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第零話 記憶

 欠けた柱、崩れた壁面、浸食した苔、そして……骸。

 ワタシがここで目覚めて最初に見た光景だった。

 彫刻の施された白く古い壁に囲まれた、八角形の広い室内にある中央の祭壇のような台の上で、ワタシは目覚めた。

 仰向けになっていた重い体をゆっくりと持ち上げる。

(ここは……?)

 頭が痛い。全身が軋み、頭にもやがかかっているようであまり意識がはっきりしない。

 台座に座ったまま周囲を見渡した。ぼろぼろの建物は悲鳴を上げ、今にも崩れそうだ。天井には大きな穴が開き、太陽がこれでもかと日差しを屋内に差し込んでいる。その光線の先には、先ほどの骸。そして、それを貫く巨大な槍。まるで眠っていたワタシを狙うその死体を、天井から葬ったかのような、そんな妄想ができる。

 肉が腐り落ちて骨と鎧だけになったそれは、自身を貫く槍と鎧に支えられ、死してなおワタシの顔を覗き込むように立っていた。少し怖い。

 (うつつ)の頭でそれを見つめ返し、ワタシの内と外でゆっくりと時間が流れ、それが永遠のように流れる。

 その永遠を経て、ワタシは骸に別れを告げ立ち上がった。

 何も覚えていない。思考もまともに回らなくて、ただ目の前の骸が不気味で、怖くて、だからワタシは、とりあえずこのおんぼろな建物から出ることにした。

 つかまり立ちを覚えた赤子の足取りでぼろぼろの通路を進んでいるとき、つまずきかけて足元に視線を移した。

 ――骨だ。また、骨だ。

 ワタシの足が、名も知らぬ骨たちを、パキパキと音を立てながら踏みつぶしていた。後ろを振り返っても、先を見ても、ワタシの周りを骨や彼らの身に着けていた物らしき残骸たちが絨毯(じゅうたん)を作っていた。

 骨、鎧、剣や槍。壁や床、天井を錆色の飛沫模様が飾り付けている。既に自然へと還りかけていても、それらの異質さは吐き気を催すほど気味の悪いものだと本能的に感じた。

 静かに視線を足元に戻し、粉々になった誰かの一部を目と頭で理解する。欠けた頭蓋が無言で歴史を語り、ここでなにか”恐ろしい事”があったと身体が理解する。

 先ほどよりかは意識がはっきりしてきたからだろうか、死屍累々に囲まれていることにだんだんと恐怖感を煽られ始めたワタシは速足に、そしてついに走り始めた。

 よたよたと転びそうになりながら、なんとも不格好な動きで、歩くよりかはましな速度で、必死になって走った。建物内の惨事に目もくれず、無我夢中で駆け抜けたワタシは、やがて目もくらむまぶしい空間に飛び出た。

「っ――!!」

 外だ。生命の源、忌々しい太陽がワタシを祝福してくれた。

 そこは切り立った崖の頂上で、眼下に見える緑の世界は広く、鮮やかで、遠くに見える山脈や森は生き生きと見えた。

 容赦ない日光がワタシの体を大地ごと焼き、眼下の景色をうっとりと見ていたワタシはそれに身をまかせていた。だが、次第に陽に焼かれた皮膚が痛みを発し、上がっていた息がさらに上がり、その異常に気づいたころにはもう遅かった。蜃気楼(しんきろう)のように揺れる視界の中で大地が倒れ、危険を伝える体を他所(よそ)にワタシは意識を手放した――――。


 どれくらい眠っていたのだろう……(さいわ)い野生動物に襲われることはなかったみたいだが、陽は落ち辺りは真っ暗に染まっていた。

「イタっ」

 体を起こし、痛みの発生源を睨んだ。足の裏から出血していた。あれだけ荒れ果てたところを裸足で駆け抜けたのだ、何ら不思議ではない。視線を上に持っていくと、上等そうな真っ白い一張羅の隙間から日中の陽に焼かれた肌が見え、そちらは痛みこそないが、全体的に赤くなっていた。

 ふと涼しい夜風が髪を撫で、そこでワタシは目覚めたときよりも意識がはっきりしていることに気づいた。痛む足を労わりつつ、無駄に重い胸に手を当てて、ワタシは少しばかり巡り始めた思考に現状を問うた。

(ワタシは…………?ワタシは誰?名前は……思い出せない。この場所に見覚えも…………ないみたい。ああもう!頭が痛い!)

 意識と記憶に霧が覆いかぶさり、手が届きそうで届かない。思い出せるのは昼の建物の中の惨事だけだった。あのおぞましい数の亡骸と光景は、何があったか想像すらしたくない。

(さっきの場所は何だったの、どうしてあんなところに……)

 傷口を押さえる手が震えている。未知という巨大な恐怖がワタシを包み込んでいる。自分はなにかに巻き込まれている?でもその自分の事すら何も知らない。あの惨事は自分が関係してる?

