74話 女子大生は乗り越えたい
母さん。
その言葉を口にしたのはいつぶりだろう。
あの日、救われた日から数年は、事あるごとにその姿は思い出していた。
夢に現れ、いつまで経っても私を責める。
けど、母さんとは口にはしなかった。
現実でも夢の中でも。
だから無意識とはいえ、その言葉が出たことに驚いてはいる。
相島一。私の……母さん。
「大きくなったじゃない」
ビルから少し離れた場所にある喫茶店。対面に座り、そう呟きながら笑顔を見せる母さん。
ただ、全くもって信用は出来ない。
なぜ東京に居るのか。
なぜ声を掛けたのか。
なぜこのタイミングなのか。
前までの自分だったら、その姿を見ただけで冷や汗と動機が収まらず、昔の光景がフラッシュバックしてパニックになっていたに違いない。
違う。現になりかけていた。
その手で髪を掴まれた。何度もぶたれた。
その足で何度も蹴られた。
その口からは何度も咎められた。
思い出す地獄。
ただ、私は幸運だった。
それは今の私を大事に思ってくれる人がいる。
今の私を支えてくれる人達がいる。
全てを諦めて、全てに従う。あの時の私はいない。
そう思うと、震えもどこかに消えちゃった。
その代わり溢れ出たのは……怒り。
いまさら何をしに来たのかは分からない。けど、
私はもう、あなたには絶対に負けない。
「おかげさまで」
「おかげさまって、私は別に……」
「何もしなかった。だからこうして今の私がいるので……そういった意味では正しいでしょ?」
「なっ! まっ、まぁいいわ。それより、良く母さんだって分かったわね?」
「そりゃ、少し老けたけどあんまり変わってないし」
「そっ、そう? 嬉しい事言うじゃない」
……あんまり変わっていない。それは本当だ。じゃないと、一目で分かる訳がない。
それにその髪の結い方は嫌でも記憶にある。家ではそのままのくせに、男に会いに行く時はいつもその髪型だ。まぁとにかく、今はさっさと姿を現した理由を聞くのが先。
普通に考えて、私が東京に居るのが許せない。モデルなんてやってるのが許せない。だから、恥をかかせてやろうっていうが目的なら、わざわざ喫茶店に来たりはしない。失うものがない人なら、その場で適当に喚き散らせば目立って……その渦中が私ならネットやらSNSで拡散される。
つまり、この女はそこまで切羽詰まっている訳じゃない。化粧が出来て、服もそれなりに新しいという事は、普通に生活も出来ている。だから変な事して自分が晒されたくはない。
だとしたら? 何が目的?
「それで?」
「えっ、えぇ?」
「なんで現れたの? 何か用?」
「何って、そりゃテレビやら何やらで見てて一目で分かったよ笑美だって! 立派になった姿見てさ? アタシ今までの事色々思い出してさ? なんとかしてあの時の事謝りたいなって思ってね?」
「へぇ。そうなんだ」
「あの時は色々変だったんだよ。でもこうして笑美と離れて、自分のした事がどんなに愚かだったか分かったの。だからごめんなさい?」
その瞬間……背筋に悪寒が走った。
母さん……いや、この女が口にしたその言葉にはあの時の記憶が詰まっている。
『ごめんなさい? 今日は忙しくて会えないのぉ』
ある時は電話で。
『ごめんなさい! 待って!』
ある時は見知らぬ男の前で。
ただ、決まって数分後にはこう口にした。
『あぁ、めんどくさ』
この女の言葉は、何もない。
この女のこういう姿は、見慣れてる。
「はぁ。それで?」
「それでって……ごめんね? あんな事して」
「だからそれで?」
「えっ、その許してなんて言える立場じゃないのは分かってるけど……」
「分かってるなら言わないでもらえます?」
「はっ?」
「言える立場じゃないって分かってるなら、わざわざそれを口にしないで。謝罪の言葉も同様」
「なっ、なにを……」
