしっかり休むんだ」
「おう!またなセレネ!」
グルーニィは周りの者の気も知らず満面の笑みだ。呆れながらも可愛らしいと、みなはそう言う。
「ありがとうございますセレネ様。俺たちがもっと彼女に信頼されればいいんですが、まだまだ力及ばず」
「いいんだよ。それにじき、君たちにも尻尾を振るようになるさ」
彼女に初めて会いに行った場所は大陸の南西に位置する貿易都市セェリド、その地下スラムだった。大陸の中央の国々と西の大小ある都市の中継地点、多くの人と魔女と文化の入り混じる華やかな都市の地下、外部に見せられない吹き溜まりだ。窃盗、強姦、殺人が当たり前の狭い世界で四十年以上暮らしていた魔女。殺人までもをしたかは私の力ではわからなかったが、幼稚で過激で笑いごとにならないことを日常的に行ってきた彼女を引き入れるのは骨が折れた。それでも私には彼女を魔女隊に入れる以外の選択肢はなかった。
口は悪く乱暴で血の気が多く人の言うことを聞かない問題児。曲者ぞろい贖罪者たちのなかでも特に騒がしく、台風の目とも走る災害なんても渾名を持つ彼女は良くも悪くも組織内をまとめる香辛料として機能してくれただろう。だが、なにより私が買っていたのは、彼女の魔法だ。
「セレネ!セレネ見ろ!どうだ、オレはセレネの役に立ててるか?」
荒れ果てた荒野、私の眼にはおびただしい数の魔物の死骸がそこら一帯に映っている。その数はゆうに千は超えているだろう。その中心でグルーニィの過激で純粋な瞳がこちらに媚びていた。彼女がやったのだ、一人で全てを。
「地下で好き勝手に暴れてたころ、オレは最強だって、だれにも負けないって思ってた。でも、セレネにこてんぱんにされて、地上に引っ張り出されて、セレネの言うこと全部やってったら、そしたらコレだ。あのころはただのガキの遊びだった。オレの頭じゃせいぜいうざい奴に小便ちびらすくらいしか魔法の使い方を知らなかったからだ。でも、今オレはこんな数の魔物どもを一人で一瞬でぶっ殺せる。最強はセレネにあげるけど、それでもオレは今どんな敵にも勝てるって思える。オレがまだまだこんなにも強くなれるなんて、全部全部セレネのおかげだよ!ありがとう!」
返り血だらけの姿で抱き着いたグルーニィは、そのまま私の胸に顔をうずめた。魔物の血は臭い、今すぐにでも引きはがしたかった。だが今回は許そう。結果は見る前から分かっているとはいえ、こんなにも素晴らしい成果を拝めることができたのだから。苦労して教育したかいがあったものだ。
私はグルーニィの赤く短い髪を撫でた。少年のようなぼさぼさの毛が手のひらに刺さりチクチクとする。歳も背丈も私より上のはずだが、こうして甘えてくる様はまるで人間で言う妹のようだ。だが彼女は妹ではない、ただ少し煩わしいだけだ。
「グゥ、こちらこそありがとう。君は私の期待に応えるために努力を惜しまなかった。そして私の期待以上にこんなにも強くなってくれた」
大きな少女のキラキラとした曇りない目が私を見上げた。小悪事以外には偽ることを知らない彼女がよくもまあ、今まで私以外の私のような者に懐柔されなかったなと、彼女の今までの幸運とこれからの不運に心の上皮が憂いた。だがそれもすぐに剥がれ落ち、私はいつもの笑顔を作った。
「そしておめでとう。これで君も正式に贖罪者の仲間入りだ。今までは仮だったからね、周りへの面子のために色々と制限させてもらっていたが、これからはそれが解除される。もちろん、君の食事に関してもだ」
「ほ、ほんとかっ!いくらでも食っていいのか!」
「そうだ、遠慮することはない。――――そしてグルーニィ、君は、私の手足となり、命尽きるまで共に戦ってくれるかい」
「ああ!ああもちろんだ!やった!やった!これでやっとちゃんとセレネの役に立てる!」
グルーニィは子どものように飛び跳ねて喜んだ。何も知らない他人が見れば大の大人が飛び跳ねてはしゃいでいるこの光景は興味を引くだろうが、彼女の精神年齢を知っている者からすれば驚くようなことではない。
「セレネ、オレ何でもするぞ。セレネが指示してくれれば何でもできるから何でもするぞ。セレネは強くて頭が良くて優しくて、オレにないものを何でも持ってて、でもオレを必要としてくれてしかも養ってくれる。オレはセレネが好きだ。だから、だから…………」
彼女には語彙力がない。それは私が彼女には必要ないと判断したからだ。
言葉が見つからない誕生したての贖罪者は、言葉で発散しきれない感情を放出するために死骸の山に飛び込んだ。
「そうだね、グゥ。これからもずっと一緒だ。ただ、その食い意地はどうにかしないとだが」
あろうことか魔物の死骸を口に運ぼうとしていたグルーニィはビクりと動きを止め、名残惜しそうに生臭い灰色の腕を投げ捨てた。さすがの私もそれには驚きを隠せなかった。
「気に病む必要はない、そんなもの食べなくても君が満足するまで好きなものが食べられるのだから。なぜなら君は贖罪者になったのだから。さぁ帰ろう、新たな仲間。祝杯をあげなければならない。もちろんグゥが主役でね」
「それって、ぜんぶオレが食っていいのか?」
「もちろん」
魔女らしからぬ運動能力で飛び起きたグルーニィは私の隣を駆け抜ける。
「セレネ!はやくしないとセレネ以外の奴の分も食っちまうぞ!」
「すぐに行くから、先に前線基地まで戻って着替えておくんだ」
私はグルーニィの背中を見送ったあと、再び魔物どもの死骸に視線を戻した。どの死骸も無数の槍で貫かれたかのように体中に穴が空いている。数千体の素早く動くこの気持ち悪い生き物とも言い難い醜悪な奴らが、訳もわからず同時に串刺しになったのを私は目撃していた。
何度も心の中で歓喜した。素晴らしいと。
彼女の魔法は大規模な殲滅戦においては間違いなく、最強と言えるだろう。特に、血が多く流れる戦場であればあるほど。
とても素晴らしい成果だ。
(これだけ強力なものになれば、戦争での彼女の役割は十分にこなせるだろう。……恐ろしい魔法だ)
一つの目標を成し遂げた達成感。それと同時に感じるのは――――――不安だ。
(もし彼女と対峙したとき、無事に彼女を殺せるだろうか…………)
私はそんな心配をするにはまだ早いと切り替え、帰路についた。
(ひとまずグルーニィはもう大丈夫だろう。さて、お次は誰にかかろうか……)
ロラたちは今、廃都市カトラスの西側に広がる森の中を馬で駆けていた。英雄の郷里から地上の森につながる通路を経て、五人程度の集団をいくつか作り戦士たちは外界へと飛び出す。ロラたちはその内の一つの集団に混じっていた。
「金髪よぉ、まさか本当についてくるとは思わなかったぜ」
先頭をゆく団長、ダルエニが薄暗い木々の作る暗がりに目を光らせながら言った。
「魔女と聞いた途端目の色変えやがって、本気でお話しする気があるかはしれねぇが、その無謀な度胸だけは認めてやる。だがなぁ、そっからの話はまずお前がヘリトラに代わる戦力として機能するかだ。お前が口だけの腑抜けた奴ならそれまでだ、お帰り願う」
煽りの強い口調でそう言ったあと、一つ低いトーンで団長は続けた。
「それとなぁ、お前は贖罪者とお話ししてえと言ってるが、それはつまり殺戮兵器と面向けて話そうって言ってるってことをよく理解するんだな。億が一お前が有用な人間であったとしても、情報までは渡すがおままごとに俺たちは付き合わねぇ。お前がおしゃべりしている間にも俺たちは魔女を狩ることだけを考えて動く。だからせいぜい魔女が死ぬ前に済ませるんだな」
手綱を握るロラの手に力が入る。
(そうだ……この人たちはグルーニィを殺そうとしてるんだ。わたしとは、目的が真逆の人たち)
「もう一つだけ忠告してやる。狂い魔女をなめるな。一瞬一秒の油断や隙で奴らは俺たちを肉の人形にしちまう。俺は仲間たちをそんな目にあわせる気はねぇからな、だから殺られる前に殺る。お前もせいぜい気をつけるんだな」
森を吹き抜ける風にはわずかに腐臭が混じっていた。みな、嗅ぎ慣れた臭いだ。
(この人にわたしの力を認めさせる……それができれば話までは聞いてくれる。そこからは…………)
ロラは口を結び考え込み、その様子をロラの股の間に座っていたテトが不安げに見つめていた。このテトの不安はおよそ二時間前から続くものであった。
「グルーニィの居場所が分かった」
その言葉を聞いた途端、テトは自分の不運を呪った。目的が贖罪者である以上いつかはこうなるだろうと思っていた。準備も始めたところだった。だが、今、事は起きてしまった。あまりにも、あまりにも早すぎる。
ロラがピクりと反応し、踵を返してそう喧伝していた男に飛びつき、ダルエニに引き剥がされる。それでもロラは男に問い詰める。グルーニィはどこにいるの、と。髪を振り乱してダルエニに離れるように突き飛ばされても彼女はやめなかった。
普段は温厚、というよりも気の抜けた少し頭の足りないやつだと思っていた。酒場でのやり取りを見ていた者たちも同じような印象を持っていたのだろう。だから彼女がここまで豹変したことに驚き呆然としてしまった。たった一言、グルーニィと聞いただけで。贖罪者の名を聞いただけで。
テトはこの執着心がのちにロラ自身を滅ぼしてしまうのではないかと危惧した。同時に、その過程で魔女と人、彼女はどちら側につくのかと。もしも魔女、つまり化け物になった者たちの側につき、彼女たちの障害となる人々に害をなすのなら、それは彼女に路を示した自身の手で阻止しなくてはならない。テトは妄想にも等しいこの最悪の事態が実はかなり現実味を帯びてしまっているということをその瞬間に悟った。
テトは胃が締め付けられるような感覚を覚える。嫌な気分だ。あらゆることが向かってはいけない方向に向かってしまっているような、後戻りは許されない蟻地獄に沈んでいくような。
(ロラ……お前は何を考えている……彼らとは相反する目的を持ったお前はどうやって乗り切る。こうも早く行動に移ってしまった以上私は成り行きとお前の判断に任せるしかできない。だが、まだ、私はお前を真に信用することができない。だからどうか、この関係を続けるためにも道理を外れたことはしないでくれよ……)
「ロラ様、そう気分を落とされないでください。彼はああ言っていますが、ただ言葉選びが不器用なだけなのです。彼なりの気遣いや心配があるのでしょう」
テトが耽っている最中、団長とロラの間に入ったのは、見るからに戦闘員ではないのになぜかついてきていたエルだった。