 恐怖は頭から全身を覆い、地面に杭のように身体を縛り付け思考すらも制限し始める。夜風の寒ささえも感じさせないほどに。

(わからない……なにもかも…………)

 不意に遠くから獰猛な獣の遠吠えが響いた。一瞬身体を縮こませたワタシは決心するしかなかった。

 痛みをこらえて立ち上がる。踏みつけた草が血に濡れていた。

(とりあえず、人を探そう。ここにとどまるのはきっと危険だ)

 一歩一歩地面を踏みしめる度、足の裏や体の節々が痛む。

 ワタシの後ろに踏み倒された草花が血の化粧をつけ足跡を作るが、かまうことなく、闇夜に紛れていった。


「明かりだ…………!」

 崖沿いをしばらく歩いていたら崖下の先に小さな村を照らす明かりが見えた。幸運なことに崖ももうほとんど坂道と変わりなくなっていたこともあり、ワタシはひと思いに下ってそのまま簡素な街道に乗って村に入った。

 村を囲う柵の内側は道も家々も綺麗であったが、松明だけは酷く汚れていたのが目を引いた。まぁ、些細なことだ。ワタシは一番手前の家の戸を叩いた。

「ご、ごめんください」

 温かい室内に優しく迎え入れてくれる家主、そんな淡い期待を抱いていたが、どうやらその期待にこの家は応えてくれないようだった。それからいくつか家を回った。しかし、どれも無反応。そして、どの家にも腐った松明。

 おかしいと、そう思った矢先に足音が聞こえた。それは道の角の先から近づいてきて、そして目の前に現れた。お花畑な希望を抱いていたワタシを地獄に叩き落すには十二分のそれが。

 薄汚れた農家服を身に着けた人骨がこちらを見ていた。ワタシを認めた瞬間、腰にぶら下げていた錆びてこげ茶色になったベルを摘まんで鳴らした。コッコッコッコッ、と本来のとはかけ離れた音がして、しかしそれで不自然なほど静まり返っていた村の中が途端に騒がしくなった。

 どれだけ呼びかけても応えてくれなかった扉が次々と開いていき、中から骸骨の怪物たちが飛び出した。村の情景もベルを中心に一変し、廃屋と腐った空気に成り代わった。村が死んだ…………そう一瞬思ったがそうではない。もともと死んでいたんだ。それを唯一変わらない松明が証明していた。

 声にならない悲鳴を上げてワタシは尻もちをついた。怪物の空っぽの管腔内で知らない蟲が蠢いて不規則な音を鳴らし、無表情の頭蓋骨が嗤った。ありありとした既知の恐怖に全身を縛られて半ば放心していたワタシの肩に、怪物は持っていた松明を押し当ててきた。

「アア゛ア゛ァ゛っ!」

 耐えがたい激痛によってワタシはちゃんとした悲鳴を上げた。そして痛みのおかげで怖気づいていた腰も上がった。松明を払いのけて立ち上がり、壁に立て掛けてあった朽ちかけのスコップを振り回し、貧弱なこの腕がどれだけ無力かを思い知らされたあと、やっと多少の冷静さを取り戻して怪物の包囲の隙間を縫ってそこから抜け出した。

(い、いやだ…………!ここから逃げないと)

 怪物の魔の手に引きずり込まれないようにたたらを踏みながらも村の外を目指す。その合間に周りを見れば、ここがどれだけ来てはいけない場所だったかがよく分かった。崩れて原形を留めていない家屋に動物の腐乱死骸、比較的新しく見える動かない人骨とその足元に転がった長い剣。そのどれも、さっきまではなかったのに。さっきからずっとあった松明がワタシを嘲笑っていた。

(なんなの…………わけわからないし、肩も痛いし。とりあえず、どこか安全なところを探さないと)

 ワタシは愚かだった、まだ死地にいるというのに敵よりも逃げ道を探す方に意識を向けてしまった。

 骨組みだけになった家屋の隙間から怪物が飛び出してきて、ワタシの左腕をつかんだ。

「っ!?」

 両肩から布紐でぶら下がった褪せた赤色の服を身に着けた怪物は、ゆっくり、ゆっくりとワタシをつかんだ反対の腕、刃が欠けた包丁を握った腕を振り上げた。まるで、どこに刃を突き立てようかと吟味するかのように。

「やめてっっ!!はなしてっ!!」

 殴っても、蹴っても、ワタシの力ではどうしようもなかった。つかんだ骨ばった手が、ワタシの左腕に食い込み痣を作った。腕が頂上まで上がり切ったのだろう、ギシギシと音を立てていた肩関節が静かになった。そして――――。

 「やめて」と叫び終わる前にさらなる激痛がワタシの体を駆け巡った。胸めがけて振り下ろされた凶器は、咄嗟に突き出したワタシの右掌の中心を貫き、そこで止まった。

「あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ゛っ゛!!」

 即死は免れた。だがその分、地獄は続くのだ。体勢が崩れ、そのまま押し倒される。刃こぼれした(やいば)はワタシの肉を咬み、放そうとしない。包丁と腕から手を放した怪物はそのまま馬乗りに跨り、腐臭の染み付いた両腕をワタシの首へと当てた。

「あ゛っ゛ぐぅ゛っ゛っ゛ぅ」

 品のかけらもない音が喉から漏れる。間近に迫った二つの空洞がまたワタシを飲み込もうと見つめる。暗く、深い闇がすぐそばに現れ恐怖のどん底へと押し込んでいく。

 それでも体は生きるために、脳指令を返さずに左手で怪物の腕をつかんだ。だが、細すぎる前腕の二本の骨をワタシの手は一周し、最後の力を振り絞って入れた力は、中身のない骨を軋ませるだけに終わった。

 ワタシの心に、体に、顔に絶望が宿った。絶望は精神を一瞬で支配し、生きる気力を一滴たりとも残さず染める。徐々に体から力が抜けていき、この後の結末を受け入れる準備を始める。

 もう何もかもどうでもよくなる。自分は何なのか、ここはどこなのか、そもそもワタシはなんでこんなところに……。

 もう、体力はなかった――――。

 気力もなかった――――。

 情けなく涙を流した――――。

 でも――抵抗は無意味だった――――。

(……だ……れ…………?)

