僕はまだ生たまねぎの味を知らない
「私のことは『弓子』って呼べばいいよ」
開け放ったシャッターの向こう。伸び放題な芝生の隙間を駆け抜けた風が、ふたりの制服をたなびかせる。じわりとした汗で張り付くシャツが、急激に僕の温度を奪っていった。
「君がここにいるあいだ、私の話し相手になってくれる? 夕弦君」
それが、僕と弓子さんの出会い。
たった一年、いや、半年にも満たない僕の宝物。
──四月──
まだ暦は四月だというのに、じりじりと照りつける日差しは暑い。大きな荷物と多くの視線を浴びながら、僕は先へ進む先生の後を追った。たくましい体をした生活指導の教師は、僕を気にもかけずどんどん進む。
プールの横、体育教師の隣、テニスコートの横、武道場の裏を通って、ようやく止まる。水泳部、バスケ部、テニス部、柔道部に空手部。それらの視線を浴び倒し、思わず溢れるため息。
「矢沢、ほら、ここだ。弓道場」
「……ありがとうございます」
教師はがちゃがちゃと突っ込んだ鍵を動かし、半ば壊す勢いで扉を開けた。引き戸の絶叫、これは相当開けられていないだろう。
「うーん……ちょっと建付けが悪いから、大切に扱えよ」
「あ、はい」
ちょっとどころの騒ぎではない。薄暗い中、奥に見えるシャッターは締め切られている。板張りの木目は年季入り、天井は高いがかなり狭い。
「まあしばらくは掃除ばっかりかもしれんが……安心しろ、仮顧問の村井先生が手伝ってくれるさ」
「ありがとうございます……」
僕は抱えていた荷物を降ろす。袋に包まれた弓、矢筒、弽袋、道着一式。ようやく一息ついた。
「わざわざお前のために鍵も引っ張り出したんだ。活躍、楽しみにしてるぞ。矢沢」
「……頑張ります」
貼り付けたような笑顔のせいで、表情筋がぴきりと痛む。教師は笑いながら、張り手のような勢いで僕の背中を叩いた。「帰るときに鍵はかけろよ」と言い残し、そのまま彼の姿は遠ざかる。武道場の角を曲がり、彼の姿が見えなくなった瞬間に扉を閉めた。
再度、ため息。まずは暑い。シャッターを開けよう。そう思って奥へ踏み出したその時、だった。
「あせったなー。扇風機止めちゃったから、暑かった」
声、振り返る。練習用の巻藁、その影から現れたのは、少し癖のついた長い黒髪を持つ女性だった。この学校の制服、彼女は白い手でシャツの襟ぐりを掴み、ぱたぱたと扇いでいる。
「君が噂の一年? 先生と来るなんて聞いてないよ。早くシャッター開けて?」
なんだ、この人。凍りつく僕を他所に、彼女は扇風機のスイッチをつけた。思いっきり家庭用、巻藁の側に置かれた机の上に設置している。そのまますたすたと歩いて、玄関先に並べた僕の弓具一式に目をつけた。
「おお、これが弓だね? 古いのはいっぱい置いてあるけどきれいなのは初めて見るなー」
「ちょっ! 触んないでくださいよ!」
「あ、喋った」
いたずらっぽく笑う顔。長いまつげがふわりと揺れる。
「……なんで弓道場にいるんですか」
「ここの鍵、開いてるんだ。ここから入って、本を読んだりスマホ触ったりするのに使ってたんだよ」
「家帰ってすりゃあいいじゃないですか」
「家に帰りたくないからに決まってるじゃん。それより私も手伝うからシャッターを開けよう」
彼女は笑いながら駆け寄り、僕の隣に立った。艶のある黒髪、額にじわりと浮かぶ汗。それから目をそらしつつ、思いっきりシャッターを上げた。凄く重いし、凄い音がした。
開け放った途端、「季節はまだ春ですよ」と言わんばかりの涼しい風が吹き込む。荒れ放題な芝生に、伸びっぱなしの植え込み。的を置くはずの安土はぼろぼろ、ひどい有様だ。
「あー涼しい! 生き返るー」
彼女はそのまま道場の床に寝転んだ。やっぱり、はじめから感じた違和感はそこで解決する。
「あなたが、ちょこちょこ掃除してたんですね。道理で、何年も使ってないって聞いたのに、埃が全然無いと思った」
「そうだよ。理想の環境じゃなきゃ、リラックスできないじゃん? せっせと掃除してたんだよ」
「なら玄関とかシャッターとか、強いて言うなら外も掃除してくださいよ」
「私はそんなところ使わないもん」
彼女はそのままごろんと寝返り。荒れ放題な外を見て、げんなりする。まともに練習するまで一週間はかかりそうだ。やっぱり時間とお金をかけても、市の道場に通えばよかったかもしれない。
「お掃除頑張ってね、たったひとりの弓道部君」
「……なんですか、それ」