魔法に対し、人が身に着けられる程度の物で防ぐことはできない。ゆえに魔女狩りでは強力な武器に重点を置き防具の類は軽装で済ませる。しかしそれでも、団長も他の戦士やロラでさえ程度の大きさに違いはあれど最低限の申し訳程度の防具を身に着けている。それなのにエルはと言えば酒飲み姿のままであった。しかも馬の技術がないのか、団長の後ろに相乗りをしている。そんなエルはくすんだ緑色の髪をなびかせて愉快に手を振っていた。
「見た目は凶悪な犯罪者、または無神経な石頭ですが、中身は大家族の母親のような慈愛に満ちた御方です。私は未来の英雄に悪人を見たりはしませんから」
「エル、適当なこと言うんじゃねぇ黙ってろ。舌噛むぞ」
「おやおや、私の心配をしてくださるのですね。やはりお優し――」
団長が手綱を振り先頭の馬が急加速する。陣形を維持するべく、他の戦士たちもやれやれと続いていった。置いて行かれたがなんの指示も出さない主人に対しステラが唸る。
「ロラ?」
テトがロラを見上げた。その声には不安がありありと混じっていた。もはやその気持ちを隠す気もないようだ。
「…………大丈夫。心配しないで、テトに迷惑はかけないから」
「…………」
ステラの速度が上がった。ロラは前を向き、テトは空を見上げた。
「さっさと郷里を離れるべきだったな……」
猫の小さな呟きが、風にざわめく木々の中に埋もれていった。
分厚い暗雲がずっと先を暗く暗く覆い、永遠に広がるそれを吹き始めた風が牛歩の足並みで動かしていた。太陽が顔を覗かせるにはまだ時間がかかりそうだ。
森を駆けしばらく、低い笛の音が前方の木々の合間を抜けて鳴り響いた。途切れ途切れの音色は意図的なものなのか、規則的なリズムをいくつか成している。
「四班……見過ごせない敵……交戦……援軍…………」
エルが手で椀をつくり耳をそばだてて大きな独り言を呟く。笛の音は戦士たちの連絡手段であり、音の高さや規則性で内容を伝達していた。エルが聞き取った内容から察するに、前方の班が戦っており応援を要請しているらしい。
「四班が当たっちまったようだな。お前ら、準備運動と行こうじゃねぇか」
団長がさらに速度を上げて音のした方向へと急行する。戦士たちはそれに続き、ロラもそれに倣った。ロラの頭の中で不安と迷いが飽和し、それが表情に現れる。そんなロラの頬を、半透明な肉球が何度か優しく叩いた。
笛の音がした場所ではすでに部分的に人を残した何かの死体がいくつか転がっていた。それらは切られたり、叩き潰されたり、ちぎられたりと様々な死に様だ。団長の言う四班の仕業だということは今目の前で実践されているのを見れば火を見るより明らかだった。
ロラの前には動かなくなったウイブの山と四班と思しき五人の戦士、それに対峙する一人の騎士と一人の魔女。いや、この場合はそれぞれ一体と言う方が適切だろうか。
どう考えても想定された使用年数を何十周も超えている鎧は、もはや血なのか錆なのか判別できない黒茶色をしており、その者のおどろおどろしさを語るに十二分だった。その一方で、身に着けている物全てが騎士の歩んできた古戦場を物語り、傷の一つ一つが浪漫すら感じさせる。
ロラはその騎士の籠手に彫られた徽章に見覚えがあり、その印を背負った者たちの名を呟いた。
「征戦騎士――――!」
盾の形を模した外郭に先の欠け亀裂の入った剣、そこから四方に漏れる光条、その光を掴み取ろうと伸ばされた手、不屈と渇望のエンブレム。確かそんな意味だったと教えてもらった気がする。はて……誰に…………?
「良く知ってんじゃねぇか。そうだあれが征戦騎士、大昔の大戦争で不幸にも生き残り、かわいそうなことに尽くしてきた魔女に裏切られ玩具にされた英雄様だ。さっさと成仏してもらいたいもんだぜ。そんでもって…………」
団長が視線を横へとずらした。
騎士と腕を鎖で繋がれた魔女。鎧のおかげか原型を留めている騎士とは変わり、鎖と腕が癒着して一体となり、もう片手は肘下から欠損していて変色した骨が垣間見える。身につけた衣類は腐食しぼろぼろだが、ところどころに残る装飾から上質な物だということが見て取れる。頭を分厚い穴だらけのフードで隠し顔は見えないが、赤い眼光が狐火のようにゆらゆらと遊んでいるのがわかる。ただ、これだけでも尋常な存在ではないと一目でわかるが、何より異質なのはその体制だった。両脚が完全に欠損し、自身で動くことができないようだ。ゆえに体を地面にこすりつけながら、騎士に引きずられて移動しているのだ。
まともでない存在を前に、しかし少しも怖気ず先に戦っていた戦士の一人が二体を見据えたまま団長に話しかけた。
「魔女の方は魔女隊の制服も徽章も見当たらない、野良の魔女のようです。探求者であるようにも見えない、あまり脅威にはなりそうもないかと」
戦士にしては珍しく丁寧な口調だ。
「団長、郷里に近いこの森に征戦騎士や魔女が現れたのはもううん十年も前ですよ。やっぱり最近になってから明らかに奴らの動きがおかしくなってる」
四班の整えられた薄髭の男が冷静に訴える。三十路の戦士で十分に成熟した中核を担う世代だ。他の面々に後退するよう手で合図をしながら団長の隣まで下がり、横目で団長見たあと、その後ろのロラを一瞥する。
「結局そいつ連れてきたんですか、どう考えても頭のおかしい女ですよ。気色悪い猫も連れてますし」
ロラの眉がわずかに動いた。半眼になりかけたと思ったら、パッと目を開いて別の方向を向いた。
「連れてきたんじゃねぇついてきたんだ。んなことにかまうな、奴らに集中しろ。全員でかからないと無駄に消耗されちまう」
団長は背負っていた大鉈を振り払うように抜刀した。大鉈の美しく磨かれた刃には歴戦の傷はついているものの汚れ一つなく、持ち主の表面的な荒々しさとは対照的に繊細さや几帳面さが垣間見える。
団長たちが刃を構える一方、件の頭のおかしい女は明後日の低木の群れを見ていた。木々の隙間を抜ける風がうなじを撫で、垂れたフードをなびかせ、木々の葉を揺らした。風は葉や埃の他に、目に見えないものも運ぶ。鼻の奥に記憶と共に染み込んだ刺激臭が刺さり、ロラはさらに奥の風上に視線を移した。テトも同様にそちらを見る。
低木の隙間の闇から奴らは現れる。動く屍となった無欲な存在、首のない巨人や生きる白骨死体、背中合わせに接ぎ合わされた四足歩行の人間キメラ。魔女の造物たちは不快感極まりない足取りで徐々に迫る。
ロラはその黄金色の瞳が再び頭蓋骨の眼窩に吸い込まれるような感覚にとらわれた。眼窩の闇の中で廃村での光景が蘇る。無力な女は死んだ村の中で逃げ惑っていた。逃げ続けなければ終わってしまうから。ロラは一歩後ずさった。
(っ……!逃げたら……全部ダメになっちゃう。このまま逃げたら……あの子が……)
瞬間、腰の武器がカチャりと音を立てた。それは彼女に今やりたいことの選択肢と、やり遂げるための力を与える。
手汗で濡れ、震える指が鞭をつかんだ。ぐるぐるに巻かれていた鞭が解け、金属と土のぶつかる重い音が彼女を中心に響いた。その音は団長の耳にも届き、彼女の視線にも気づいた。
「三時の方向から雑魚の野次馬だ!四班は速攻でそいつらを片付けろ、残りは俺と駆け落ち夫婦の相手だ。エル!お前は……」
「ご安心ください、私のことはお気になさらず」
涼しさと怪喜さの混じった声は木の上から降ってきた。いつ登ったのか、エルが木をよじ登る酒の肴になりそうな姿を見た者は誰もいなかった。
ロラは一瞬恐怖で塗りつぶされそうになった心をなんとかつなぎ止めることに成功した。胸に宿る使命という炎がなければ一瞬で凍えて動けなくなってしまっただろう。魔女に異常に執着のある女は、それを支えにトラウマに向き直った。
(まずはこの人たちに認められる、それだけでいい。あとのことを考えてる暇はないから、今は……戦う)
ロラが一歩進んだ。戦士たちも進んだ。(始まる)と、そう誰もが直感したとき、征戦騎士が大口を開けた。騎士は兜を被っている。だが誰もが等しくそう認識した。なぜなら兜そのものが、まるで中にいた者の体の一部だというように、生き物のようにぐちゃりと音を立てて肉のように変形し、まさに口を開いたのだ。それは人体構造を無視し、側頭部まで裂けて伸び上がっていた。そして、開けた大口からはみ出た細長い黒い牙と、後天的に現れた一本一本が鎌のように湾曲した長い爪をもつ見事なクリーチャーができ上がったのだ。
これだけでも震え上がってしまうが、人ならざる者はもう一体いる。
「ロミオ…………マた……追ッテがキた。オイ払おウ」
鎖に繋がれた魔女がそんなことを口にした。弱々しいが妙に背筋が寒くなるような声だった。
一肢の魔女が何か言った。すると服の下からいくつもの黒い線が絡み合いながら生え出す。よく見ればそれは鎖で、魔女自身の体に巻き付いてあっという間に全身が鎖に包まれていった。騎士がそれをまるで武器のように振り回し、鉄球と化した魔女を肩に担いだ。
戦士たちの顔が青ざめていく。
征戦魔女隊が敗北を帰した戦争は苛烈を極めた。魔王率いる魔物の軍勢と人間と魔女の混合軍の衝突は、それまで圧倒的に優位だった魔王側を押し返し、北へ北へと追いやった。しかしその代償は大きく、魔女隊の敗北までに生き残っていたのは本当の強者と言えるような者ばかりだった。
異形と化した騎士には目立った外傷がない。それが意味するのは、戦時もそれが終わり今になっても負けがないということである。それでも征戦騎士一体なら、それに加え瀕死の魔女一体程度なら、被害を抑えてどうにかできる自信が彼らにはあった。だが、
「鎖の魔女ってところか?そして騎士はただ奴隷化しただけじゃない、魔女のお気に入りの玩具ってわけか」
ただのウイブは尊厳を壊し、再構築すると分解を繰り返してできている。しかしあの騎士はそういったものではなく、一個体の兵器として足し算をし続けひたすら弄繰り回したもののようだった。
「ずいぶんと仲がいいじゃねぇか。そのまま仲良く逝ってもらいたいね」
騎士が動いた。肩に鎖の球と化した魔女を担いだまま走り出す。
「ハ、ハハッ!ほんとに最近は、知らねぇオトモダチが沢山だなぁ!――お前らは自分からこいつに手を出すな!俺の援護をしろ!」
団長が先陣を切った。同時に木々の隙間からウイブがおぞましい足音を立てながら突っ込んでくる。戦士とウイブの戦いが始まった。
後方にいたロラのもとにも数体のウイブが吶喊してくる。まるで終わらぬ生から解放してくれと懇願しているかのように巨人が咆哮している。
ロラは深呼吸をした。肺には冬の到来を告げる涼しい空気が入り、雑念を含んだ淀んだ息が口から頬を伝って霧散していった。震える指で鞭を強く握りしめる。
(あのときとは違う。わたしには武器があって、すぐ近くに助けてくれるひとがいて、戦う意味もある。…………わたしは戦える!)