 ――――――――――――。

 ――――――――――――――――――――――。



 突然、目の前の死神が砕け散った。

 気道が確保され、腐った空気を肺全体に吸い込んだワタシはなんとか呼吸しようと必死になった。身体が再び生きようと都合よく全身の臓器に働きかける。

 そんなワタシの耳に何か人の声が聞こえた気がした。だがよく聞き取れない。

「――――!!」

「――れっ!!」

 必死に叫ぶ声は頭の中で反響し、方角がつかめない。まるで脳内に直接話しかけられているような、そんな魔法のような感覚に酔った。

「早く乗れっ!!」

 やっと言葉の意味を理解したのと同時にワタシは宙を舞う感覚を覚え、現実に引き戻された。一気に視点の高さが上がり、すぐに目にも止まらぬ速さで景色が流れていく。銀色の光沢を放つ大きな物が時々視界に映り、その度に砕けた怪物の破片がその場に散らばっていく。馬が興奮した(いなな)きを上げてそれらを容赦なく踏み潰し、更に速度を上げる。

 腐った白の死神達がみるみるうちに離れていき、彼らの住処を蛇のように抜けていく。死んだ村とその中で生き生きとそれらを照らす松明の明かりが遠ざかる。

 再び視点が大きく跳ね上がり、背後に村の外周を囲む柵が彼方に消えていく。

 朦朧(もうろう)とした意識の中で、ただただあの恐ろしい村が離れていくことに、ワタシは安堵した。


 馬の背に揺られて、雲一つが月を通り過ぎ、高い暗雲の切れ目から月明かりが覗いたころ、ワタシを乗せた馬は深い森の中を駆けていた。

「こんだけ潜れば大丈夫だろ」

 ワタシを胸に抱いたまま操馬する声の主はそう言った。

「あんた、大丈夫かい?」

「え?……あ……」

「落ち着いてからでいいよ。もう怖い奴らはいないから。ほら、あたしがバケモンに見えるかい?」

 林冠の裂け目から青白い月明かりが下りる。目線を下げたワタシの目に、肉付きのいい少し肌の焼けた少女の顔が映った。

 明るい琥珀色の瞳と夜色の短い髪、白い歯をにっ、と覗かせた表情はワタシの心を解くのに十分の効果があった。恋しかった血と肉の通った人間だ。

「あたしはヘリトラ、これからあんたを安全な場所まで連れてくから安心しな。手に刺さった痛そうなのとか怪我もろもろはかわいそうだけど着くまでそのままだね」

 頷くワタシを見て馬は加速する。再び辺りを闇が包み、しかし彼女の腰に付けたランタンが温かい光でワタシたちを包みこんだ。

(たすかった……?)

 全身から力が抜け、出会って間もない謎の少女に身体を預ける。

「その……ありが…とう……助けてくれて」

 やっとの思いで伝えた礼の言葉に、「あぁ」と、ひと返事を返すだけでヘリトラはそれ以上何も話さない。ただ、筋肉質な腕がワタシをやさしく包んでいた。

 月はまだ昇り続ける。夜は始まったばかりのようだ。


 途中で方向を大きく変えた馬は森を抜け、小規模な岩山のトンネルを潜り抜け、やがて岩山の中をきれいにくりぬいたかのような巨大な空間へとたどり着いた。その中央には青い宝石のように輝く大きな泉があり、天井部にぽっかり空いた穴から月の祝福を独り占めしている。

「テト様ー!」

 ヘリトラが声を張り上げると、泉の周囲の洞穴から数人の人影が姿を現した。

「ヘリトラ!おかえりなさいっ!」

 一人の女性が人影の群れから抜け駆け寄ってくる。

「ルト、ルトは無事なのね!」

 栗色の長髪を揺らし上気した表情は、ヘリトラが抱えているのが自分の望んでいたものでないことを確認すると驚きとともに失われた。

「ごめんクレア、ルトはまだ見つかってない。この人は廃村でボースに襲われてたんだ。かなり記憶が混乱しているようだし怪我が酷いんだ」

 一瞬呆然としていたクレアと呼ばれた女性は、ハッとした顔を浮かべる。

「は、廃村って。外?郷里の人?」

「わからない」

「わからないって……」

「クレア」

「あっ、ご、ごめんなさい私……そのままこっちに来て、すぐに手当てをするから」

 ヘリトラの冷静さと馬の背に跨った怪我人を見たことで平静になったらしく、クレアは申し訳なさそうな表情になり、しゅんと縮こまった。

 ヘリトラが馬から降りて手綱を引き、クレアのあとについていく。数人の男女の物珍しそうな視線を抜け、泉から少し離れた小さな洞穴の前に案内される。

「ほら、あたしにつかまりな」

 大きく両手を広げるヘリトラに再び抱かれて中へと運ばれる。背はワタシよりも頭一つ低いのに軽々と持ち上げるあたり、ゴツゴツとした腕の筋肉は見せかけではないことがよく分かった。これなら骨の怪物を容易く砕いたのも頷ける。馬の背よりも安定感があった。

 穴の入り口は木製の壁と扉が遮り、中は入り口に比べかなり広い空間となっていた。染み一つないベッドが二つ並び、壁面を四角くくり抜いた棚にはいくつかの書物や小瓶がきれいに整列している。

 清潔に保たれたこの部屋はおそらく医務室かそれに近い役割の部屋なのだろう。やわらかいベッドの端にゆっくりとワタシを下したヘリトラは「じゃあな」と肩越しに手を振りさっさと部屋をあとにしようとする。