「私らのクラスでも噂になってるよ? 小学生の頃から弓道をやってて、大会取りまくってる一年が弓道部を立て直すって」
「……大会取りまくってなんかないですし、立て直すつもりもないですよ」
「ふうん」
高校に入学してから半月。部活動も特に決まらず、悩んた結果道場だけでも貸してくれと頼んだら、これだ。その噂の通り、僕は小学生時代から親の影響で弓道をしている。そこでまたまたいくつかの大会で結果を残しただけ。そもそも競技人口が少ないのだから、長い経験が結果につながるのだ。
「君の名前は?」
「……矢沢夕弦、です。一年。……あなたは?」
問いかければ彼女は、少し悩んだ素振りを見せて、顔を上げた。
「秘密にしよっかな。でもヒントは上げる、三年だよ。敬ってよね」
「なんでですか。不法侵入者なんて、先輩といえど敬えません」
「失礼な。これは取引なのだよ、後輩君」
そして、冒頭へ至る。
「私のことは『弓子』って呼べばいいよ。君がここにいるあいだ、私の話し相手になってくれる? 夕弦君」
──五月──
左手の弓、右手の矢。両手を腰に当て本座に立って、十五度の礼。一、二、三歩で射位に立ち、脚を開く。二本矢を置き、弓を上げる。視線を滑らせ、矢の確認。見る、射る矢を取る、視線を手元へ戻す、矢の表面をなぞりながら視線で追う、そして筈を手元に寄せ、番える。
「面倒なんだね、とっととすればソッコーで終わるのに」
「……練習中なんですけど」
「道ってつくもの、そういうの多いよねー。無駄というかやけに丁寧な動作多いっていうか」
「静かにしてくださいよ」
「早く引けー」
「はいはい」
射法八節。引く際のルール。
足踏み、弓構え、打起こし、引分、会、離れ、残身字を同じくして残心。
放たれた矢は的を外れ、その後ろの安土に突き刺さった。
「外したじゃん」
「気が散ったんです」
「なら次は黙るよ」
「引いてる間はずっと黙っててくださいよ」
二本目、番えて、射る。今度は弓子さんも口を挟まず、集中。矢は真っ直ぐ的の中心から左数センチほどに刺さった。
「ナイスぅ」
「茶々入れないでくださいよ。弓子さん」
四本引き終わった僕の目の前に、紙飛行機が飛んでいく。
「意外と飛ぶね」
「暇なら帰ってくださいよ」
「暇じゃないよ。話そーぜ夕弦君」
「はいはい」
──六月──
「一年生で総体って凄いね」
「他に一年全然いませんでしたよ」
「何位だったの? 決勝いった?」
「二次予選で落ちました」
「……凄いのかわかんないな」
回収した矢を拭いている最中、煽るように弓子さんが話しかけてくる。二次予選の結果を聞くと、頭に疑問符を浮かべていたが……わからなくていい。一回勝ち残っただけだし。
「道場が悪かったんです。初めて引く学校だったし」
「うわ、言い訳じゃん」
「違います」
「言い訳でしょ」
「違います」
来年は絶対勝つ。
サンダルを脱いで道場に上がり、片付けの準備を始める。弦を外し、確認。そろそろ新しい弦にしようか。
「遅くまでいていいんですかホントに」
「いいのいいの。帰りたくないから」
「ならなんで安土手伝ってくれないんですか」
「君しか引かないんだから君だけで片付けなよ」
「弓子さんも道場使ってるでしょ」
「それとこれとは別──」
口が減らない人だ。
──七月──
「夕弦君の好きな食べ物って何?」
「……話すことないなら黙っててくださいよ」
「おしゃべりしにここにいるんだよ私は」
あいも変わらず巻藁室でごろごろ寝そべる弓子さん。図書館なりファミレスなりいけば涼しいし快適なのに、なぜこの人はここに居座るんだろう。
「……ぶりしゃぶですね」
「おじいちゃんじゃん」
「そういう弓子さんは?」
「……鰹のたたき」
「おばあちゃんじゃないですか」
「高知県民に謝れ夕弦君」
「ぶりしゃぶ好きにも謝ってくださいよ」
弓子さんはじとっと僕を見つめる。不機嫌になったのだろうか、めんどくさい人だ。
「でも、鰹のたたきは好きですよ。薬味つけまくって食べるのが好きです」
「そこに関しては同意。美味しいよね」
「そうですよ。タレににんにく混ぜて」
「そうそう、にんにくがいいんだよ」
「そこに生姜をどばっとかけて……」
「そこに生たまねぎを山程乗っけて……」
「え?」
「は?」
「……」
「……」
「いや、生たまねぎはないですって。あれ、生で食うもんじゃないですって」
「生姜こそないって。そのまんま噛んだら口の中ギャってなるじゃん。絶対玉ねぎだって」