新たな空気を吸い、迫る敵を見据える。一瞬にしてロラの纏う空気が穏やかな大型犬から、ツンと張り詰めた猟犬のものとなった。感情の薄れた瞳はひどく冷たいものだ。解いた鞭を軽く振るい、応戦の体勢を取る。
そして、一振り。
人骨のウイブ、ボースの体にひびが入り腕が吹き飛ぶ。
二振り。
ボースは粉々に砕け散った。
あまりにも呆気ない。
(――――倒した、次)
続けざまに二体のボースを軽く遺骨へと帰し、その奥から来る首無し巨人を見据える。廃都市に入る前に追いかけられたまだ名前のないウイブだ。両腕を振り回して一直線に、道中の木々を粉砕しながら向かってくる。
普段とは違う顔つきになったロラに、離れすぎない位置の木陰に隠れていたテトが眉を上げた。
迫る巨人に鞭を浴びせる。皮膚が裂け、血肉が舞う。だが勢いは収まらない。あまりテトから離れられないので大きく逃げることもできない。ロラはテトのいる木の周りを回りながら巨人から一定の距離を保ちつつ、鞭を浴びせ続けた。
「っ!?」
巨人が鞭をつかもうと手を伸ばし、咄嗟に刺剣に切り替えて事なきを得る。冷や汗をかいたロラは枝を踏み潰し、そこでふと上に目をやった。
ロラは奥歯を噛み締めた。魔石に負荷がかかり、テトの魔法、猫の足取りが発動する。大きく上がった身体能力は並の人間を超え、地面を強くければ容易く体が地面を離れる。目の前まで迫った巨人の股の間をほぼ地面と平行になるようなスライディングで通り過ぎて背後にまわり、頭上の木の枝に鞭を掛け跳躍、筋肉の少ない体は軽く、慣性で空中に舞ったロラは慣れたように手首をひねり片手で鞭から刺剣へと変形させる。巨人が獲物を見失い振り返った瞬間、ロラの刺剣が心臓を貫いた。
巨人の倒れる轟音にたまらず耳を逸らしながらも、その一部始終を見ていたテトが近づいてきた。
「あの一瞬で私の魔法の感覚をつかみ、わずかな期間で新調した武器の扱いを熟達し、冷静に相手を観察して確実な一撃を入れる。魔法の補助はあれど、すでにそこらの戦士以上じゃないか」
巨人に刺した刺剣が抜けず、慌てふためくロラを見ながらテトが言う。
「えへへ、それほどでも」
「それに、ぎりぎりではあるが霊猫の憑ける範囲内で余裕をもって終わらせたのも、まぁ、褒めてや――」
「テ、テト!抜けない!」
「…………奥歯を噛め、それでいけるだろう」
「ん……!抜けた!」
照れくさそうに頭をかくロラの手を見てテトが意外そうに呟いた。
「はぁ――――、ん?震えているのか?」
「うん……まだちょっと怖いからね」
「そうか…………よくやったな」
こんなやり取りをしてる間にも、戦士たちは死闘を繰り広げている。雑魚の処理はさすがと言おうか、残るは騎士と魔女のみだった。だがその二体が、急ぎのなか四班が援軍を呼ばざるをえなかった原因そのものだ。
「あの騎士、強そうだね」
「ああ、古の戦争を生き延びた英雄だ。多くの者を救い、慕われ、そして殺してきたのだろう。あの腕の鎖の先に巻きつけられた魔女は、守ってきた者のなれのはてなのかもしれない。はたまた逆なのかもな。ダルエニの冗談も案外真実なのかもしれない。ただ、過去どれだけの偉業を成し愛し愛されていた者であっても、今を生きる私たちにとってはもう、排除すべき脅威でしかない」
テトの言っていることはまぁ、分からなくもない。今を生きる者たち一人ひとりに歴史がある。そして、それは死ねぬ者たちも同じである。未来の英雄がいるように、その身を削り屍を築き続ける過去の英雄たちにもまた、生きた証があるのだろう。しかし、ロラとしてはそう考えることでもない。
「テトって妄想が好きだよね」
「…………否定はしない。死が蔓延し衰退する一方の世界にうんざりして、理想や豊穣のある頭の中の世界が豊かになっていく。だが、だからと言って目の前の状況から逃げるようなことはしないさ。私は現実主義者でなければいけないからな」
テトは諦めたように息を吐いた。ロラはそんな猫の頭をわしゃわしゃと撫で、怪物を中心とした宴に踏み出していった。
宴の席は賑わっている。振り回された鉄球が木々を抉り、叩きつけられた地面が割れる。攻撃をいなしながら戦士たちが輪を作って囲み、互いに援護しつつ攻撃の隙を窺う。
団長が一歩前に踏み込んだ。振りかぶり、しかし大鉈の一撃は爪に弾かれ、体勢が崩れた瞬間を騎士は見逃さない。だがそこまでの動きは戦士たちの連携の前には意味をなさず、騎士のカウンターは割り込んだ戦士のカウンターに返され、戦士たちはついに一撃をいれることに成功した。鎧の一部が吹き飛び焼け爛れたような肉体が露わになる。
「ロミオ…………連れモドされる訳ニハ…………いかなイ。ワタシ…………のコトは気にしない……デ」
鉄球が割れ、中の魔女が隙間から目だけを覗かせた。見ているのは騎士の今まさに負った傷だ。好機と見た戦士が隙間目がけて腰のナイフを投げ放ち、しかし、精密な投擲ではあったがナイフが当たる直前にその隙間は再び閉じられナイフが弾け飛んだ。無機質な音が響き、無機質な鎧が生き物のように唸る。それと同時に、鉄球から新たな鎖が伸び、騎士と魔女を繋ぐ鎖に別の鎖が螺旋を組んで巻き付いていった。そうして、騎士と魔女がより強固に一体となった。
騎士が上半身をゆっくりと下げ、両手を地面に着ける。口の端から体液を垂らすさまは獣だ。
団長が飛びのき叫ぶ。
「下がれ、下がれ!」
騎士を囲む輪が大きくなり、必然的にロラもその輪に加わる形となった。突然陣形に加えられたロラは困惑しながらも武器を構える。初陣の直後に最前線だ、大きな出世と喜ぶべきだろうか。最低でも、ロラは喜んではいないが。
苦い顔をするロラの隣にいた若い戦士が横目で彼女を見た。きっといい感情ではなかったのだろう、眉をひそめていた。だが、その一瞬がまさに命とりなのだ。
目を離した若い戦士目がけて、先ほどとは打って変わった獣のような動きと俊敏さで騎士が跳躍する。そして鉄球を横に振り払った。ロラはすぐに反応し後ろへ下がるが、若い戦士は一瞬反応が遅れそれを剣で受け止める。すぐさま爪の追撃を警戒した若い戦士は目を瞠り驚愕した。鉄球の側面からいくつもの鎖が平行に生え、回転しはじめた。徐々に速度を上げ高速回転する鎖により剣にひびが入る。
「っ――!?」
「カトルそのまま抑えるんだ!」
四班の班長が背後を取り双剣を翻して鎧の隙間を捉えた。だが、寸でのところで騎士は攻撃を中断し地面を蹴った。木々の間を尋常でない脚力で飛び回り視界の外へと瞬く間に消える。木々の作る闇に溶け込み、音だけが怪物の居場所を知っている。
いつ奇襲してくるかわからない状況に、赤毛の女戦士が何をとち狂ったのか大きく伸びをした。眼を瞑って欠伸までしてしまう。すかさず背後の頭上から鉄球を振り上げた騎士が現れた。かすかな物音に反応した赤毛の戦士が瞼を上げる。攻撃を完全に予期していた赤毛の戦士はそれを華麗に躱し、攻撃直後のわずかな隙を仲間たちが叩く。騎士の両手に攻撃を集中し、その数瞬にできた完全に無防備な状態のところを赤毛の女戦士のフレイルが直撃する。見事な手際と連携にロラが声をあげた。
「あの人たち息がぴったりだね。お互いに考えてることが分かってるみたい」
「それが彼らが積み上げてきたものの一つだからな。それより、与太話をしている暇はないぞ」
騎士が鉄球のついた腕を大きく振り回し暴れまわる。鎖を回転させて回転ノコギリのようになったり、モーニングスターのようなとげとげの形状に変化させたりしながら戦士と森の中を飛び回る。鎌のような爪で切り裂き野獣の牙で噛みつく。戦士はそれを互いにかばい合いながら避け、牽制しながらも確実な一撃を加えてはまた避ける。一見優勢に見えるが、戦士たちの体力も装備にも限界がある一方で怪物にはそんなものはない。戦場は飽和し一時の膠着状態となった。
(この人たちにわたしは少し戦えるって見せるはずだったけど、これじゃあわたし入れないよ…………あっ、あの人)
ロラの視線の先には四班の班長の薄髭の男がいた。騎士の反撃から仲間を守るために一歩引いたところで騎士の動きを凝視している。その背後には蹴散らしたウイブの死骸があり、その一つが動いた。巨人の腕が伸び、男の後頭部まで迫る。あの人外の拳なら人の頭くらいトマトのように潰せるだろう。だが薄髭の戦士は思わぬ強敵から仲間を守ることに集中し、背後の死にまるで意識がいっていなかった。
(あの人、イヤなヒト……でも…………)
ロラは一瞬にも満たない間に足元のテトを見た。彼女は侮辱されたにもかかわらず、男に危険を伝えるために今にも叫ぼうとしていた。この距離だと彼女には何もできない、無力で可愛らしいことだ。
(………………)
「がぁはっ!」
テトを片手に抱き、男の横腹を蹴飛ばした。危うく髪を巨人につかまれそうになったが紙一重で間に合った。あれが最後の力だったのか、巨人の腕はだらりと垂れた。
男は脇腹と打ち付けられた背中の痛みに悶えており、瀕死の虫みたいにぴくぴくとしている。直前で魔法の強化を切ったものの、一応男の様子を見てやろうとロラは宴に背中を向けた。その瞬間。
「馬鹿野郎!」
団長の声にハッとして振り返れば、男が吹き飛んだことで空いた布陣の隙間から騎士が飛び出してきていた。回避も防御も間に合わない、自分の頭より長い爪が睫毛に触れていたのだから。
魔女も人のように反射的に目を瞑る、直後にくる耐えがたい痛みから目を背けるように。避けられない受け入れがたい運命からは、誰であっても逃避してくなるものだろう。
「おい、おい!…………ロラ!」
瞼を開ければ面長の顔、鼻息を荒くして突っついてくるステラがいた。その頭の上には両目の青い霊猫がくつろいでいる。そして自分の足元にはぎゃんぎゃんと喚く霊猫が。
