第八話 テトの平和な一日 (三)
「――――」
「――――」
誰かが起きるよう催促している声が聞こえる。うるさい、私は疲れているんだと抗議の意を込めて寝返りをうち、はたと気づく。柔らかなベッドの上にいたはずなのに、体の下の感触は岩のように硬く冷たかった。
「起きるんだ」
「!?」
「ようやく起きてくれたね、テト」
テトは飛び起きた。狭い無機質な洞窟の中だった。明かり一つないのにはっきりと灰色の岩壁と、奥で声をかけ続けていた者の姿が見える。出口も入口すらないこの空間で、テトは息を呑んだ。
「怖がることはない、おいで」
低い女の声が逃げ場のない小さな空間を幾度も反響する。迷った末、その声のもとまで近づいた。
長い真っ黒な槍が胸の中心を貫いている。四肢の先と頭の上半分が壁に埋まり身動き一つ取れない状態で、口だけが流暢に囁きかけている。
「…………」
視線を逸らさずに腰の杖を探った。しかし、シャツの滑らかな感触しかない。当たり前だ、今は寝間着姿なのだから。滑稽とでも思ったのか、壁と同化した女の口元が微笑んだ。
「ワラワは君のことをなんでも知っているよ、愛しい我が子テト」
「っ!?私を産んだ魔女の顔はまだ覚えている、お前ではない。愛しいと言われるいわれもない。…………それに、私はお前のことなんて知らな――…………」
テトは口を噤んだ。それを見た女はまた口を愉快に歪ませた。
「今、『お前のことなんて知らない』と言おうとして、最近現れたお友達のことを思い出し躊躇っただろう」
「なっ!!??」
テトの頬が紅く染まる。図星だった。
「言っただろう、ワラワは君のことを何でも知っていると。――――それと、安心したまえ、ワラワと君は初対面だ」
そう言って女は微笑んだ。そこには始めから嘲笑は含まれていなかった。
「愛しい君の疑問に答えてあげよう。まずは自己紹介だ。ワラワにはいくつか名前があるのだが、そうだね……アメジニスト・ノア・エバラン、ノアと呼ばれるのがワラワは好きだったね」
「…………」
テトはノアと名乗る人物を見上げる。ロラと初めて逢った時のように注意深く、警戒を怠らない。
「うんうん、ワラワの名前を覚えようとしてくれてありがとう。やはり君は可愛いね」
頬がまた紅くなった。なぜか考えていることが筒抜けになっているようだ。
「他にも君の疑問に答えよう。ここはそうだねぇ…………夢の中だとでも思ってもらって構わないよ。なにせ君は布団の中で丸くなっていたらここに来たのだからね。それとワラワが何者であるかについては、まだ君は知らない方がいい。ただでさえ君は今いっぱいいっぱいだからね、もう少し成長して、余裕ができたら話してあげよう」
どれもテトが初めに疑問として思い浮かべたものが答えられていく。なんとも不愉快な心持になる。
「そう不機嫌にならないでおくれ、愛しい子よ」
ノアはまた微笑んだ。鼻より上が見えないせいで正確な表情が分からず、何を考えているか推し量れない。なのに向こうはこちらが何を考えているか手に取るように分かるという。手は埋まっているくせに。
「はぁ……」
「そのため息は諦めだね」
「いちいちうるさい。私の考えが分かるならいい加減答えろ。なぜ私はお前、ノアと名乗る魔女の前に呼ばれたんだ」
「暇だったと言ったら?」
「…………」
「ははは、君は怒っても可愛いね。――――まぁ、これは理由の半分程度さ。久しぶりに目を覚ましたらかなり面白いことになっていたからね、しかも終幕が近いときたら、主演の演者の顔を拝むしかないだろう?…………おっとごめんよ、舞台というものを君は知らなかったね。いやぁ~すまない、久しぶりの話し相手にワラワも浮足立っているようだ」
おしゃべりなノアという魔女はテトの反応など気にもせずに上機嫌に口を躍らせ続ける。
「…………話が逸れてしまったね、どこまで話したか…………そうそう、面白い事態になっていて、その奔流の中心に君が居たんだ。もみもまれ、か弱い君は溺れていく。だが、この最初の波を起こした身としては、やはり当初の計画通りの終着点にたどり着いてほしくてね、だからほんの少しだけだが、残された自分の力を全て君に捧げようと思ったんだ」
「何を言っているかさっぱりだ、議題を共有してもらわなければ論拠をいくら並べられても結論を出せない」
「そういった言葉遣いは自分を大きく見せるためだね」
「話を逸らすな。力だの流れだの、お前は私の知り得ないあらゆることを知っているのだろうが、だからとして全能ではない。私を利用しようとしているのは、お前自身胸を貫く槍によって何もできないからだろう。だから私に頼るしかない」
「…………」
初めてノアが黙った。ずっと緩く上を向いていた口角が下がり、しかしすぐに戻った。
「訂正しよう、どうやらワラワは君の全てを知り得てはいなかったようだ。嗚呼、嬉しいよ、君の奥底にあるものはとても強いね」
「お前の賞賛は必要でない。必要なのは説明だ」
「そうだね…………よし、それじゃあ今回の話はここで一旦切り上げよう」
「…………は?」
「半分はただ君と話したかっただけだからね、難しい話はもう少し後で、君に必要だと思ったら話してあげよう」
「なん…………」
手綱を握り返そうとしたら突然ハサミでちょん切られたような、そんな唐突な、文字通りの切り上げだった。結果的に、話の主導権は終始ノアが握ることとなった。
「愛しいテト、君が会いたいと願えば瞬き一つでここに招待しよう。ただ、ワラワの存在は誰にも言ってはいけないよ。特に君のお友達には。あの者は…………たくさん君を困らせ、前へと進ませるだろうね。だが、危うく不安定だ。無駄だとは思うが、ほどほどに、ね」
「話が一方的過ぎる!お前の言っていることを私は何も理解できていないぞ!このまま無意味なものとして終わらせる気か!」
「無意味じゃないさ、ワラワは有意義だったよ。それに君は目覚めてからこの邂逅を理解するために頭を働かせるだろう?」
本当に、全てではないにせよ、今まで出会った誰よりもノアという謎の魔女はテトのことをよく理解しているようだった。何も言い返せないテトは口ごもり、視線を逸らした。
「お前は…………何か……籠や私、ロラや、他の人間たちに危害を加える気はないんだよな。良からぬ何かを」
「もちろんさ、君の大切なものを傷つける気なんてさらさらない。君自身を傷つけるなんてこともね。言っただろう、ワラワはただ、流れ着く先を思い描いたとおりにしたいだけなんだ。その終着点は、きっと君にとってもいいところだろう。――――さて、ひとまず今回の記念すべき『ご挨拶会』はここまでにしようか」
ノアがまたテトに向かって微笑む。彼女には懐疑的で不信感しか感じていないのに、その笑顔には悪意が含まれていないことを感じてしまう。
「結局、お前はいったい…………なに……が……………………」
急激に眠気が体の奥底から這い上がってきて瞼にのしかかる。膝を突き抗おうとしても、もう意味をなさない。体は言うことを利かず、冷たい床に体を横たえた。
「おやすみ、愛しい子、最後の魔女。君の活躍も、想いも、葛藤も、苦難も、全部観ているよ」
意識が泥濘に沈んでいくなかで、謎深き魔女の不気味な笑い声がいつまでも耳にまとわりついていた。