「これは戦争ですよ弓子さん」
「それはこっちの台詞だよ夕弦君」
「……」
「……」
しばしファイティングポーズで向かい合う。先に折れたのは僕だ。時間を無駄にした気がする。
「不毛ですね」
「よし、夕弦君。いつか君に本物の鰹のたたきを教えてあげよう」
「いらないですって」
──八月──
「夏休みまで来るとか、いよいよ暇人なんですか弓子さん」
「暇人じゃないよ。勉強してる」
「他所行ってしてください」
「行く宛がない」
「……ぼっち」
「夕弦君もでしょ」
植え込みから蝉が飛んだ。
「君こそ私が来なくなったら学校で一言も発さなくなるくせに」
「そこまでひどくないですよ」
「弓子サンは心配してるんだぞー?」
「余計なお世話です! てか弓子さんも呑気にしてますけど受験生でしょ!」
「……そうだよ」
「ここに来てる場合なんですか? ホントに……」
「そうだよなぁ。だから勉強してるって」
「……今じゃなくて今までの話ですよ」
顔をそらして口笛を吹く……いや、吹けてはないな。
「夕弦君と同じ学年ならなぁ」
「はい?」
「なら、わざわざここじゃなくても話せただろ?」
「……話せなくてもいいてしょ、別に」
「つれないこと言わないでって。てか、夕弦君は進路決めてる? 進学? 就職?」
「進学です」
「どこ?」
「……なんで言わなきゃなんないんですか」
「教えてよ」
「……」
──九月──
「弓子さん体育祭いました?」
「いたよ、失礼な。夕弦君が見落としてるだけだろ」
「どっからどう見てもいなかったんですけどね……」
「それより、夕弦君二人三脚下手すぎじゃなかった?」
「何見てるんですか!!」
「見えたんだもん。よく転ばなかったね、練習してなかったの?」
「してませんよ……全然」
「ふうん」
「……」
「……」
その時、ふと僕は思った。
「……弓子さん、ほんとに学校にいます?」
「いるに決まってんじゃん。何、急に」
「いや、あんまりに見かけないんで……」
「そんな、道場だけで出会う幽霊の先輩って、ライトノベルじゃあるまいし」
「……」
「……」
「先輩ライトノベル読むんですか?」
「いや、読まない。適当に言っただけ」
「良くないですよそういうの……」
「とにかく、私は幻やら幽霊やらじゃないからね」
「はいはい」
──十月──
「……中間テスト、どうだった?」
「……まあまあです」
「何点?」
「なんで言わなきゃなんないんですか」
「言ってよ。言わなきゃ巻藁はげちゃびんにしちゃうよ?」
「うわ──!! やめてください言いますから!!」
──十一月──
「──ってなわけで、明日から私は来ないから」
「は?」
「……」
「……」
「……何その反応」
「……いや、急過ぎて」
「期末テストがやばかったからね」
「今更焦るんですか、今まで余裕ぶっこいてたのに」
「余裕ぶっこきすぎたんだよ」
「……」
「……」
「……」
「何? 寂しい?」
「違いますけど」
「まあ、学校で会えば話してあげるよ」
「いいですって」
「んじゃ、じゃあね」
「はい、さよなら」
──三月──
「……」
「……ほらね」
吹き付ける風、まだ冬の冷たさを残した風は、彼女のスカートを翻す。少し癖のついた髪が揺れる様が、僕の目にはゆっくりに見えた。
桜の蕾はまだ冬眠中。目覚めているのは学生達と先生くらい。遠くから聞こえる運動部の声。咲いていない桜を埋めるかのごとく、あちこちで花束が飛び交っている。
そんな中──花束も喧騒も縁遠い弓道場に、その人はいた。
「実在しただろ、私」
「……はい、羽田結美さん」
卒業式、退場する先輩達の姿を、僕ほど必死に目で追った後輩はいるまい。ほぼ身を乗り出すようにして、僕は「弓子さん」の姿を探した。
「不審極まりなかったよ、夕弦君」
「仕方ないじゃないですか。あそこで見つけられなかったら、二度と見つけられなかった」
「そんなことしなくても、私は『弓子さん』で良かったじゃん」
「……駄目ですよ」
駄目だ、駄目なんだ。それじゃ、
「名前を知らないと、僕らはここで終わってしまう」
「何が終わるの?」
「関係」
そう言うと弓子さん──結美さんは、笑った。癖のついた髪を耳にかける。
「おしゃべりするだけの関係、それで良かったじゃん。私は、それで充分だった。君はまだ、二年も学校生活があるんだから」
「僕には、弓子さんしかいなかった」
「……」