「馬鹿者!助けたまではいい、よくやってくれたと思う。だがそこで油断して背中を向けるな、私にも限界はある」
林冠の開けた小休止には丁度よさそうな空間に馬が計十一頭止められている。テトの猫の集会によってステラに憑いていた霊猫のもとまで瞬間移動したのだ。
馬たちの見張りとして木の上に歴戦の戦士が一人、光のない瞳で彼女たちを含め周囲を監視している。突然現れた彼女らに驚く様子もなく、二人が監視に気づくこともない。
「ご、ごめん…………。ありがと」
呆けていたロラは状況を理解するとテトに謝った。しゅんと落ち込んだ顔は犬のそれそっくりだ。
「はぁ、いや、いいんだ。次から気をつけてくれれば、お前の命を守れるのは究極的にはお前しかいないんだからな」
テトは説教を終えるとロラの背後にまわった。そこには横腹を抱えた男が尻もちをついて座っており、なんとも歯がゆそうな顔をしていた。
「まさか……魔女なんかに助けられるなんてな…………」
「お前がなんと思おうが、今生きていることに変わりはなく、これからもそう生きていくんだ。それに、お前を直接助けたのは私ではなくこいつだ」
テトはふいっと頭をロラに振った。
「……たしかに、それは他に言いようのない事実か」
薄髭の戦士はロラに向き直ると頭を下げた。
「ロラ……だったか、さっきまでの非礼は謝罪する、すまなかった。助けてくれたことも覚えておこう。……いい蹴りだった」
「そう……」
最低でも男はロラに対して謝罪し、それなりの敬意をもって接したのだが、ロラは男を冷たくあしらった。そんな彼女の様子にテトは呆れと意外さの混ざった何とも言えない眼差しを向け、どこでもない遠い場所を見るような目をした。
「テト、行こ」
ロラはまた耽っているテトの返事を聞く前に抱え上げ、まだ音の止まない森の奥に走っていった。「気をつけろよー」という男の砕けた雰囲気の声援を背中に受けながら。
「束縛」
鎖でできた鉄球の割れ目から魔女が顔を出して魔法を唱えた。魔女の懐から鎖が伸びて団長の体を拘束し、騎士の爪が一直線に頭を狙う。
「ダルエニ様!」
木の上のエルが叫んだ直後、山脈のような剛腕をもつ戦士がその爪をギリギリのところでつかみ止めた。銀に輝く手甲と爪がこすれ合い耳障りな音を発する。
「なんつう馬鹿力だ……オレさまの筋肉が震えている――!」
「アーノルドそのまま抑えてな!もう一回頭にお見舞いしてやるよ!」
赤毛の女戦士が背後に周りフレイルを思いっきり振りかぶった。その瞬間騎士の体を這い伝ってきた鎖が弾丸のような速度で女戦士に伸びる。
「ゼアァァァッ!」
若い戦士が割って入り剣で軌道をずらした。攻撃を防いだことを確信した戦士はすかさず膝と体を曲げて屈みこんだ。すぐ真上を髪をかすめながらフレイルが過ぎていく。
甲高い音とともに兜がひしゃげて歪んだ。騎士がよろめき団長の拘束も解かれる。
「畳み掛けろ!」
赤毛の戦士の声に、周囲の戦士たちが応える。
騎士は体勢が整わないまま鉄球で振り払おうと構えた。それを屈んでいた若い戦士が足払いをして、悪い体勢に追い打ちをかけて転ばせる。もう騎士に反撃は難しいのは明白だ。あらゆる武器が異形の甲冑に振り下ろされた。
「監禁」
トドメとなるはずだったが、魔法の鎖が騎士を包み攻撃の全てが弾かれてしまった。鎖の鎧を纏ったまま騎士は体を起こし鉄球を薙ぎ払う。戦士たちはやむを得ず距離を取るしかなかった。
しぶとい二体にめんどくさそうに団長がぼやく。
「ちっ、埒が明か――」
騎士が団長目掛けて飛んでいた。先ほどと同様に明らかな一点狙い。しかも確実に潰すために指揮系統を担う団長を狙っていた。
魔女の奴隷へと堕ちた者に意識はない、そのはずだ。そのはずなのだが。
鉄球から鎖が生えて回転し殺意しかない音が響き渡る。
「コイツっ……速くなってやがる!?」
触れれば終わりの回転ノコギリが上下左右あらゆる角度で襲いくる。団長はもろに受けないよう後ろに跳躍しながら受け流すことしかできず、仲間たちから離れていってしまう。そのことに一瞬気を割いた瞬間に、また魔女が鉄球を割り団長を睨んだ。
「張りつけ」
瞬きよりも速く鎖の槍が伸び、団長はそれをかすめつつも避けた。背後の木が悲鳴を上げる。
「おやっ!」
もう一つ、悲鳴というよりかは驚いた声が頭上より聞こえた。団長は苦虫を噛み潰したような顔をしながら体だけ向きを変え、見もせずに落ちてきたエルを抱き抱えた。エルに怪我はないが、片手では二体の攻撃を凌ぎ切るのは不可能だ。
「おやおや、これはピンチですね」
「誰のせいだこのっ!」
一瞬考えたあと、団長は大きく振りかぶると渾身の力で大鉈を投げ捨てた。騎士はそれを易々と跳ね除けるが、大鉈で視界を遮られた間にエルを抱えた団長は背を向け走っていた。
「こんな大荷物抱えてタイマンなんてできるかってんだ!」
「ダルエニ様、この方向は」
「馬のいる方向だ!奴に任せる!」
団長の言う奴とは馬番の男のことだった。だが、前方に現れたのは全く違う闖入者だった。
「ダルエニ!?」
「エルだ!」
「ダルエニなぜ手ぶらなん――」
テトが必死に走る団長の背中目がけて鉄球を振り翳した騎士を見つけて言葉を切った。もう少し距離を詰められたら二人とも怪我では済まなくなってしまう。
「ロラ!」
「ごめん時間ないからこれでいくよ!」
ロラはテトをつまみ上げ、まるで親猫が子猫を運ぶときのように首裏の皮を噛んだ。テトは驚いて間抜けな声を上げるが抵抗はなくずいぶんと大人しい。その間抜けな様子のまま、口だけを威勢よく動かした。
「伏せろ!」
団長がエルを庇いながら前に勢いよく倒れこみ、その真上で鉄球が風を切る。追撃を行おうとする騎士の爪に鞭が当たり、その爪が欠けひびが入った。
団長の大きな体の下で肩越しにエルが見上げている。二人は騎士とロラの間に挟まれていた。どちらも団長たちを中心に時計回りに歩きながら様子を見ている。ロラが吟味するように鞭から刺剣、刺剣から鞭へと変形を繰り返し、騎士がわずかでも動くと目にも止まらぬ速さで鞭を鎧の隙間へと振るった。正確な一撃一撃の牽制は騎士の注意を団長からロラへと変えた。何度か攻撃を未然に防ぐことに成功すると、ロラはドヤ顔の代わりに自慢げ鼻を鳴らした。
非力なロラに騎士の攻撃を防ぐ手段はない。向こうから仕掛けられれば避けることしかできず、今ロラが引けばよろしくない結果になることはロラ自身理解していた。だから攻めを譲るわけにはいかず、エルを抱えてうずくまる団長の動きを察したロラは仕掛けに出た。
ロラが前へと低く跳躍した。ロラの足が団長の頭を踏みつぶしそうになるが、直前で団長が横へと跳ね飛びそれを回避する。頭のあった地面をロラは強く踏みしめる。まるで頭があっても関係ないというようだ。そのまま騎士の体を貫通する勢いで一直線に跳んだ。ほんの誤差程度に反応の遅れた騎士は迎撃に出ることができず、体を逸らせてなんとかロラの突進突きを躱した。躱されてしまったが、それなら別の攻撃を仕掛ければいい。ロラは騎士の隣を通り過ぎた瞬間、瞬時にツヴァイを変形させ騎士の首に鞭を巻き付けた。そして奥歯を強く噛み身体能力を大きく上げると、自分を中心に遠心力を使って騎士を鉄球ごと投げ飛ばした。
「うっ……」
テトが呻いた。猫の足取りは噛む力が強いほど効果が大きくなるが、それだけテトに負担がかかる。
「ほへんはひふひほ」
「問題ない、お前は目の前のことに集中しろ」
「ふん」
飛ばされた先で木にぶつかり尻もちをついていた騎士が立ち上がる。と、同時に鉄球を成していた鎖が解けていった。鎖の魔女が力なく騎士の足にもたれかかっている。どうやら魔女の方は大きく消耗しているようだった。はだけたフードから灰色の髪と酷い火傷痕のある女の顔が露わになる。ハイライトのない瞳が震えていた。魔女が見上げ、騎士は片膝を突くと鎖の繋がった左腕を魔女の前に差し出した。まるで誓いをたてているかのようで、状況が状況でなければなんともロマンティックだっただろう。だが今はそんな感傷に浸れるときではない。
「離レない…………私タチは…………」
魔女が唯一残された右手をその腕に添え、魔法を唱えた。
「誓い」
木々がざわめき騒ぎ立てる。鳥が仲間に危険を伝えながら一斉に飛び立った。
魔女がパキパキと音を鳴らしながら鎖に包まれてゆく。鎖の塊は血を流しながら形を変えていった。やがて、分厚く、長く、いかにも重厚で重々しいそれは、目の前の障害全てを叩き潰す誓いを体現した特大剣へと成った。
巨塔のような剣の腹をこちらに見せながら騎士が両手で特大剣を構えた。
「ロラ、さすがに危険だ一旦退こう」
「へほほへはあはほひほはひはははひふへへふへはひほ」
「それは……そうだが…………」
テトは弱腰だ。実際に戦場にいるわけでもないのに怖いのだろうか。
「はひほほふ、はははんほははふはひへはほほほふほ」
そう言いながらもロラは瞬き一つせず腰を下げて構えていた。少し息も上がっている。
そうこうしている間に騎士が動いた。一気に距離を詰め特大の一薙ぎを振るう。直後、薙いだ空間が点々と灰色にキラキラ輝いた。ロラは剣の届かないぎりぎりの間合いで避けようとしたが、その輝きを見た途端反射的に地面すれすれに伏せた。
点々とした輝きが突然弾け、そこから鎖の破片が飛び散り周囲の木が枝葉を折った。さながら散弾銃だ。一人と一匹は目を丸くして驚いた。
「これでも!まだ!余裕か!」
首の皮を基点に振り回されながらテトが叫んだ。次々とくる散弾付きの斬撃を死に物狂いで避けるロラは「ほんはほひははいほぉ!」となんとも惨めに答えた。惨めだが見事に避け切ってはいる。
騎士はすばしっこいねずみを追うのを諦めたのか動きを止め、剣先をロラに向けた。特大剣の先端が割れ、頭と心臓だけになった魔女の眼光が垣間見えた。
(……?)