「ちょ、ちょっとだめよ三日も外にいたんだから、せめて朝までは休んで。それにテト様の猫もまた連れていないじゃない」

「弟が心配だろ、大丈夫かなり場所は絞れたから。あたしに任せな、クレアはその娘を頼むよ」

 腕をつかみ止めるクレアをやさしく離し、ヘリトラのマントが扉の向こうに消える。美人顔が不安に歪み、物言いたげなクレアだったが一つ不満を吐くと表情を変え、きびきびと棚の小瓶や小箱、布切れをいくつか持ち寄り、ワタシの前に並べて手当ての準備を始めた。

「クレア、これを」

 先ほどの野次馬の一人、若い男が室内に入ってきた。片手で持ち手付きの深底の桶を持ち、その中にはすぐそこの泉のだろうか、透きとおった水が揺れている。入ってすぐ脇の水瓶に水を入れ、大丈夫?と心配そうにワタシに声をかけてくる。それに対しワタシは曖昧な返事を一つ返すことしかできない。心身ともに疲弊しているせいか、意識も気力も弱っていたからだ。

「ありがとう、でもすぐに始めないとだから」

 クレアにせかされ「ご、ごめん」と速足に青年は去っていった。

 彼女は一息ついてからワタシの傷を改めて確認してゆく。足の裏の切り傷、左肩の火傷、右掌の刺し傷、確認できる範囲の外傷に順に視線を移動させていく。

「火傷かしら?でもかなり軽度ね、だけど……手のほうは頑張ってもらうしかないわね……」

 曖昧な意識の中で、ブツブツと独り言を呟きながら手当てを進める栗色の髪をぼんやりと見ていた。肩に張り付く冷たい感触や薬のつんとした臭いが次第に遠くなり、泥濘(でいねい)の中で双眼に映る景色を眺めていた。

 不意にクレアが丸めて厚みを持たせた布をワタシの口元に突き出した。

「ごめんなさい、これしかないの。ある程度短くはしたけど、これ以上変に折ったりしたら破片を残すかもしれないし……痛み止めも切らしているの」

 その視線は右掌に刺さりっぱなしの刃物に向けられている。それが意味していることは曖昧な意識でも残念ながら理解してしまう。ワタシは何度か躊躇うように口を動かし、ついにお守り代わりの布を噛んだ。クレアが片手で包丁の柄を、もう片方の手でワタシの右腕を固定する。その細腕が全力を出そうと準備をしているのが彼女の表情から見て取れる。

 ワタシたちの息が荒くなり、波のように合わさって融合する。無意識に強張ってしまいそうになる腕を落ち着かせ、代わりに左手で力いっぱいシーツをつかんだ。

「いくわよ、3――2――1――!」

 細心の注意を払いつつ垂直に一思いにクレアは包丁を引き抜いた。

「ーーーーーーーーーゥ゛ウ゛ウ゛!!」

 肉を噛みちぎろうとしていたそれが無理やりはがされる。すでに嚙み千切られた箇所から血しぶきが噴き出し、死んだ細胞たちの悲鳴が体中を駆け巡る。脳は過剰な痛みだと危険信号を挙げ、それを伝えるために勝手に涙を流させる。

「うぅ……いたぃ……」

 またしてもワタシは痛みによって意識をはっきりと蘇らせた。次々と脳内に状況整理の伝令が響き渡る。血が涙のように滴っているのがよく分かった。

「破片は中に残ってなさそうね……よかった」

 引き抜いた包丁と傷を何往復か見比べたクレアは安心したようにつぶやいた。包丁からは血なのか刃物自体からなのか錆の臭いがべったりと塗られている。

 彼女の様子を見るに最大の山場は超えたらしい、無理やりではあるが意識の戻ったワタシは自身の体に施された手当ての具合を確認した。両足は(くるぶし)まで包帯で覆われ、肩にも同じものが巻かれている。ひんやりとした感覚から、その下に薬か何かが塗られているのが分かった。

「ふぅーー……一応ひと段落ついたわね。あなたもお疲れさま」

 一通り処置を終え赤く汚れた布を小箱に詰めながらクレアは笑みを向けてくる。優しさに満ちたその笑顔にワタシは初めてクレアの顔をちゃんと見たことに気づいた。髪と同じ色の瞳と涙袋、女性らしい体つきと人を惹きつける多様な表情、綺麗な人だ。

「い、いや、ワタシは全然……。クレアさん?もおつかれさま、助けてくれてありがとう」

 少し驚いた表情をしたあと、クレアはさらに笑顔を咲かせる。

「よかった、話せる分には体力はありそうね。……ねぇ、あなたの名前は?まだ聞いていなかったわよね。それに外から人が来るなんて、やっぱり郷里の人?」

 クレアの興味がワタシの傷からワタシ自身へと移った。栗色の瞳に捕らえられ逃げることができず、逃げる必要がないことに気づく。少しでも自分の置かれている状況を知らなければならない。

