プロローグ
「寝たい」「あの人と恋仲になりたい」「大金持ちになりたい」「世界が平和になってほしい」そんな欲や願いなんて、種族問わず誰でも思うことだ。しかし、そういったものを勝ち取り、叶えるには相応の努力や犠牲も必要になる、そうだろう?「寝たい」のなら安心して眠れる場所や時間を用意しなければならず、その分仕事や趣味の時間を犠牲にし、「恋仲になりたい」のなら相手の趣味嗜好に自分をすり寄せ、かつ恋敵を蹴落とし、「大金持ちになりたい」のなら勤勉さやチャンスをものにする大胆さと、自分の時間を犠牲にする覚悟が必要だ。――――なら、「世界が平和になってほしい」だなんて御大層な願いを叶えるには、いったいどれだけの努力と、どれだけの犠牲がつくのだろう。その程度は今になっても分からないままだ。ただ、人間であっても、欲や願いを力と成す魔女であっても、きっとそれは大差ないんだろうと、こうなってしまった今も、そう思う。
(今日は雲一つないおかげで月明かりが眩しいほどだな)
季節外れに涼しい風を受けながら私は森を歩いていた。お忍びとでも言おうか、誰にも見つかってはいけないのだが、もう二十年近く踏みつけているこの道は見事に雑草が剥げて行き先を示していた。
(やはり人間臭さがないここは落ち着く、あそこは人間も魔女も多すぎるんだ)
そうこうしているうちに目的地にご到着だ。簡素ではあるが生活に必要な物が全て揃った家が林冠に隠されるように建っている。
(従者の人間がいない、また彼女の稽古にでも付き合っているのだろうか。まあ、家主がいないなら好きにゆっくりとくつろがせてもらおうか)
私は前庭に置かれた椅子に腰かけた。こうしている間は何もかも忘れて頭を空っぽにできる、とても貴重な時間だった。やがて日頃の疲労のせいで微睡んでいると、私がここに来た目的の人物が現れた。屈んで私の顔を覗き込む彼女はたった一人の従者に私を運ばせる気のようだ。つむじから毛先まで銀色に染まった髪が月明かりに照らされ輝いていた。私の黄金色とは対を成すような毒気を嫌う色だ。
嗚呼、もう少しこの微睡みの中に身を埋めていたい。
また、風が吹いた。刺すような冷たさで骨の髄まで震え上がりそうだ。
(嗚呼、ソウカ…………)
目を開ければそこは変わらず森の中のちんけな家で、林冠の隙間から見える月は性懲りもなく大地を借り物の明かりで照らしている。
(コレハ、夢ダ)
私は自覚してしまった。もう懐かしさには浸れない。
(意識ガ戻ッタノカ。モウ、ソレホド時ガ経ッタノカ…………。イヤ……ソレダケデハナイ?コレハ……進化?)
空を見上げる私を不思議そうに彼女が見つめていた。腕には私の言いつけどおりにしているようで、稽古で負った傷が所々にあった。
(進化。ツマリハヨリ強大ニナッタトイウコト。コノ意識ノ目覚メモソレダケ前倒サレテイルダロウ。詰マルトコロ…………)
私は目を瞑り思い出した。
(影ノ魔女モリー、血ノ魔女グルーニィ、皮ノ魔女ディア、石ノ魔女エンド、焦土ノ魔女ラー、幻想ノ魔女ルリア…………彼女タチノ内誰ガ生キ残ッテイルカマデハ私ノ魔法デハ分カラナカッタ)
私は目の前のいくら染めようとしても絶対に色の変わらなかった銀色の髪に触れ、それから柔らかな頬に指を滑らせた。普段私がやらないことに彼女は驚いてはいるが、拒んではいないようだった。
(嗚呼…………デキルノナラ、遠イ未来ヘト飛ビ立ッテ欲シカッタ)
私の頬に彼女が触れた。私はその手を上から包み込んだ。
(ドウカ、彼女タチト……ソシテ私ノコトヲ、ヨロシク頼ムヨ)
私は再び瞼を帳にし、身の凍るような微睡みの中に全てを投げ入れた。
彼女の気配が消え、和やかな森はここにはない。あるのはただ、地獄に堕ちた世界だ。
死せる大群。狂える魔女。私はもう、祈り待つことしかできない。
さあ、そろそろ覚醒するときだろう。