「エスト」
無数の鎖の槍が剣から生え、四方の木々の中へと姿を消した。魔法の槍は自由自在だ、いつどこから体に穴を開けに来るか予測は難しい。
ロラはテトを下ろした。溜まった唾を吐き捨てて大きく息を吸い、再びテトを咥えた。不満げな猫の鳴き声が風に流され消えていった。
騎士が走り出した。突きの構えで突進し、そのさなかまた剣先が割れる。
(やっぱり!)
「オーシイブ」
確信を得て喜ぶロラは自分の片足が拘束されていることに気づくやいなや、足元の小石をもう片足で迫る脅威に向かって蹴った。その動作に紛れ、もう一つ何かを投げる。
小石が兜に当たりカーンとよく響いた。それだけだ。だがその直後、柄に鞭が巻かれた小刀が騎士の兜に当たった。これもカーンと音を鳴らした。よく響く音だこと。変形し割れているとはいえ小さな刃物などその程度だ。爆発でもない限りこの騎士は止まらない。そう、爆発でもない限りは。安全ピンはすでに外されている。
ロラは鞭を勢いよく引いた。
鞭に引き絞られた炎響の引き金が目一杯引かれる。
爆風、熱、衝撃波が騎士の上半身を包み込み、さすがの怪物も足を止めふらついた。
自身も熱風を浴びて目を細めながらも、あわやはるか後方に吹き飛んで行ってしまいそうな炎響をキャッチしたロラは、足を拘束していた鎖が消えていることに気がついた。すぐさま反撃を仕掛けにいく。
煙で見えないが、兜は大きく損傷している事だろう。ロラは刺剣へと切り替え、剣を地面と平行にし、顔の横までもっていき突きの構えを取った。狙うは一点だ。呼吸を止め、体幹を固定し、無防備な獲物へと一気に。
剣先が割れ、鎖の魔女が顔を出した。騎士の窮地には必ず彼女が顔を出す。
「フィネ――」
鎖の魔女の目には銀色の円が映っていた。その円は少しずつ大きくなっていき、魔女はその円がまさに今自分の頭を貫かんとする刺剣だということを理解した。理解したところで遅いのだが。
(さよなら、しらないひと)
刺剣の一突きは魔女の頭を貫けなかった。
「な!?」
直前で騎士が剣を引いたのだ。代わりに鎌のような爪をロラの頭に向けて振り下ろす。目の前に異形の爪が迫るのは二回目だった。今回も自分では防ぎようがなさそうだ。
「なかなかやるじゃないかアンタ!」
肉の裂ける音の代わりに聞こえたのは薄髭の戦士の声だった。交差させた双剣で騎士の爪を寸でのところで防いでいる。
「アーノルド!レイア!」
四班の班長に名前を呼ばれた二人は何をしろと言われるまでもなく行動していた。剛腕のアーノルドが後ろから羽交い絞め、そのアーノルドの肩に飛び乗り仁王立ちした赤毛の女戦士がまるでゴルフをするかのように自慢のフレイルを、振った。
飛んだ。欠け、焼け、へこんだ騎士の頭が。宙をくるくると舞って飛び散る中身が円を描く。木の幹に激突し、根に転がされ、ついに動きを止めた。残された胴体もそれに随伴し力なく倒れ伏した。死んだ。過去の英雄は数百年のエピローグを経て、ついに幕を下ろしたのだった。
「まだだ!総員伏せろ!――――カトルッ!」
班長の命令を聞くまでもなくロラは地に膝を突け、森の暗がりに潜み今まさに全員の心臓を貫こうと飛翔している鎖の槍を目で追っていた。鎖の魔女はまだ生きている。トドメを刺したいが剣の中に閉じこもっており、ロラの力ではどうしようもなくなってしまった。
魔女の操る槍が四方八方から仇敵を屠ろうと風を切った。伏せるロラたちの中心にいつの間にか現れた若い戦士が長剣を構える。部外者のロラに気を取られてあわやとなった彼だが、それも彼の中では遠い過去の話だ。今は仲間を守るために集中し、足先から剣先まで感覚を研ぎ澄ませ研鑽した剣技を披露するのみ。
「ゼェアアアァァァ!!!」
長剣が唸り、空気、葉、そして魔法の鎖でできた槍を切り裂いた。鎖が飛び散っては霧散し、反動で長剣にはさらに大きなひびが入った。真上で起きた出来事であり耳が痛くなるほど大きな音がわんわんと頭を往復する。なんにせよ、もう、脅威と呼べるものは無くなったのだ。
「この剣の中に魔女がいるよ」
テトを胸に抱いたロラの簡単な説明を聞くと、美しく手入れされた短い黒髪を撫でたアーノルドが、自身が崇拝する己の拳を握りしめた。
「では、この拳で引っ張り出して見せしんぜよう」
磨き上げられつややかな光沢を放つ握り拳が一度、そして二度三度と男の背丈ほどもある巨大な剣に振り下ろされた。
「むうぅ……弱っているとはいえなかなか…………」
アーノルドは一度息を整えると全身の筋肉を盛り上げて雄叫びを上げた。そして怒涛の勢いで鉄拳を打ちつけた。火花が散り、砂埃が舞い上がるなか、剣の腹には亀裂が入り始める。
ロラはもう興味がないというふうにしゃがみ込んで、嫌がるテトにぺしぺしと手を叩かれながら撫でていた。視界の端で奮闘している戦士を尻目に、(まだかなぁ)などと考えてすらいる。やがて降参した猫がロラと赤毛の戦士にされるがまま体を弄ばれるなか、パキッという音とともに魔女の棺桶が開かれた。と、その瞬間、とても不服そうに、屈辱的だという表情をしながらもゴロゴロと喉を鳴らして無気力に腹を見せていたテトが飛び起きた。ロラも同時に武器を抜くがそれでは間に合わない、ロラは避けるべきところを判断を間違えた。
ロラごとアーノルドを串刺しにしようとした最後の鎖の槍は、待っていましたと言わんばかりのタイミングで大鉈によって弾かれた。衝撃でビリビリと痛む腕の感触を確かめながら団長が言う。
「揃いも揃って慢心しやがって、これで貸し借りはないからな」
そう言って団長は振り返り、唖然とした。肝心の一人と一匹はすでに退散していたのだった。しかも赤毛と剛腕の二人もついでに。
馬のセーブポイントから急いで戻ってきたときには、もう全て終わっていた。
魔女の棺桶となっていた特大剣は跡形もなく消失しており、それがあった場所には白と赤しかない。骨と魔石だけになった魔女はずいぶんと小さくなってしまったという印象をロラに与えた。首なしの騎士とをつないでいた鎖のうち、元々あった一本は本物だったようで、朽ちていく彼とバラバラになった彼女を今もつないでいた。その間に何があったかなど察するに余りあるが、少なくとも祝福の余地もないこの結末を迎えた二人に対し、テトが静かに祈っていた。
小さな遺骸から魔石とそれを融合させた骨の一部を外し、騎士の徽章を剥がし、若い戦士はそれをエルに渡した。エルはそれを布で丁寧に包み、腰に巻いていた腰鞄にしまい込んだ。
「ああやって戦利品を回収し、それを証拠として、自身の武勲として保管するんだ」
聞いてもいないのにテトは説明を始めた。ロラは内容に興味無さげだが、その声に耳を傾けている。
「彼らがどれだけの徽章と魔石を回収してきたかは分からないが、きっとそれぞれで私が抱えきれないほどだろう。魔女も征戦騎士も見過ごせない脅威だ、それらを率先して排除してくれる彼らには感謝しているし尊敬もしている。……………………しかし私は――」
「おい金髪」
団長の太く低い声が割って入った。ロラが不機嫌に睨むのを無視して団長は続ける。
「お前の実力は見た、ひとまず追い返さないでやる。だが調子に乗るなよ、俺らの邪魔をした瞬間……俺含め手荒な奴が多いからな」