 それが……、とワタシはこれまでの経緯の覚えている範囲を簡単に説明する。クレアはその間、興味深そうに話を聞き、同情したように相槌をうっていた。

「そっか……大変だったわね、それに記憶もないだなんて……」

 少し何か考えるように目線を泳がせた後、栗色の瞳がいい案を思いついたらしくきらりと光沢した。

「もし、もしよければ記憶が戻るまでの間、記憶が戻ってからもここで暮らさない?ここは絶対安全よ」

 どう?とあざとく首を傾げるクレアが続ける。

「ここら辺一帯はね、テト様っていう魔女様が守ってくれてるの」

「魔女?」

「えぇ、あなたは記憶がないから分からないかもしれないけれど、魔女はとても恐ろしい存在よ。あなたを襲ったウイブという化け物、あれも元は人間だったのだけど、外の狂気に満ちた魔女によってああなってしまったの。あなたが外で魔女に出くわさなくて良かったわ、会っていたら私たちは出会えなかったはずよ。それだけ恐ろしいの。それに対してテト様は、まだ幼くて口が少し悪いけど、人想いでいい魔女様よ」

 どこか懐かしさ……というか親近感の湧く単語に意味も分からずワタシは引っかかる。

「代々魔女様が『結界』って呼ばれてる種類の魔法を張ってくれていて、あなたが襲われたウイブ、ヘリトラの話では骸人形(ボース)って言われている種類ね。そういった怪物が入ってこないようにしてくれているの。テト様は先代の魔女様が亡くなってからずっと、二十年間今も守ってくれているわ」

(ういぶ?ぼーす?けっかい……?)

 そんな疑問が浮かび、また、それとは別の疑問がふと蘇ったワタシはクレアに聞いてしまった。

「ここは安全、と言っていたけど、その……ルト?ていう人は……?」

 それはこの洞窟に入った直後にヘリトラとクレアが出していた、おそらく人名だ。ここは安全と言っていたのにその人物はどこかに消えてしまったというのを朧気ながらもワタシの耳は拾っていた。

 しかし、その名前を聞いた瞬間クレアの顔がみるみる泣きそうな表情に変わった。聞いたあとで今は要らぬ質問だったと悟るが遅かった。

「ルト……は私の弟ね、歳が離れててまだまだ子どもでね、やんちゃなことばっかりするの。でも、いざってときは優しく支えてくれて、とてもいい子よ……」

 下を向いた彼女の瞳は地面ではなく、どこか違う場所を見ているように思える。そして、溜め込んだ不安を吐き出すように初対面であるはずのワタシに言葉をもらした。突然感情的になったクレアにワタシは戸惑いながら聞くことしかできない。

「三日前の朝早く家畜のヤギが逃げちゃってね、ほんの一瞬、ほんの一瞬よ、ルトが杭の外、結界の外に出てしまったの。結界のすぐそこに逃げたヤギがいたから。でも、結界から数歩出た瞬間ウイブに……」

 結界、杭、少し聞いただけでも記憶にない言葉が溢れ出る。一つ一つ教えてもらいたいところだが、感情の溢れる今の彼女にはどうも聞けそうにない。

「私の注意不足だとは分かっているけど…………あっ、ごめんなさいっ、初対面でいきなりこんな話。だめね私ったら……」

「い、いやワタシが嫌なことを思い出させるようなことを聞いてしまったから……ごめんなさい」

 そこで会話が途切れ沈黙が間を埋める。包帯の巻かれた右手が痛み軟膏の臭いが鼻を刺す。詰まる空気に何か言わなければと慰める言葉を探すが、出会ったばかりのワタシの言葉に意味があるのかと意味のない問答を脳内で繰り返す。結果的にクレアが先に口火を切った。

「そう、それであなたを助けた人、ヘリトラが三日間も外を捜索してたの。あの子はルト以上にハチャメチャな子でね……」

 無理に明るく喋るクレアに胸が痛む。会ってほんの少しの時間だが、優しくしてくれる彼女が傷ついているのはあまり見たくない。なんとか力になりたいと思うが、ワタシには彼女の弟を探しに行く勇気も捜索するヘリトラを手助けする力もないことに気づき、先ほど彼女の期待を無駄に煽ったことにただただ行き場のない申し訳なさが積もった。

 そんなワタシに気づかぬ様子で徐々に落ち着きを取り戻したクレアが視線をワタシまで上げ突然、しまった、と表情で喋る。

「ごめんなさい私ったら、もう、ほんと今日は変ね。待ってて、すぐ着替えを用意するから」

 ぱたぱたと部屋を動き回る彼女の背を目で追いながら、ワタシは気持ちを一度切り替え、今までのことを振り返る。

 古く遺跡と化した意味ありげな建物、そこに寝かされていたワタシ。あそこは何だったのだろうか。数えきれない骸の山、こちらを見つめる屍。やけに頭に引っかかった言葉…………依然、記憶は戻らない。そもそも戻る記憶がワタシにあるの……?

(ワタシは……なんなの……)

「お待たせ、見た感じ私と体格そこまで変わらなさそうだからお古だけど、どうぞ」

 頭を抱えそうになるワタシに気づく様子もないクレアがきれいに折りたたまれた服を開いて見せる。淡い黄色の服と長丈のスカート、少し色が薄れた痕跡があるが丁寧に扱っているたのがよくわかる。そして、ベッドの下には猫の刺繍が施されたスリッパも用意されていた。青白い奇妙な猫だ。

「隣の部屋で体を拭いて着替えましょ、手伝った方がいい?」

「い、いや大丈夫」

 服を受け取ってからふと、こうして当たり前に与えられている親切に気づいた。危険を冒し、急ぎの用があるにも関わらずここまで運んでくれたヘリトラに、情緒が不安定になりながらもそれを抑えて的確に手当てをしてくれたクレア。お人好しというか、とても良い人たちに助けられたんだという実感が今になってじんわりと体の芯から感じた。