「僕は、ぼっちですよ。友達なんて、いませんよ。弓子さんがいなくなってから、学校で一言も話さないことだって、何度もあった」
「……私も同じだよ」
「え」
「私だって、ひとりだったよ。夕弦君に言われた通りだったんだよ。だから、ずっとここにいた。体育祭だって、体調悪いって保健室で見てた。そんなカッコ悪いところ見られたくなくて、学校では夕弦君を避けてた」
「……逃げてたんですか」
「逃げてたよ。でも、もうやめるんだ。大学では、変わってみせる」
弓子さんは顔を上げる。目尻を小さく拭い、それから卒業証書の入ったボードをかざした。
「夕弦君なら大丈夫だよ。きっと来年には、たくさんの後輩が来るし、友達もできるさ」
「どこから来るんですかその自信」
「弓子さんの勘、だよ。……関係が終わるって言うならさ」
結美さんは弓立てへ近づくと、そこへぶら下げた弽袋から弦巻を引っ張り出す。
「ちょ!?」
「いつかさ、本場の鰹のたたき、一緒に食べよう!」
人の弦巻を引っ手繰った彼女は、笑いながら道場の玄関を出る。
「夕弦君に、生たまねぎの美味しさを教えてあげるからさ!!」
遠ざかる彼女の背中を、僕はぼんやり見届ける。
「……」
伸ばした手は行き場を無くし、空をかいて項垂れる。
──六月──
袋にしまった弓を担ぐ。引っ掛けた弽袋を掴み、道場内を見た。
僕が入部したときより、圧倒的に増えた道具達。道場の隅に積もった埃。シャッターは油を刺して開きやすくなった。壁にかかった団体戦準優勝の賞状、後輩達との記念写真。
今日で僕の、三年間の部活動は終わる。多くの後輩、苦い結果、残すのはそれらだけでいい。……後輩達はまだ顔を出せと泣きついてきたが。
「……」
思い出すのは、弓子さんとの日々。二年に上がって後輩が増えて、賑やかになっても──あの頃の会話には、及ばない。クラス替えして友達ができても、変わらない。
あの人が寝そべっていた巻藁室の掃除は欠かさなかったし、あの人が毎日出入りしていた窓は開けっ放し。プリント類も、あの人が紙飛行機に使っていたからため続けている。
弓子さんはいなくなっても、僕の心に多くの痕跡を残しまくったのだ。
「おーい、忘れ物」
背後から響く声。巻藁室の中からだ。
「私の言った通りになったみたいじゃん?」
少し癖のついた髪。僕の汗ばんだ体に道着が張り付く。もともと熱を感じていた体、一気に温度が上がる。
「総体、どうだった?」
「……団体は競射で負けて、四位。個人は、三次予選で負けました」
「やっぱり凄いのかわかんないな。でも、団体四位おめでとう」
笑顔、あの頃より、少しだけ大人っぽくなった表情。
「そうだ、夕弦君」
「なんですか、結美さん」
「約束、覚えてる?」
「約束?」
彼女は笑って、手に下げたものを見せつける。保冷バッグと、あの日取られた弦巻。
「いつか君に本物の鰹のたたきを教えてあげよう──言っただろ?」
「言いましたね」
「本場高知のやつだよ」
「マジですか」
「……それとさ、夕弦君」
「はい?」
「生姜って、意外と美味しいね」
「そうでしょうよ」
「夕弦君は、生たまねぎ食べれるようになった?」
「うーん……やっぱりあれは、生で食べるもんじゃないと思いますね」
「おこちゃま、め」
道場の戸締まりを確認する。あの日から、開けっ放しの窓も──ようやく、鍵をかけた。
「よーし、おこちゃまな夕弦君に、生たまねぎの旨さを叩き込んでやるからね!」
「え〜今更覆るとは思いませんけど」
「鰹のたたきと生たまねぎをナメるんじゃあないよ」
「……」
「……」
「……結美さん」
「何?」
「連絡先、交換してもらえませんか?」
「いいね、私も夕弦君に話したいこと、たくさんあるんだ」
これが、僕と結美さんとの出会い。
長く長く続く、僕らの話は終わらない。
「……」
「……」
「……どう?」
「……旨いです」
「でしょ!?」
「今まで食ってこなかったの、損した気分ですよ」
「は? 食わず嫌いだったの?」
「はい」
「うっわ〜損してる」
「好きです」
「えっ!?」
「生たまねぎ、意外と」
「あっ……ふぅん……」
「ところで、結美さんどこの大学行ったんですか?」
「あー、えっと……────」
「は? 俺と同じとこ志望じゃないっすか」
「偶然だよ、偶然」
「どーだか! 結美さん、俺のこと大好きですよねホント」
「好き」
「はっ!?」
「生姜、美味しい」
「……話聞いてないでしょ」