団長は言いたいことだけ言ってさっさとエルを引っ張って行ってしまった。その一部始終を目撃していた四班の四人、班長と女戦士のレイア、見た目はロラと同年代の若い戦士カトル、エレガントに身だしなみを整えるアーノルドが和気藹々とやってきた。
「団長はああ言ってはいるけど、あんたは十分やってくれたと思うよ」
「ああ、オレさまの筋肉には敵わないが、なかなかだった」
レイアとアーノルドが左右から肩に手を乗せて言った。筋肉質な二人の手は重く、ロラはふらついた。しかし嫌そうな感情は表情にはなく、褒められて素直に喜んでいるようだった。
「あなたたちも、助けてくれてありがと」
レイアがロラの肩をバンバンと叩き、ついでロラの陰に隠れ気配を殺していたテトに目を向けた。声を数段低くして話しかける。
「猫の魔女……残念ながら価値観や偏見ってものはそう簡単に変わりはしないけど、まあ………………あんたに助けられたのは二回目だ……礼を言うよ。少し、あんたへの接し方を見直そうと思う」
その声は礼を伝えるころには憎悪の気は無くなり、アーノルドも渋々ながらも肯定するように頷いた。
「…………???」
テトは心底驚いたようで、目をぱちくりさせている。彼女らしくなく思考を放棄して呆然とし、やっと出たのは「あ、ああ」の一言だった。
「新入り……その……さっきは睨んで悪かった。お前を自分の実力も知らない出しゃばりだと誤解してたんだ、すまん」
カトルが眉尻を下げ申し訳なさそうに謝った。さっきまでの気迫は消え、落ち着いた好青年の印象になる。
「ううん、嫌なことを言ってきたわけでもないし、謝ってくれたし、もう気にしてないよ」
ロラの言葉を聞いたカトルはぱあっと表情を明るくさせた。大型犬が二匹。
「にしても、ロラみたいな技術の卓越した者がいたのになんで今までヘリトラしか見なかったんだ?」
そう言うのは班長の薄髭の戦士だった。的を得ている疑問に対し、テトは事前に用意していた答えを返す。
「お前たちのとこのフォトクリスと同じだ。戦力として十分な分、役割を分けていた。彼女は籠の周囲の守護を今までしてきたんだ。だからお前たちの前には姿を出さなかった」
「…………魔女には聞いてなかったんだがな」
テトの耳が、よく観察しなければ分からない程度垂れた。もちろんロラはそれを見逃さず、それまで友好的な人間に囲まれ子どものようにキラキラとしていた目から輝きが消え、冷めた視線を男に向けた。あからさまに嫌な、下等生物を見るような目だ。ロラの方が背が高いことで余計にそれが際立つ。彼女が苦言を呈しようと口を開いたとき、それより先に男は態度をあらためた。
「わ、悪かった、悪かったって。すまない…………体に染みついてて、反射的に…………」
男は観念したと手のひらを見せて降参した。
「魔女、非礼を詫びさせてくれ、すまなかった。……さっきレイアが言っていたように魔女への気持ちはなかなか変わらないが、こうやって新しい風が入ってきたように、魔女であるあなたに対しても多少なりとも価値観に融通を利かせることもまぁ……できた方がいいのかもしれない。…………さっきは助けてくれてありがとう」
目こそ合わせないがそこに敵意は無く、軽蔑といった感情もこもっていない。それが意味するのは本心ということだ。積み重なった魔女への恨みの山は篤くそう簡単に崩すことはできないが、その山にトンネルを設けて例外的に気持ちを通すことも人によっては可能だ。彼らはそれができる人間だった。魔女は仲間を危険に晒し時に殺し、人間の生活圏を狭めている。テトは違うということは彼女の言動を見れば明らかだが、広大な山中の小さなトンネルを通るのは針に糸を通すようなものだ。木々が入り口を覆い隠し、通り抜けられることさえ気が付かない者もこの狭い世界にごまんといる。
テトはまた驚いていた。だが今回は持ち直しが速かった。
「ああ、私にできることをしたまでだ」
男はちらりとロラの顔を窺い、暗雲の晴れた顔を認めると安心したと盛大に息を吐いた。
「そういえば名乗っていなかったな。俺はこの四班の班長のヒーツ、それで――」
「あたしがレイア」
と、何となく雰囲気や言葉遣いがヘリトラに似た赤毛の戦士が。
「アーノルド」
団長よりも腕っ節のある大男が腕を組む。
「カトルだ」
くすんだ青色の髪の青年が胸を張る。
「ロラだよ、よろしくね」
「それと、今ここにはいないが馬の番としてフォトクリスって奴がいる。それが俺たち四班だ。――――ロラ、君のおかげで……君たちのおかげで目立つ負傷もなく脅威を排除することができた。これからも長い付き合いになればと思うよ」
「次のヤバいのに生きて勝てればだけどね」
レイアの軽口によって言った本人以外の笑みが消える。しかしそこで「みんなすごい連携だよね、どうやってるの?」というロラのなんてことない興味が陰鬱な空気を打破した。四人がそれぞれ自身の武勇と物語に自信とそれに見合う戦いの歴史を持ち、四人の何百回と語ってきた研鑽の日々と武勇伝をロラにも語りだした。溢れ出るそれは、馬に戻り集団を大きくして目的地に向かっている間も続いた。
「アハハハッ!こんな熱心で素直に聴いてくれるやつなんて久しぶりだよ」
「そうなの?」
「さんざん周りに語ったんだから飽きられるのも当たり前だろう。まあロラたちのおかげでまた新しい内容が増えたが」
「ロラよ、おぬしも何かしら武勲をたててきたのでは?」
「たしかに、俺に劣らないくらい反応が速かったりしたしな」
ロラが四班の面々に興味を示したおかげか、彼らもロラに対してよく目を向け始めた。ロラはテトと目を合わせると曖昧な返しをしてはぐらかす。
「目立ったことはしていないと…………しかし、おぬしの腕前はなかなか……いや、かなりのものだった。力はヘリトラには到底及ばないが、技量で言えばおぬしが上手なのかもしれん」とアーノルドが語れば、「悔しいが、確かに目を瞠るものだった」とカトルが持ち上げ、「まったく団長も他の連中もピリピリしすぎなんだよな」とレイアが愚痴る。
それからも、ロラへの賞賛や同情の言葉が彼らから漏れた。彼らの内では、ロラはもう仲間という認識になっているようだった。ロラはただ素直に彼らの言葉によく反応を返した。
「わたしじゃヘリトラには勝てないよ。でも、”おれさま”は力比べなら勝てそうだよね」であったり、団長の話になれば、「わたしあのひときらい」といったふうにロラは裏表ない返答をする。そんな彼女を四人も気に入ったようで、出会ってすぐの剣呑な雰囲気はあっという間に薄れていた。
アーノルドの特徴的な一人称からあだ名呼びまで覚えたロラは見事に溶け込んでいく。ロラのヒーツへの冷たい気配も消え、籠の住民と接するときのような柔らかいものへとなった。彼らが新しい仲間と認めたように、ロラもまた、彼らを良き友と認識したようだった。
ロラの股の間でテトはひとまずといった様子で安心したのか遠くを見つめた。
(予想外の大事に巻き込まれてしまったが、相応に収穫もあるようだったな。ロラの戦闘技術はヘリトラから聞いてはいたが、動きはヘリトラほど激しくなくそれでいて無駄がない。私の魔法で補助すればヘリトラと同等か、魔法を使える分優秀になり得るかもしれない。…………魔女セレネも魔法の才だけでなく武芸にも卓越した技術を有していたと記録がある。今のこいつの立ち振る舞いからはとても重ねられる存在ではないが、あの真剣な表情や纏った雰囲気……まさか、こいつは本当にそうなのか?)