「ね、ねえ……」

 声をかけたワタシをクレアの目が不思議そうに見る。

「そ、その…………ありがとう」

「ええ」

 安堵して自然に頬の緊張が解けたワタシにクレアは新たな話題を振ってきた。

「ねぇ、ずっと()()()、だとなんだか不便だし、記憶が戻るまででも新しい名前を付けない?」

「名前?」

「そう、名前がないなんてなんだか寂しいじゃない」

 向かいのベッドに腰を下ろし、ワタシの顔を覗き込むクレアは楽しそうに目を細めている。ころころと表情を変えるその瞳と視線がぶつかり、なぜだかワタシもそれにつられて頬を緩めた。

「それじゃあ、お願いしても……?」

 クレアは一度威勢よく頷き「まかせて」と、豊かな胸を張ってみせた。

「よし、それじゃあ歩けるかしら?体をきれいにして着替えましょ、すぐそこだけど案内するわ」

 よっこいしょ、と立ち上がりクレアが手を差し出す。それをワタシは柔く断り両足を柔らかいスリッパに乗せた。刺すような痛みに一瞬筋肉が強張るが、今までの痛みとは比べるまでもない。しっかりと己の体を支えたワタシはクレアに続き部屋の外の青白い空間へと向かった。

 再び見える洞窟内は壁に等間隔にランタンが吊られ、空間の中心で泉が月の光を乱反射し天然の光源となっていた。その青白い巨大ランタンの源は水底から湧き出しているようで、(ふち)の岩床の隙間から流れ出て、小さな川となり岩壁の中へと脈を作っていた。また、こんなに多くの水があるにもかかわらず、じめじめとした空気を感じることはない。不思議な空間だった。

 洞窟内を見回しながらそんなことに頭を回していたワタシは、あやうく立ち止まったクレアにぶつかりそうになり痛む足を踏んばった。

「ここよ、桶や拭くものは中のかごに入ってると思うから好きに使ってね。――――大丈夫?」

 頬を強張らせながら我慢するワタシが案内されたのは小川のすぐ隣、人一人分の入り口を厚めの布で遮った場所だった。

「終わったらさっきの部屋に戻ってきてね」

 服を渡され、クレアが入り口の垂れ布を横から持ち上げ中へと通される。一人でできそう?と、最後に聞いてきたがそこはさすがに断り、ワタシを残して入り口を元に戻した。駄目押しに「終わったら部屋に来てね、わからなかったら呼んでいいからね」と、過保護さに気圧されるがなんとか追い返し、それ以降はその場を去ったのか、声は聞こえなくなった。

 部屋の入り口でポツンとワタシは立っている。久々の一人の静寂、いや、実際の時間は数時間しか経っていない。だが、久々に感じられるほど(せわ)しなかった。

 どっと疲れが押し寄せ壁際に鎮座した椅子に腰かけた。(くう)を見上げ脱力し足を伸ばして背中を壁に預ける。開いた口から息が漏れ、そこから魂も抜けていっているような錯覚が脳を支配する。実際、色々と酷い目に合ってショックを受けたせいか自分の体が自分の物でないような不思議な違和感が身体を包んでいた。この感覚は夢心地のようで、でもどちらかというと冷酷な現実を見せてきているような、つまりは寝起きのような感覚が近いのかもしれない。とにかく、疲れたんだ。

 今日、この数時間であまりに多くの物事がこの身に降りそそいだ。情報過多、心身の疲労、記憶の大幅な欠落。今生きていることが奇跡としか言いようのない出来事。

 夢と願いたい恐怖の記憶が蘇り、今更手足が震えはじめる。血の滲んだ包帯の内側で今も縫われた傷が疼き、これは夢でも幻でもないと主張する。両足を抱えて膝の間に顔を埋め縮こまる。額に当たる膝が冷たい。自分が何者か知りたい、でも今は何も考えたくない。

(……………………ワタシは一体…………)

 隣に置いた服が視界に入る。他でもない自分に用意された清潔な服。

(……着替えよう)

 現実逃避は何も解決することはできない。服を持って部屋の中央を入り口側と奥側に分断する(とばり)をかき分けて奥へと入った。

 右側にはクレアの言っていたらしい(かご)があった。中には小さな桶と数枚のタオル、左側は数段の段差を下った先を水路が横切っていた。泉の方向から流れる水は壁から壁へと消えていく。澄み切った水面に指先を滑らせた、指の隙間を抜ける冷水はワタシの心中とは正反対に滑らかだ。

 ふと顔を上げると正面の壁にちょうどワタシの背丈ほどの姿見(すがたみ)が立てかけてあった。

(あ……)

 鏡には上物そうだがボロボロになり土と体液で汚れた薄生地の白服を着た成人の女が立っていた。もちろんそれはワタシだ。そう、ワタシだ。初めて自分の姿を見た。

 金色の腰まで伸びた長髪と同じ光を宿した瞳、長いまつ毛は中身に反して意思が強そうだ。細い指を頬に当てると冷たい指の感触が伝わる。少し力を込めて押すと白い肌がへこみ赤みがつく。

 しばらく自分の顔を(もてあそ)んだあと、ワタシは鏡に近づきまじまじと自分の顔を覗き込んだ。鏡面に映る金色の瞳と視線が交差する。どこか力をなくしたような両のそれは、鏡の向こうから何かを訴えかけるように奥に宿した光を強くし、そして――――。


 そこは広々とした広間だった。

 左右の巨大なステンドグラスの片側から陽の光が差し込み、白い壁と白い柱が明るい屋内を無色に照らしている。

 靴の下にはなんだかわからないが綺麗な刺繍が施された赤い絨毯(じゅうたん)が奥へと伸びており、その先には女性の石像が左右の豪奢(ごうしゃ)な椅子を従え佇んでいた。その光景に見覚えはない。だがワタシはそれを知っている。

(ここは……?さっきまで鏡の前にいたはずなのに。……?足が……違う、体が動かない!)