「そんなの意味ないって、一番理解してるから」
「理解って……」
その時だった。目の前の女の表情が変わる。それはもう、憎いくらい見慣れた……あの顔に。
「黙ってりゃいい気になりやがってぇ! このクソが」
あぁ、こっちが本題か。
昔だったら、その顔がトラウマで何も言えなかっただろうな。けど、残念ながら今の私は昔の私じゃない。
「あの、喫茶店です。静かにしてもらえますか?」
「なっ! てめぇ……調子に乗るなよ?」
「それはどっちですかね? それで? 会いに来た本当の理由は?」
「くそが。まぁいい、ちょっとばかし金が必要でさ。貸してくれない?」
本題はそれか。お金の無心ね……
「嫌です」
「あぁ? 実の母親が困ってんだよ? 助けてやるのが子どもの務めだろ?」
「聞いた事ないですね。そもそもこんな時だけ子どもなんて言葉使わないでくれます?」
「ずいぶん偉そうじゃねぇか? だけどいいのかぁ?」
「はい?」
「相島笑美の母親がキャバクラと風俗勤務。そんなのがバレたら、お前の印象も悪くなるだろうな。おかげにお金も貸さない非情な女だって付け加えたら……どうなるだろうな?」
それはごく当たり前の脅し文句だった。実際にそんな事が公になったら、私は別としてサンセットプロダクションに迷惑が掛かる。でも、ハッキリ言って時期が悪かった。
「どうなるんですかねぇ」
「ははっ。だからさ、黙っててやるからとりあえず10万……」
「無理ですね」
「あぁぁ?」
「話ってそれだけですか? だったら私は失礼します」
「なっ、良いのか!? 週刊誌に直接言いに行ってやるぞ!?」
「どうぞ? 別に構いませんけど? それと、私はもうあなたの事は怖くありません。そしてさようなら? 母さん?」
私はそう言い放つと、席を立ち……店の出入り口へと足を進める。その背後で、何やら言っている女。
「てめぇ! お前だってどうせろくな人生送れねぇよ! なんたってアタシ……いや、アタシ達の血引いてんだからなっ!」
「このアバズレ!」
「さっさとくたばれ!」
ただ、その中で唯一気になったのは、
「ふざけんな! てめぇ良いのか? 週刊誌載るらしいな? 男が居るって! いい気味だっ!」
その言葉だった。
「すいません。うるさくしちゃって、お会計これで」
なんで週刊誌のこと知ってるの? まさかあの女が写真を? でも違う。もしそうだったとしたら、最初から週刊誌に情報提供はしない。こうやって直接来て、お金をせびるはず。
となると、週刊誌に情報を流した人とグル?
「……どこまでも汚い女」
心に抱いた最大級の軽蔑の言葉を吐き捨て、私は店を後にし……駅へと向かった。
えっと、次の電車に乗って……丈助さんと三月社長と合流だね。明日の最終チェックしないと。
……まさかあの女が来るとは思わなかった。
でも言ってやった。私、面と向かってあの女に言いたいこと全部言ってやった。
その瞬間、緊張の糸が切れたかのように急に体が重くなる。足が震え、襲い掛かる悪寒。
思わず私はトイレへと駆け込んだ。
「はぁ……はぁ……」
手洗い場に手を掛け、必死に自分を落ち着かせる。
うっ……なんか今になって気持ち悪くなって来ちゃった。足もなんかガクガクだし、ははっ……深呼吸深呼吸。
そう言い聞かせ、何度か深呼吸をすると……私は顔を上げ、鏡に映った自分の顔を眺めた。
見れば見るほど、あの女に似ている。
見ても見ても、あの女に似ている。
血の繋がった親子で間違いない。
けど、私とあの女は違う。
私には……大切な人達と、唯一無二の大事な人が居るんだから。
「やったよ……丈助さん。私やったよ? あいつに……うぅん、過去の自分を乗り越えたよ? だからね? 今日はいっぱい……褒めてちょうだいね?」
次話も宜しくお願いします<(_ _)>