ロラは仲良くなった戦士たちとコミュニケーションを楽しんでいる。魔女であることを偽っているとはいえ、テトにはできなかったことだ。
(何度かひやひやするところもあったが、なんだかんだで受け入れてくれる人間を増やすことができたな、やれやれだ。籠でのこいつの様子を聞く限り人間として振る舞えば根を張ることには困らないと予想していたが、こうも早いとはな。私にはない、人を惹きつけるものがあるのだろう。…………今まで、何をしても郷里の人間から感謝されることなどなかった。私もしだいにそれが当たり前だと、悔しくも思っていた。ヘリトラと共にいたときは彼女が主体になっていたこともあってか私に向けられるものはどれも気分のいいものではなかった。ヘリトラが睨みを利かせてもそうそう変化しなかったのだが、まさかそれが今になって変化するとはな。ノエルやエルに関してもそうだ。だが――――新しい風か…………)
テトは横目でロラを見る。新たな友人を得たことで機嫌が良さそうだ。
(まったくの新顔のこいつが睨まれながらも大胆に動き、停滞していた見解に流れができたか?まぁ、なんにせよ)
「ロラ、よくやったな」
機嫌の良さそうな顔がその言葉を受け、ニッと歯を見せた。
「そろそろ機嫌を直されてはいかがですか?」
二つの班が合流し、計十一頭十二人と一匹からなる集団の先頭をゆくダルエニの背で、エルは分厚い背中に向かって拗ねた声で訴えた。手綱を握る大男の手には余分に力が入っているようにも見える。
「結果的に皆様無事ですし、ロラ様の腕前も確認できたではありませんか」
不機嫌に鼻を鳴らすダルエニに、エルは唇をとんがらせた。
「ハッ!やっぱりな。――下手な芝居するんじゃねえ。あのイカレ女の出番を増やすためにワザと降ってきやがったな」
「おや、おやおやおやおやおや」
エルは否定や動揺もせず、さっきまでの拗ねた演技も忘れてだんだんと可笑しそうに声色を変えた。
「まさか私がダルエニ様を危険に晒すようなことなど……まあ、ロラ様たちがこちらに向かってきているのは木の上から確認はしていましたが」
霧のように輪郭のない女は尚も愉快にそう言った。そんな愉快な顔は振り返ったダルエニのげんこつによって呆気なく消えてしまったが。
「危ねぇだろうが」
「貴方様の腕を信じてのことですよ」
「バカが、巻き込まれて怪我でもしたらどうすんだ」
その言葉に、エルはきょとんと黙ってしまった。
「自分から戦場に出ようとすんじゃねぇ、俺はお前が思っているより弱い。自分の身で精一杯の場合もざらにある。だからもう二度とあんな真似するんじゃねぇ。ったく、胆が冷えたぜ」
「………………」
勇ましくされど不器用な背中、こういう人間だと骨の髄まで理解してはいるが不意に来るそれに対し、彼女の仮面は長く同じ時を過ごしても剝がれてしまう。
エルは心底可笑しそうに、心の底から可笑しそうに笑った。そして腰に回した腕に力を入れた。
「ええ、ええ、ええそうですね、もう二度とあんなことはいたしません。それが貴方様の望みなら」
雲の向こうからでも大地に存在感を放っていた太陽も時間には勝てない。夜の闇に横取りされた大地は夜行性である魔女の縄張りだ。闇の軍勢に怯える人間は身を震わせて潜むほかない。魔女を狩ると意気込む戦士も同様に、ここまで不利な夜に出歩くようなことはしない。ゆえに今、三つの班、計十七人が廃村の共同住居の広間に身を寄せ合っていた。目的地まではまだ二時間はかかる距離にいる。
「ノエル!」
「ロラさん!テトさんもご無事なようで何よりです」
「お前もな」
白いローブに身を包んだノエルが駆け寄って隣に腰を下ろした。その所作や体の輪郭が分かりずらいせいで中性的から女性よりに見える。
「レイアさんから聞きましたよ、大活躍だったらしいじゃないですか」
「えへへ、それほどだよぉ」
「調子に乗るな、こっちは寿命が縮む思いをしたし首の裏もムズムズするんだ」
窓枠に姿勢よく座っていたテトが後ろ足で首をかいた。まごうことなき猫の仕草に思わずとノエルが吹きだしてジト目に拍車がかかる。「仕方がないだろう、この姿だとこのやり方が一番やりやすいんだ」とテトは不貞腐れてプイッと夜を強める外を眺め始めてしまった。猫の目を借りる彼女には闇に包まれていく世界も関係なく見えるのだろうか。
ノエルの大きくはないが澄んだ笑い声に釣られて友人たちがロラのもとに集まった。一部の人間にはもうすっかり受け入れられているロラなのであった。
「なあノエル、この際言ってしまうけど、あんたの育ての親、レイスは…………」
在り合わせの携帯食を囲み他愛のない話をする中、話題がひと段落したタイミングを見計らってレイアが呟いた。そもそもこの遠征は、レイス率いる郷里屈指の探索隊が長年姿を現さなかった血の魔女を発見したという報せを受けたことが発端だった。しかし、情報を持ち帰ってきた吟遊者曰く、自分以外の者の生存率は絶望的とのことだった。無論、それを率いていたレイスも例外ではない。
「それは……正直、あの人のことだから魔女に殺されるのは本望なんだろうなって思うことにしたんです。今回だけではなく、以前から危なっかしい人でしたから」
「ふぅむ、そういえばあやつは魔女を貴ぶようなことを時々口にしていたな。あやつなりの冗談と捉えていたが、ノエルの様子を見るに、あれは心から思っていたことだったようだな」
アーノルドが無い髭を撫でながらどんな感情をすればいいかと唸った。彼だけではなく、聞いていた四班の四人が皆難しい顔をしている。
「そのレイスってひとはすごいひとなの?」
冷えたスープを啜りながらロラが聞いた。
「そりゃあねえ、ヘリトラやフォトクリスには及ばないけどその一歩か半歩後ろくらいにはいる人だからね」
「何より、誰よりも彼は博識であらゆる物や状況を利用できる人だった」
レイアとヒーツが答えた。
「話も独特だったけど、それが面白かったな」
胡坐をかいて頬杖を突いていたカトルが話に加わった。
「そうですね、ぼくもあの人の口から時々溢れてくる好奇心が好きでした。この騒動の直前もまた何か魔女の情報が得られるかもしれないと、普段の彼からは想像しにくいでしょうが浮足立っていましたね」
ヒーツががさごそと荷物を漁りながら独り言のように言う。
「そういやノエルはそんなレイスにあんま感化されなかったな。俺たちと同じで魔女なんて狩る対象としか見てないもんな」
カトルの言葉に反応したのはロラだった。
「えっ!ノエル出かける前に……」
すかさずノエルはロラの口にスパイスの効いた腸詰めを突っ込んだ。びっくりして止まった口が楽しい刺激を与えてくれるおいしい食べ物を認識すると、もごもごと食べることに専念し動き出した。
(あ、危なっ……)
窓枠の上で耳だけ傾けていたテトが振り返る。
必死さのあまり、ノエルの白髪の毛がところどころそぼっている。
「ロラさん、ぼくたち三人以外にはどうかご内密にお願いします」
耳元でノエルに囁かれロラはハッと目を開いた。
「ほ、ほへん」
「いえ、ぼくが周りの目を気にして打ち明けられないのがいけないので……あ…………」
ノエルは自分が迂闊なことをしたと理解した。目線をロラから戻せば四人と目が合い、聞こえずとも二人のやり取りから何かを察したようだった。
「なるほどな一本取られたなこりゃ」
「い、いえそういうわけでは……」
「なんだしっかりレイスに影響されていたのか」
「べ、弁明を」
「おぬしは自身の考えを押し殺し耐えてきたのか」
「そ、そういうわけでは……」
「ならもうレイスみたいになんか怪しげなこと調べたりしてるのか?」
ニヤつきながら問い詰めるカトルにノエルは視線を斜め下に持っていった。いつの間にか正座までして畏まっている。
「ま、まだです……まだ、できたらいいなって……思ってるだけで……こ、これからロラさんやテトさんと協力してやっていけたらいいなって…………」
語尾が徐々に蚊のなく声になりながらも自白したノエルは縮こまってしまった。異端とされ今の立場が脆くなるのが怖いのだろう。
(これは…………まずいか…………?)
テトは助け船を出そうかと窓枠から飛び降りた。ノエルの職業上ぞんざいな扱いはされないが、この事実が知れ渡れば今後の生活に大小影響は出るだろうというのは郷里の住人でないテトでも考えられた。――――しかし、ノエルとテトの予想は裏切られる。
「確かに、魔女を知りたいと大勢の前で言い切ってみせたロラ嬢とは話が合いそうではあるな」
(ロラ嬢……)
腸詰めを頬張る背中越しにテトの耳がぶるっと動いた。猫の耳でも感知できない速度でロラは馴染んでいっているようだ。
「なるほどねぇ、変わり者は惹かれ合うってことだね」
やっと口を空にしたロラは視線を感じたのか、レイアの言ったことに合わせて自分を見るヒーツと目を合わせた。ロラが半眼になり「いー」と口を開いて言った。
「……イカレ女」
「なっ!ひ、引きずってたのか!君って人は……あーもう悪かった悪かったって、ほら、残りの酒飲んでいいから機嫌を直してくれ……」
どさくさに紛れ酒をすすっていたヒーツが機嫌を取るのに必死になり、そんな二人を見て笑い転げるレイアとアーノルド、彼らの反応はノエルの思っていたものとは大きく違っており、困惑しつつも安心しているようだ。緊張を解き足を崩したノエルにカトルが語りかけた。
「嫌な目で見られると思ったか?」
「……はい」
「まぁ、突然現れて突然馬鹿げたことを言い出したロラの前例が無ければ、あいつほどではないにせよ俺たちもいい顔はしなかったかもな。でも現実はこうして前例があって、それが衝撃のほとんどを吸ってくれたおかげでお前は受け入れられたんだ」
「ただ勘違いはしないように、あくまでもこの班の人間だけにするように」
持参した食料品の入った鞄を「すきにしてくれ」と投げやりにロラに預けたヒーツが忠告として言った。酒が入っており仄かに顔を赤らめている。
「四班は私が選り好みして頭の柔らかい人間を選んだからね。喧嘩は嫌いなんだ。――――あっ!ロラそれは飲んじゃダメだ!それは祝杯用だから!ほらこっちなら飲んでいいから……」
「ってことだ。ロラももう仲間みたいなもんっていうか、班長サマは世話焼き始めてるし……俺たちはっていうか、戦士は仲間を大事にするもんだ。じゃなきゃせっかくの英雄譚が台無しだからな。だからまぁ、なんていえばいいか…………」
「困りごとや行き詰ったときは頼るといい、それが例え異端な考えに興味を持つおぬしであっても、オレさまたちは変わり者のロラと、その仲間であるおぬしにもまた手を貸そう。無論、ロラの仲間としてでなく吟遊者のノエルとして頼るのであれば、今まで通り全身洗礼をもって力になるがな」
そう胸を張ってアーノルドは宣言した。
「はい……はいっ!ありがとうございます」
その言葉を噛みしめるように何度も頷きながらノエルは二人に礼を言った。
(こうも簡単に、受け入れてくれるものなのか…………。いや、いいんだ。丸く収まったのだから)
テトはロラたちの輪から背中を向け、窓枠に戻っていった。
盛大ではないが賑やかな宴、皆これが最後の晩餐になるかもしれないと理解しているからこそ好きに愉しみ、飲み、談笑し、肩を組み合った。四班に半ば溶け込んでいるロラも、その仲だけではあるが、大いに満喫していた。
やがて完全に太陽が沈むと一斉に糸が切れたように眠りについた。ロラはノエルを連れて、テトのいる窓際に陣取っていた。二人は床に座り、壁に背を預けてコソコソと話していた。