 体の制御を効かそうとするがうまくいかない、視線の移動すらもこの体はワタシの意思に従う気配がなかった。焦る気持ちにさらに拍車をかけるように背後から足音が耳に届く。それも一人二人ではない、十人以上の足音だ。バラバラのリズムの異なる靴音が背中に迫りそして、止まった。

 突然石像のように固まっていた体がくるりと半回転し、ワタシの見る景色もまた半回転してピタリと止まる。

 次に起こる悲劇が恐ろしく、そこにあるはずもない体をこわばらせ、閉じるはずのない(まぶた)を必死に閉じようとした。それでも映像は流れ続ける。

 ワタシと()()を遮っていた日差しが途切れ、目の前に姿をあらわした。

 風貌豊かな男女計十九人、若者が多いが壮年の者や甲冑(かっちゅう)で顔まで隠した者もいる。腰をほぼ直角に曲げているにもかかわらず誰よりも背の高い老女にギザギザの歯を出してニタニタと笑う女、目を伏せがちにしてチラチラとこちらの顔を窺う青年とそれを横目で睨む高慢そうな女。爽やかで強かな笑みを携えた男。

 風変りな彼らの姿を見てワタシは――、なぜだか心の荒波が穏やかに変化していた。その理由はすぐに分かった。

(ワタシ、この人たちを知ってる……?これは何?)

「ーー様、こ、今後のご方針は?や、やっと我々部隊がそろったんです、ほ、ほらこうやっていつでも出撃できるようにみんな連れてきました!今すぐにでも」

「まあ待て、モリー。何度も言うが魔王を殺るには征戦魔女隊(せいせんまじょたい)以外にもまだまだ準備が必要なんだ。そうでしょう、ーー様」

 正面で食い気味にこちらに訴えかける黒髪の少女と、隣でそれを説得する長身の騎士。彼らのこちらへ向ける眼差しには、絶対的な信頼と尊敬の念が感じられた。それはこの二人だけではない。周りで見守る十七対の色鮮やかな光からも同じものが伝わってくる。

 彼らは皆強者だ、それを感じさせるオーラを各々持っている。そしてこの視点の主はその輪の中心にいた、強い信頼を一身に浴びて。

(この人たち、すごい期待している?違う、もっと親密な……なんでだろう、この感じがすごく懐かしく感じる……ただ)

 温かさを懐かしみ飢えていた、すっぽりと空いていた心の隙間にじんわりとぬくもりが戻ってくるような気がした。胸に抱きしめて放したくないような、手放したら自分もともに消えてしまいそうな愛おしさ。

(嗚呼、なんだろうこの抱きしめたくなるような気持ち……)

 突然場面が変わる。

 華やかな宴会のようで彼らは思い思いに歌い、踊り、談笑し、食べ、笑っていた。騒がしい会場内でワタシは一人の涼しい顔をした男と話していた。彼も輪の中にいた一人だ。

 視点の主と彼は親しげに言葉を交わしているようで、笑顔、困り顔、苦笑い、涼しい顔とは裏腹に様々な表情を見せる。そして彼は言った。

「君は僕たちを連れてここまできた、多くの試練を乗り越えてね。ここにくるまで何年もの時間をかけた、君にとってはそこまで長くは感じなかったかもしれない。でも、僕は君が僕たちに多くのことを隠していることも、抱えていることを全て投げ捨てたいと思っていたときがあったのも知ってるんだ。僕にとっては君の内面を知ることができるほどの期間だった」

 彼はまっすぐ目を見て言う。まるで自分に言われているようだ。

「君は僕たちのことを、僕たちが感じているほど大切には思っていないのかもしれない。それでも、僕は、僕たちは地獄の底まで君についていくつもりだ」

 彼は真剣な眼差しでそんなことを言ってのけた。

 ワタシはそんな彼になぜかやるせなさに近い感情を感じていた。なぜそんな感情が湧くのか疑問に思ったとき、再び場面が変わった。

「あなた様はわたしとジュダの村を救ってくださった、わたしの潜在的な力を見抜いて戦い方を教えてくださった。そのことには本当に感謝しかなくて……ですが……」

 広大な中庭。木々や草花、騎士同士の模擬戦、見慣れた景色と座り慣れたシート、聞き慣れた少女の声。

 黒髪の少女モリーが隣に座り、上目遣いでこちらを見ている。黒と灰色の縁取りをとった瞳がワタシを見上げていた。信仰にも近しい盲目的な眼差しだ。

「わたしはあなた様にご恩を返せる自信がありません。わたしのような田舎者の魔女が、周りの崇高な魔女や直向きに励む人間にさえ敵うという想像ができないのです。皆に負けぬよう努力はしているつもりです、ですが……」

 少女の頭を艶やかな手が、澄んだ声が慰める。ワタシと瓜二つの声と手が。

「え、わたしが一番ですか?い、いえそんなことは……そんなお褒めいただけることは……」

 少女はこの声に容易く心を奪われて頬を染める。声の主を信頼し、慕っているのは明らかで、ワタシはこの少女を抱きしめたい衝動に駆られた。

(ワタシ……この子を抱きしめたことがある…………?これは、この見ている景色は…………)

 ワタシは露台(バルコニー)のような場所で演説をしている。下の広場には大勢の兵士やローブと三角帽子を目深にかぶった人々がこちらを見上げていて、ワタシは必死に両手を使って何かを訴えかけ、彼らを鼓舞しているようだった。ワタシが声を張り上げる度に彼らも叫び応えた。燃え滾る感情を音の波に変えて人々は叫び、ワタシはそれをさらに煽る。(いくさ)にでも出るのだろうか。だがこちらを見上げる数千数万の瞳には、怒りや憎しみのほかに、近い未来に希望を見る光が宿っていた。ワタシは彼らに罪悪感のような感情を抱いた。――――なぜ?

 場面がまた変わる。

 灰色の空が全面に現れ、しばらくして自分が仰向けに倒れているのだと気づいた。その途端強烈な血の臭いと轟音が脳に響く。視界が起き上がり戦いの様を見せてくれた。巨大な鳥頭の魔物と山のように積み重なった屍の山、山も魔物も一つではない。そう、あれは魔物と呼ばれていた存在だ。ワタシはあれを知っている。

 魔物は背中から生えた細長い関節の多すぎる7本の手で名のない形を作った。禍々しい光が手の前で集い始め、徐々にその輝きを増していく。あれは魔法だと直感的に分かった。魔法が放たれた瞬間、一人のローブ姿の少女が突然現れ、迫る人外の技を透明な泡のようなもので防いだ。深くかぶった帽子の隙間から見えた横顔は初めに見た十九人の内の一人だった。彼女はこちら……いや、さらに後ろに向かって必死に何かを叫び、直後ワタシは後ろから何者かに抱えられ、瞬く間に彼女の背中を残して遠ざかっていく。愛おしい人にもう会えないかもしれないという恐怖が心の器に刻まれた。

 彼女は魔の光に飲み込まれる直前、こちらの目を見て優しく微笑んでいた。

 それからも、何度も何度も移り変わる景色を見た。長くも短い時を過ごしたようにも思える。どれも知らないが、懐かしい。そしてどの場面でも()()が傍にいた。彼らの声が、感触が、体温が、匂いが心を包み自分の一部になっていく、一部だったと感じた。

 それを観る度感じる度、ワタシの中を出どころのわからない燃えるような感情が入っては通り抜け入っては通り抜けを繰り返した。やがてその感情は形を成し、彼らへの強い絆や愛のようなものがワタシの中に芽生えていくのを自覚し、同時にワタシの中に推測が、仮説が生まれ、そして確信に近いものへと成長していった。

(ワタシは、この人たちを知ってる。きっとワタシと何か強いつながりがある人たち。それも、とても大事な、家族のような人たち。そして、たぶんこれはワタシの記憶で、でも……ワタシはこの記憶を知らない。…………知りたい、知らなくちゃ……自分のこと……あの人たちのこと……)

 モリーが目の前で泣き叫んでいる。彼女は胸に開いた穴から命を流し続ける鎧を抱きしめていた。駆け寄って二人を抱きしめたかった。でもこの体は動かない。耳を塞ぎたくなる悲痛な声と今にも消えそうな命、なんでもいいから手を差し伸べたいのに何もできないもどかしさから気が振れそうになる。それどころか記憶の主、ワタシは剣を拾い上げそして、少女に向けた。

 良く磨かれた豪奢な装飾を誇らしげに語ってくれていた彼の剣は今、月明かりをありのまま明媚(めいび)に映しながら、切ってきた魔物どもの血を切っ先に滴らせている。守るために振るっていた剣が今は、彼が一番守りたかったものに向けられた。

 ワタシは叫んだが叫ぶことはできなかった。苦楽を共にした仲間であり、親友であり、彼女たちを兄妹のようにワタシは思っていたのに、じわりじわりと蘇るこのときに感じていた感情は、無に近かった。

 切っ先が弘を描き、少女に振り下ろされる直前、景色と音が遠のき、聞こえたはずの音はワタシには届かなかった。

 鏡の中の自分がなにかを訴えていたことを思い出す。

(ワタシはなにか大事なことを忘れている?自分の名前?家族?いや、もっと大事な………………使命)

 視界が徐々に闇にのまれ、黒く塗られた世界にワタシだけが残る。

 目の前にもう一人のわたしが現れた。黒く塗りつぶされ輪郭すら曖昧だが、それは自分だと直感的に理解する。

 黄金の瞳がワタシを睨み、背中の醜く巨大な翼を広げる。暗黒の中で、自分の形すら忘れそうになる闇の中で、その強い黄金の輝きがワタシを導く。

 わたしはワタシに触れ、ワタシが胸の内に大事に抱えていたモノをわたしが引き抜いた。酷く不格好で、付け焼刃で創ったかのような、しかし今のワタシには強すぎるその輝きを、わたしが引き継いだようだった。ワタシが消える。ワタシはわたしに託した。

 ワタシはわたしになった。一人の世界で一つの決意をつけ、一つの事実を思い出した。

 ――――自然と閉じていた瞼を開ける。

 目の前には鏡に映る自分、その瞳には今までにない強い光が宿っている。

 そこにはもう理不尽に泣く哀れな女はいなかった。

 ワタシは自分のことも、危険なこの世界のこともまだ知らないが決心したのだ。

「見つける……ワタシのこと、記憶のこと、彼らのこと、……忘れてしまった使命のこと」

 ワタシは思い出したのだ。一つだけ、自分のことを。

 そう、ワタシは……。

「ワタシは……わたしは……、そうだ、そう……」

 黄金の瞳がほのかに赤く光る。

「わたしは……魔女だ……」

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