「ロラさん、なんか……本当にありがとうございました。今日この一日だけでぼくの人生は大きく変わったような、変わっていくような気がします。勇気の出なかったぼくに一歩前進するきっかけをくださったこと、ぼくはこれからずっと忘れませんよ」
ノエルはそう、照れくさそうにロラに微笑んだ。
「わたし、ノエルに何かしてあげれたつもりはないんだけど……」
ロラは目を閉じ眉を寄せて思い返すようなそぶりを見せるが、やはりこれといってないようだ。
「まぁなんでもいいや、ノエルが喜んでるならそれでいい。それに、わたしの方こそありがと。話しかけてくれて、協力してくれるって言ってくれて。向こうで色んな嫌なこと言われてすごく嫌だったんだけど、ノエルとエルのおかげで元気になれたんだ。だから、ありがと」
ほんの一瞬雲間から月明かりが射し、ロラのニカッと笑った顔が闇に映えた。ノエルはほんのりと頬を赤らめ、それを取り繕うようにはにかんだ。
「テトさんも、今まで不甲斐なかったぼくをなんの棘もなく受け入れてくださって、ありがとうございます」
「!?」
我知らずとしていた猫はピンと耳を張った。
「だって~、わたしからもありがとっ」
テトが言葉を紡ぐのを待たずに二人は話を続ける。
「そういえばさ、ノエルは魔女に興味があるってことだけど、テトには興味ないの?」
「あー……それはですね…………お、怒らないでくださいよ」
そう言ってノエルはテトを見上げた。いったいどんな見解を持たれているのか見当もつかないテトは首を傾げ、「そうそうに怒らないさ」と尻尾を揺らした。
「その、まるっきりというわけではないのですが、テトさんはその……ぼくの中では魔女というよりも……たまに会う気難しくて苦労してそうな人って印象で…………つ、つまり人間みたいだなぁ~て感じてて」
そこまで言ってテトの反応も待たずにノエルは横になった。逃げるようなノエルを見て、テトは仕方ないとため息をついて尻尾を垂らす。
「そ、それでは、ぼくももう寝ますね。明日は大変な一日になります。ぼくはとにかく仕事をしつつ死なないように、ロラさんたちは対話を試みるんですよね。ぼくとは比べるまでもなくお強いのは分かりますが……どうか、お気をつけて」
「うん、ノエルもね」
真っ白なローブを体に掛け、リュックサックを枕にしたノエルが重くなってゆく瞼に抗いながら隣を見た。
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
「テトさんもおやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
ノエルは目を瞑り、しばらくすると寝息をたて始めた。それを見計らい、テトはロラの肩に飛び降りた。一人と一匹は囁き声で話す。
「半日近くフードや帽子も被らずに外に出ていたが、体の方は何か不調はないか?」
「全然……ではないけど、そこまで問題ないよ。雲と葉っぱが守ってくれたからね」
「そうか、それを聞けて安心した」
「そんなことよりテト、ステラのことどうしよう」
「とっくにルーメンに伝えたさ。ステラ自身も馬同士では社交的だ、心配はいらないだろう。はぁ、まさか外で一泊することになるとはな」
「うぅ、ごめん」
テトは肩から降りて尾をロラに向けた。
「いい、まずお前が気にするべきことは、明日、グルーニィと邂逅した際、何をするかだ。私はずっとそれが心配だ」
「……」
暖炉や篝火とは違い、この大陸に普及する明かりである鉱石は風や空気の影響をほぼ受けない。だからこうして、ふっと出たロラの表情を鮮明に、影が揺れることなく照らしてみせる。
「さすがのお前も難しい顔をするんだな。ただもう遅い、今日は寝て明日に備えるんだ。考えるのは明日の早くでもいいだろう」
「……うん、そうだね」
ロラが体を倒して仰向けに寝転がった。ノエルに倣い腰に付けていた鞄を枕にする。少々ごつごつとして痛い部分もあるようだがそれを避けて調整する。それを横目にテトは定位置へと戻っていった。
「おやすみ、テト」
「ああ、おやすみ」
テトがランタンの窓を閉め、月の祝福もない完全な闇が訪れた。
冬が目前に迫った夜風はずいぶんと冷える。身をよじるロラに上着を持たせるべきだったと独り後悔しながらテトは夜目を利かせて外を眺めていた。本物の猫は夜目は利くが視力は低い。しかし霊猫は魔法であり、わざわざデメリットに付き合う義理もない。夜目を利かせつつ、自分の視力でものを見るいいとこ取りができるのだ。さらに好きなときに好きな部位の感覚の接続を切ったり戻したりと、とても都合がよく、万能な魔法だった。そんな万能な魔法ではあるのだが、テトは生真面目に夜風の寒さをその身に感じていた。
見える限り、窓の外に怪物は見えない。いない、というよりも、おそらく…………。微かな足音が耳を揺らした。まるで忍んでいるような、そんな意図が感じられる微かな足音だ。並みの人間なら至近距離でないと気が付かないほどの足使い。それは窓の向こう側、魔女やウイブが闇に潜んでいるかもしれない外から聞こえてくる。壁に沿っている足音は徐々にテトのいる窓へと近づき、そして――――。
「魔女は睡眠を必要としないのか?」
低く感情の薄い声が闇から耳に届けられた。テトは驚く様子もなく平坦に答える。
「さあな。ただ、私や籠を守護してきた魔女たちには必要なものだ」
足音は止んでいる。代わりに聞こえるのは闇に紛れる男の声だ。
「ふん、魔女はつまらんが、お前は格別だな」
「そりゃどうも。――――お前は寝ないのか、フォトクリス?森で見張りもしていただろうし、仮眠している暇もなかっただろう」
「考える脳も無いのかお前は――――月が昇り切ったらダルエニと交代だ」
「雲で見えないが」
「狭い籠で不自由なく暮らすお前にはない感覚ってもんがあるんだ」
「なるほど……」
もう話す気はないと男の声は止み、足音が遠ざかってゆく。
「フォトクリス」
足音が止んだ。
「おやすみ」
しばらくして、足音が再び闇に紛れていった。
それから、テトは屋内を見渡した。あれだけ静かな活気に溢れていた空間は今、明日の死闘に備え体力を万全にするために休息する戦士たちの穏やかな寝息がするだけだ。誰もが熟睡している、明日の恐怖もあるだろうに。それは疲れもあるが、何より万全を期すために体に染みついた一種の技だろうとテトは勝手に想像していた。
テトは視線を入り口の脇に移した。扉の隣で胡坐をかいてダルエニが眠っている。見た目も言葉遣いもテト自身に対しても棘の多い人間だが、その内側の形にはテトも気づいていた。その証拠に、彼の足を枕にエルが眠っていた。「危ないから離れろ」だとか、愉快な会話をしていた気がする。
それから、戦士一人一人の顔を心の中で名前を言いながら見ていった。ここにいる者たちは郷里の抱える数ある精鋭の中の一部だった。ヘリトラに憑きながらテトも彼らと戦場を共にしたことがある。テトは全員の顔と名前を憶えていた。家に帰れなかった者たちのことも。
最後に足元を見た。
(かわいそうに…………)
ノエルが苦悶の表情を浮かべている。同衾を謀ったロラの魔の手を寝ながら回避したものの、彼女の寝相には敵わなかったらしく、肩を両太ももでサンドウィッチにされ、尻肉によって顔の一部が潰されていた。
「う、うぅ!」
自由な方の手が悪しき太ももを押しのけ、ついにノエルは解放された。
(見かけによらず力はあるんだな…………見かけか……)
テトはロラのなんて変哲のない寝顔を見た。艶のある長い金髪と眉、切れ長の目と大きすぎない唇には大人の艶めかしさが感じられる。
(黙っていればなんとやらだ……ほんとに)
テトは目を細めた。
(一日に二度も郷里の人間から感謝されるとはな、それも、こいつの人柄の影響からか)
暗闇の中、赤く光る眼光が細くなった。
(なあロラ、普段のお前はとても純朴で見かけとは裏腹に子どものようだ。だから私もお前の考え得ることは想像に容易い。だが、時々、特に贖罪者に関して考えているであろうときのお前は、何を考えているのかさっぱりわからないんだ。お前は彼女たちを大切だと言うが、今日こうして友人となった戦士たちとこれから殺し合うのを理解しているか?目の前で友人や大切な者が死ぬ、それは、まるで心臓を八つ裂きにされるような思いなんだ。一生残る、決して衰えない痛みだ。お前はそうなったとき、そうなりそうになったとき、何を感じるんだ。……お前はどっちにつくんだ?…………私はまだ、お前のことがなんにもわかっていないみたいだ。お前を……信じていいのか……?)
聞いたことのある音が微かに聞こえた。見回りをしているフォトクリスの足音だ。いつの間にか彼が一周するまでこうしていたらしい。
(いけない、私の悪い癖だ。さすがに寝なければ)
窓枠から飛び降りたテトはロラの顔と胸の間で丸くなった。
(おやすみ、みんな。どうか、明日の夜も全員が夢を見られることを祈る)
ロラの寝息を髭に感じながら、半透明の猫は目を閉じた。
テトはゆっくりと目を開けた。真っ暗闇に変わりはないが、先ほどと違い何も見えない。体を起こそうとしたところで腰に鋭い痛みが走った。
「うっ……」
立ちあがろうと腰を上げた状態でしばし硬直する。
(ほぼ一日中椅子に座っていたせいでこ、腰が……尻も関節も痛い……)
まるで老婆のように腰を労りつつも少女テトは立ち上がった。
(うぅ……腰もそうだし、あいつに咥えられたのはあくまで霊猫なのに、なんで私自身の項までこう……ムズムズしなければならないんだ)
愚痴をぽろぽろと吐き出していると、ふらふらと宙を彷徨っていた手が暖炉の上に置かれたランタンに触れた。そこから下に伝い暖炉の枠に手を置く。二十年一人で使っている部屋だが、視界が利かない中で何の手掛かりもないのは怖いものだ。
(明日は太陽が顔を出す前からやれば多少は結界の見回りもできるだろう。それからベットに横になって、霊猫に移ろう。椅子でまたやれば……くそぅ、この腰痛は日課に響きそうだな)
なんとか寝床にたどり着いたテトは腰を下ろした。だぼだぼのシャツの裾も長い髪も尻に敷いてしまっているが、それよりも早く寝たい欲求が勝る。
(……?)
鼻から何か垂れた。体の内から何が競り上がる感覚をおぼえる。
「ゴホッゴホッ!」
喉にくる咳をした。
(…………)
口を押さえていた手に少量ながら粘性のある液体が付いていた。
(……背もたれ用の追加のクッション、柔らかな絨毯、薬、それと、いらないチリ布。明日の早朝用意しよう)
ベットに身体を投げ出して天井を見上げた。見るものもないが何も見たくないときに丁度いい。それでも思考がぐるぐると回り、それを無理やり払い除けるように目を瞑って体を横に向けた。髪がベタりと顔に張り付く。
(あ、水浴み……はもういいか。明日陽が昇る前に済ませよう)
血が付きっぱなしの手を天井に向け、それを拭く気力すらないのに頭はまだ体力を消費したがる。
(今日のように途中で気絶してしまわないようにしないと。だけど、今日以上に魔法を酷使することになるだろうから…………薬と気合いで頑張るしかないか……)
シーツ越しに大地に意識を持っていかれる。抗えない眠気が全身を支配してゆく。
(眠ったら……明日が来る……誰かが死ぬかもしれない明日が……嗚呼……怖い……な…………)
震えていた赤と青の瞳が瞼の裏に隠れ、ついに少女の意識は深く短い無の泉へと沈んでいった。